カラカソ以降からチャベス時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 13:48 UTC 版)
「ベネズエラの歴史」の記事における「カラカソ以降からチャベス時代」の解説
1989年に民主行動党のペレスが再び政権を握ったが、原油価格の低下は債務危機と共に緊縮財政を余儀なくし、こうした中で財政再建のために新自由主義モデルを導入しようとした。この政策により1989年に実施された公共料金の値上げはそれまでの石油収入のレント政策で宥められていた低所得者の怒りを招き、カラカス暴動(英語版)(カラカソ)が起きた。組織化されていない非武装の大衆を相手に、政府は軍の出動、発砲を命じ、この事件で700人以上(3000人とも言われる。諸説あり)の死傷者を出した。 こうした状況下で1992年、軍の空挺部隊の一員だったウゴ・チャベス中佐が政治改革を求めて、2月と11月の二度に渡り数十年ぶりに軍事クーデターを起こそうとしたが、これは失敗した。翌1993年にはコペイの創始者のカルデラが貧困層や中間層へのポプリスモ的な政策を掲げて当選したが、それでも経済停滞は貧困層への十分な対策を立てられなかった。1998年12月の選挙で、1992年の二度のクーデター未遂事件の首謀者で、第五共和国運動を率いたウゴ・チャベスは貧困層からの圧倒的な支持を受けて当選し、民主行動党とコペイ党の二大政党制は崩壊した。 1999年に大統領に就任したチャベスは徐々に立法、司法、行政を自派で占めて行き、この事実上の独裁政権は反米主義、反新自由主義、反グローバリズムを訴えて次第に国内の他の政治勢力やマスメディアへの締め付けを行い始めた。こうした中で2002年にアメリカ合衆国の支援を受けた反チャベス派によるクーデターが実行されたものの失敗に終わる。さらにチャベス大統領は解放者に敬意を示して1999年12月に国名を、ベネスエラ共和国からベネスエラ・ボリバリアーナ共和国(ベネズエラ・ボリバル共和国)に変更した。2006年3月には国章の馬の向きを「右」方向に走っているデザインを「左」方向に走っているデザインに変更し、その後公用の国旗も星が一つ増え、左上に変更された国章が加えられたものに改正された。 2007年11月28日にチャベス大統領が、「コロンビアでウリベ大統領が在任する限り、同大統領、同政府といかなる関係も持たない」と述べたのを受けてマスコミは「国交断絶」と報じている。 2008年3月1日に隣国のコロンビアがその西隣国であるエクアドル領内に拠点を構えていたコロンビア革命軍(FARC)への越境攻撃を行ったことに抗議し、大使召還を発表し国軍に国境への増派を命じた。6日にエクアドルもコロンビアとの国交断絶を表明し、親米右派コロンビア対反米左派ベネズエラ=エクアドルの構図で対立が深まるのではないかと懸念されている。
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