オーストラリア産サラブレッド輸入の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 10:05 UTC 版)
「豪サラ」の記事における「オーストラリア産サラブレッド輸入の歴史」の解説
開国以来、横浜では外国人による競馬が開催され、外国からの輸入馬が競走馬として用いられた。オーストラリアのほか、アメリカや中国産の馬が競走に用いられ、その後に繁殖用に供された。特にミラ、第二メルボルンなどは競走・繁殖ともに優秀な成績を残している名馬である。最も狭義の「豪サラ」としてこれらのものを指す場合がある。そのほか、明治初期から官民の牧場にも外国産の馬を種馬(牡牝とも)として輸入するものもあったが、その数は少数にとどまる。 日清・日露戦争を通じて西洋列強の陸軍との比較で著しく軍馬が劣ることが発覚すると、明治政府は内閣に専門部局を設けて軍馬改良に努めることになり、西洋の種牡牝馬を輸入して全国に配布し、地場の国産馬の改良を試みた。日露戦争の拡大により前線での軍馬不足を懸念した陸軍省は、日英同盟を頼ってオーストラリアから3701頭のウマを緊急輸入した。その後日露戦争は急速に終結し、輸入したウマは軍馬として用いられることなく、日本国内の馬匹改良のため農商務省を経由して1頭200円で払下げられた。 その後しばらくは種馬の輸入はヨーロッパ(イギリス、ハンガリー、フランスなど)からが主流だったが、第一次世界大戦が勃発してヨーロッパからの輸入が困難になると、再びオーストラリアからの輸入が行われた。 この時代は、まだ血統登録に基づくサラブレッドの定義が成立しておらず、日本国内においても公式な血統登録制度は存在しなかった。1921年(大正10年)に施行された馬籍法では、馬の「種類」は登録されたが、父母をはじめ血統に関する規定はない。したがって、サラブレッドであることと血統書の有無は無関係であり、血統書が存在しなくても「サラブレッド」だった。「豪サラ」は単にオーストラリア産のサラブレッドと、「内サラ」と呼ばれる国産のサラブレッドとを区別する用語だった。限定的であるが、このほかアメリカ産の「米サラ」や、中国産、ロシア産の競走馬が存在した(馬産ではこれらの「外国産馬」に対して日本産のものを「内国産馬」という。)。 高いものでは1頭2万円もする馬をオーストラリアから輸入し、競馬で使った後に種馬として供用するものもあった。豪サラは競走能力で内サラを圧倒し、明治末期では1マイル(約1600メートル)の走破記録では国産馬と外国産馬では2から3秒ほどの差があった。だが競走馬生産の目的が国内の産馬業奨励にある以上、これを保護するため競馬においては豪サラは出走に制約が課され、限定された競走にしか出走できず、国内の多くの高額賞金競走からは締め出された。 戦争の終結により輸入は停止され、馬券発売の禁止により競馬も低迷したが、大正後期に馬券の販売が合法化されると各地の競馬場は活況となり、競走馬不足が起こると、オーストラリアからの競走馬の輸入が再開された。この頃になると、日本国内でもイギリスから輸入したサラブレッド種馬による生産を行う産馬業者も増加し、一部の国産サラブレッドは豪州産馬に匹敵する競走能力を示すものも現れ、国産馬と豪州産馬が対戦する名物競走が創設され話題を呼んだ。馬主個人による輸入は稀で、一般には競馬主催者がまとめて輸入したものを抽選で希望者に配布する方式をとったため、これらの競走馬は「豪抽」と分類された。しかし過剰な豪州産馬の輸入は国内の事業者の発展を阻害するとの懸念により、数年で輸入は再び停止された。この時期に輸入されたものの中でバウアーストックが有名である。
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