オーガスタの黄金時代
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「オーガスタ (ジョージア州)」の記事における「オーガスタの黄金時代」の解説
1948年、アメリカ陸軍はゴードン砦に信号通信訓練センターと軍事警察学校を移設したことで、町の様相が新しくなった。その後の1948年11月、新しく建設されたダムにより、クラークスヒル貯水池ができ、水力発電によるエネルギーを供給するようになった。1950年、原子力発電施設を運転するサバンナ・リバー・サイトを建設する計画が発表され、市の人口は約5万人にまで膨れた。オーガスタは20世紀後半、南部の都市工業地帯の先駆けとなった。 アメリカの公民権運動は合衆国の他の地域同様オーガスタにも影響を与えた。1961年、ソウルミュージシャンのレイ・チャールズは、ベル・オーディトリアムの公演に先立って、黒人の聴衆が白人によって隔離されバルコニーに座らされることを知って、その公演を中止した。 1970年5月、ケント・オハイオ州立大学射殺事件とジャクソン・ミシシッピ州立大学殺人事件が発生。同月11日には、警察の留置所で黒人の容疑者が殴り殺されたと噂から抗議デモが行われたが、やがて暴動に発展。暴徒は市内の商店から略奪、放火を繰り返した。暴動を鎮圧するために出動した州兵と警察官は、暴徒に向け発砲。3人が射殺、20人以上が負傷した。 1970年代遅くにオーガスタの中心街から郊外のショッピングセンターへの遷移が始まった。これが都市の荒廃傾向に繋がった。この傾向に抗して、市の政治家と実業家指導者はオーガスタの隠れた川沿い(堤で隠されていた)を美しい川沿いの遊歩道に変え、公園、円形競技場、ホテル、博物館および画廊を備えて生き返らせた。川沿いの遊歩道の最初の部分は1980年代遅くに開放され、1990年代初めまで拡張が続いた。しかし川沿いの再生はオーガスタの主要道路を蘇らせるようには見えなかった。大通りブロード・ストリートから事業家が去り、商店の扉は閉ざされた。 1995年芸術家集団と中心街の支援者がファースト・フライディと呼ぶ毎月の催しを始めた。その目的を中心街に群集を呼び戻すことに据えた夜の祭りであった。地元の音楽隊やストリート・パフォーマーを呼び、画廊は遅くまで開けていた。1995年以降、新しい事業が中心街に戻ってきた。多くの新しいレストランやバーである。ブロード・ストリートの上部ブロックはアーティスト・ローと命名され地元の者が所有する画廊が幾つか集まった。ファースト・フライディは現在も続いており、中心街の再生努力を続けている。エンタプライズ・ミルが最近改装されて事務所や住居が新しくなった。新しい住居が中心街で建設されている。事業が中心街に戻り新たな繁栄をもたらしつつある。
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