エロティシズムと有限性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 15:08 UTC 版)
「エロティシズム」の記事における「エロティシズムと有限性」の解説
20世紀に入ってジョルジュ・バタイユは、エロティシズムが人間の主観性と、人間性の境界線を解消する機能を持っているが、合理的な世界を解消するのは一時的な現象であると分析した。バタイユによれば、エロティシズムとは有限な個体に対してしか現れない。有限な個体は自己中心的であるが、我知らず他者との共同へと促されているのを感じる。このように自己を失う危険を冒しつつ他者との共同へと、肉体的な共同へと、さらにエマニュエル・レヴィナスが肉体の感性的近接性を説明するために用いた言い方で言えば感じるものと感じられるものの共同へと身を溶け込ませようとすることが、すなわち快楽なのである。エロティシズムが現れる理由の大きなものは、われわれのものとは異なるようにつくられた身体に対する好奇心、あるいはむしろそのような身体に対する魅惑なのである。 もっと根底的にはエロティシズムは、異なる二人の人物がもつ二つの世界がやがて一致するという約束である。確かにそのことは肉体的にでなければ不可能であるが、いずれにせよ一つの約束なのである(プラトンの『饗宴』中でアリストパネスが語る逸話を参照)。 このように愛の営みは冒瀆という性格を帯びている。エロティシズムは戦いであり、他者を隠れ家から引きずり出し、身をさらさせる。サルトルによれば愛撫とはほんものの魔術なのである。愛撫を受けると身体は備給され、身体化される。すなわち単なる肉体としてではなく、人格の住まった肉体として、自由として現れ出るのである。とはいえ ミシェル・レリスも言うように、「聖なるものに属する言葉を用いる」のは「結局のところ聖なるものを破壊し、その異質性を少しずつ剥ぎ取っていくこと」にすぎない。 同じくプラトンの『饗宴』においてソクラテスは、エロティシズム(エロス)が恋人同士の共同とか補完とかより気高いものを目標としていると述べている。すなわちエロティシズムは「真理」へ向かう身ぶりだと言うのである。 宗教としては、エロティシズムは個人を、個を超える創造的な力に直面させる。 おそらくそれは神とか美の観念とかいったものというよりも、生命とか、生物学的意味での性(セクシュアリティ)とか、繁殖といったものである。 聖なるものとしての性は畏怖すべきものでもあり魅惑的なものでもある。バタイユによれば、性は反道徳的であるというよりも、生命と種の保存の名において個人的道徳を失効させるものである。エロティシズムは、個体が自己の中に閉じこもることを拒むという点では死と共通するものをもっている。個体の意識や自我はこの閉じこもりを基礎にしているからである。性衝動が繁殖と結びつくと、自己保存の本能という地平を越える。個体はやがて滅びるから繁殖を行うのではなく、生命が更新されるためには個体は滅びなければならないのである。生と死という一見反対のものが一つであり、豊饒をもたらすという芸術を古代人は「死と再生の秘儀」という形で伝承してきた。ギリシア神話でそれはディオニュソスと呼ばれたもので、バッカスの暴力的な秘儀の中に狂信女たちは陶酔を見たのである。
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