エベレスト登頂後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 03:38 UTC 版)
「エドモンド・ヒラリー」の記事における「エベレスト登頂後」の解説
エベレスト登頂後はイギリスの南極横断遠征隊に参加し、1958年にはトラクターで南極点に到達した。 1985年から1989年まで4年半に渡り、駐インド高等弁務官(現・インド高等弁務官 兼 バングラデシュ・ネパール・スリランカ大使)を務めた。1985年にニール・アームストロングと共に雪上飛行機で北極点に到達し、北極点・南極点・エベレスト山頂の三極を制覇するスリー・ポール・チャレンジを世界で初めて達成した。 慈善団体「ヒマラヤ基金」を創設し、ネパール・ナムチェバザール地区の開発に力を注いだ。この地区に彼が1960年に建設したクムジュン小学校の校庭にもヒラリーの銅像がある。1975年、ネパール滞在中の彼の元に向かっていた妻と次女を飛行機事故で失う。 晩年はニュージーランドで再び養蜂業を営む。1989年にジェーン・マルグリューと再婚(彼女の前夫ピーター・マルグリューはヒラリーの登山家仲間で、1979年にニュージーランド航空901便エレバス山墜落事故で死去)。2008年1月11日に心臓発作により88歳で死去。同年1月22日にオークランドにて国葬が行われ、遺灰は遺言によりオークランドの海に撒かれた。 現在主流となっている商業公募隊によるガイド登山には非常に批判的で、後に大量遭難事件で死亡したロブ・ホールを名指しで非難することもあった。 冒険家で作家のピーター・ヒラリーは長男。ピーターは2002年に、エベレスト登頂50周年を記念してテンジン・ノルゲイの孫、タシ・ワンチュク・テンジンとともにエベレストに登頂に成功した。 2015年、遠征時の日記・写真・装備や晩年に至るまでの講演を収録したオーディオ・ビジュアル素材などがユネスコ記憶遺産に登録された。
※この「エベレスト登頂後」の解説は、「エドモンド・ヒラリー」の解説の一部です。
「エベレスト登頂後」を含む「エドモンド・ヒラリー」の記事については、「エドモンド・ヒラリー」の概要を参照ください。
エベレスト登頂後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/29 00:10 UTC 版)
「テンジン・ノルゲイ」の記事における「エベレスト登頂後」の解説
テンジンは後にダージリンのヒマラヤ登山協会の実地訓練監督に就任した。1978年にはヒマラヤでのトレッキングを提供するテンジン・ノルゲ・アドベンチャーズを創設、2003年現在、息子のジャムリングが経営している。ジャムリング自身も1996年にエベレスト登頂に成功している。 1963年に外務省の招聘により来日した。この時は、自分の名の音が日本語の「天神」と同じだと聞いて喜んだという逸話がある。1964年2月2日に日本山岳会の招きで来日したことがある。 テンジンは1986年、ダージリンにて死去した。
※この「エベレスト登頂後」の解説は、「テンジン・ノルゲイ」の解説の一部です。
「エベレスト登頂後」を含む「テンジン・ノルゲイ」の記事については、「テンジン・ノルゲイ」の概要を参照ください。
- エベレスト登頂後のページへのリンク