イトムブウェ山への移住後周辺住民との不和とは? わかりやすく解説

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イトムブウェ山への移住後・周辺住民との不和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/02 01:26 UTC 版)

バニャムレンゲ」の記事における「イトムブウェ山への移住後・周辺住民との不和」の解説

バニャムレンゲベルギー当局願い出て、フレロの首都だったレメラ(Lemera)からさらに遠いイトムブウェ(Itombwe)山へ移住する許可得た。イトムブウェはルジジ(Ruzizi)平野の上にあり、標高は約3000m程度高原である。イトムブウェは、いもやとうもろこし、豆の栽培には適した土地であるが、通常の農耕行えず、バニャムレンゲ牧畜で生活をした。バニャムレンゲはイトムブウェへ移動したため、もとのムレンゲにツチ族はいなくなり、代わって、ヴィラ族が住むようになった。 移住するバニャムレンゲはただちに周辺住民軋轢起こすようになった放牧した家畜周辺農地荒らしたことや、ツチ族家父長であったり、食べ物が違う、自分達に固有の神話持っているなど周辺住民習俗違った自分たちの風習固持し周辺住民と交わろうとしなかったことなどが原因である。 移住した当初自分たちで農耕行っていたが、しだいに周辺のフレロをフツ族のように扱おうとし始め農耕はフレロに行わせ、自分たちが育てた家畜道具にして経済的支配始めようになった。ただ、ルワンダ本国ツチ族とは異なりバニャムレンゲ自分たちの土地持っていなかったため、フレロをフツ族と同じ地位に置くことはできなかった。 特に、バニャムレンゲ混交やり方周辺住民不満に思っていたようである。バニャムレンゲ周辺住民と交わることを嫌い、同族内での結婚を望む者が多かったまた、特に婚資問題から、非常に裕福なフレロの男性でないとルワンダ人との結婚難しかったことなどから、混交はあまり起こらなかった。しかし、第2、第3婦人を娶ろうとする場合は、ツチ族以外の女性迎えることが多くその間にできた子供は、ツチ族の間にもうけた子供よりも低い身分置かれるなど差別的扱われたことが嫌われたらしい一方バニャムレンゲは他部族から差別対象になった。「ボー(Borペニスあるいは物を意味する、この地方スラング)」と呼ばれたり、ブルンジでは「カジュジュ(kajuju、この地方生えキャッサバ似た植物キャッサバ違って食べられない。)」と呼ばれたりした。バニャムレンゲは、この地域他の部族異なり割礼風習がなかったため、「カフィリ(kafiri、『皮かむり』という意味)」とも馬鹿にされ、強い屈辱感感じた。「バニャムレンゲルワンダ帰れ」という歌やその替え歌ではやし立てられたり、「RRR(Rwandas return to Rwandaルワンダ人はルワンダ帰る)」と呼ばれることもあった。 一方でバニャムレンゲ自分たちの土地権利自治権限要求し続けた。これが、彼らの政治宗教における主要な関心事だった。植民地時代ベルギー当局は、一時期バニャムレンゲ長にして、周辺地域の他部族をその管理下に置いたこともあったが、1952年にはそれを解消している。後年発生したバニャムレンゲ周辺住民との対立大部分は、このようなベルギー首尾一貫しない政策起因するという。一方で1944年ヴィラ支配地区(Bavira chefferie)内のバニャムレンゲ1つ支配地区にまとめる要求出したが、ベルギー側に拒絶された。ベルギーバニャムレンゲ自治権拒絶し続けたのは、権利認めるとバニャムレンゲ周辺部族を排除し始めることを恐れてのことだった。ザイールとして独立した間もなく1961年には、バニャムレンゲ自治を再び持ち出しヴィラ支配地区内のビジョンボ(Bijombo)を1つグループ(groupement)として認めるように訴えたが、これも拒絶され、より下位のsous-groupementとしての認められた。1969年には、ビジョンボの長としてムニャムレンゲを選んだところ、それをめぐって解任再任騒動持ち上がるなど自治をめぐる問題今日までトラブルになり続けている。 1960年ベルギーから独立した際、バニャムレンゲはフレロから、ヨーロッパ人と同様、故国帰るようにと求められた。同様の現象は、旧ザイール他地域(ルジジ谷(Ruzizi valleyのルンディ(Rundi)族)、あるいはルバ-カサイ(Luda-Kasai)のルルア(Lulua)族、ルンダ(Lunda)族)でも生じている。 当初経済的に搾取され存在であっても、フレロはバニャムレンゲとの友好関係優先して物々交換続けた。しかし、年月が下るにつれ、フレロは耕作地減少悩まされるようになったため、隣人であるバニャムレンゲとの友好関係維持よりも、自分たちの収益増大目を向けざるを得ないようになった自分たちの余剰作物市場売買するほうがバニャムレンゲとの物々交換よりも有利になったため、フレロは1972年までにはバニャムレンゲとの交易をやめるようになったバニャムレンゲ食料困るようになり、特に1964年発生した暴動家畜失い自分たちで農作業を行うか、労働者として裕福なフレロに雇われるになった。これは、バニャムレンゲにとって屈辱的なことであったようである。

※この「イトムブウェ山への移住後・周辺住民との不和」の解説は、「バニャムレンゲ」の解説の一部です。
「イトムブウェ山への移住後・周辺住民との不和」を含む「バニャムレンゲ」の記事については、「バニャムレンゲ」の概要を参照ください。

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