イトラリ汗の殺害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 15:51 UTC 版)
1095年、ペレヤスラヴリ公ヴラヂミル2世モノマフのもとへポロヴェッツ人の汗(カン:王)イトラリとクイタンが和を結びに来た。イトラリはペレヤスラヴリの町に入り、クイタンは戦士たちと共に土塁と土塁の間に留まった。ヴラヂミル2世モノマフはクイタンに子のスヴャトスラフを人質として与え、イトラリは優秀な親衛隊と共に町の中に在った。この時、キエフのスヴァトポルク2世からヴラヂミル2世モノマフのもとへ使者のスラヴャークが何かの要件のためにやって来た。ラチポル(ru)の一族はヴラヂミル2世モノマフと共にイトラリの戦士たちを亡き者にしようと合議し始めた。ヴラヂミル2世モノマフはこれに反対したが、説得されて彼らの意見に従った。そしてその夜中、ヴラヂミル2世モノマフはスラヴャークにいる親衛隊とトルク人をつけて土塁と土塁の間に配備した。まず、スヴャトスラフを盗み出し、その後にクイタンを殺害し、彼の親衛隊を撃ち殺した。イトラリはその夜、親衛隊と共にラチポルの邸で眠っていて、クイタンの身に起こったことを知らなかった。その翌日、ラチポルは年少親衛隊(オトロク)たちに武器を与え、丸太小屋に火を焚くことを命じた。ヴラヂミル2世モノマフはイトラリの親衛隊を招き、彼らを小屋の中に閉じ込めると、小屋の上にのぼり、屋根に穴をあけた。ラチポルの子オリベグが弓を取り、矢をつがえてイトラリの心臓に射て、彼の親衛隊を全部殺した。スヴァトポルク2世とヴラヂミル2世モノマフはオレーグに人を遣わし、彼らと共にポロヴェッツ人攻撃に行くことを命じた。オレーグは彼らと共に行くことを約束して出発したが、彼らと同じ道をたどらず遠征に赴かなかった。スヴァトポルク2世とヴラヂミル2世モノマフはポロヴェッツ人の天幕に向かって進み、天幕を占領し、家畜,馬,ラクダおよび奴隷を捕えた後、オレーグに対して怒り始めた。スヴァトポルク2世とヴラヂミル2世モノマフは再びオレーグに人を遣わし、オレーグのもとにいるイトラリの子の殺害あるいは身柄の要求をした。しかし、オレーグは彼らに聴従しなかったため、彼らの間に敵意が生じた。この年、ポロヴェッツ人がユリエフにやって来て、その近くに一年とどまった。スヴァトポルク2世は彼らを鎮定し、ロシ川のかなたに追いやった。ユリエフの人々は町を棄ててキエフに逃れてきたため、スヴァトポルク2世はヴィチチェフ(ru)の丘の上に町を建てることを命じ、それを自分の名にちなんで「スヴァトポルクの町(スヴャトポルチ)」と名付け、ユリエフの人々、またザサコフの人々及びその他の町から来た人々と共にそこに住まわせた。その後、ポロヴェッツ人は無人となったユリエフの町を焼いた。
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