イタリアのパンター戦車生産計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 09:02 UTC 版)
「P40 (戦車)」の記事における「イタリアのパンター戦車生産計画」の解説
イタリアは、1941年8月5日にはIII号戦車の生産許可(ライセンス)を、1942年にはIV号戦車の生産許可を、ドイツから正式に得ていた(ただし実際の生産には至っていない)。 1942年12月6日、ドイツ人のアンツト・リッター・フォン・ホーツティヒ(Ernst Ritter Von Horstig、1893-1969)少将は、イタリア人のウーゴ・カヴァッレーロ(Ugo Cavallero、1880-1943)将軍に連絡を取った。アンツト(日本の慣用表記ではエルンスト)は、ローマのドイツ大使館のドイツ経済局長、そしてイタリア陸軍事務所の長で、ウーゴはイタリアの国防スタッフの長であった。 アンツトはウーゴに、イタリアでのパンター中戦車の生産の可能性について提案した。ウーゴは、自国のP40重戦車をドイツのパンター中戦車と同等の性能であると考えて(錯誤して)いたので、その時は、この提案を断った。 ウーゴはP40が既に生産中であると信じていたが、後でピエトロ・アーゴ(Pietro Ago、1872-1966)将軍から、「P40が実際には全く生産されていない」ことを知らされ、その現実に直面したウーゴは、アンツトの提案の拒否を撤回し、イタリアでのパンターの生産に同意した。 1943年1月、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統は、イタリアでのパンターの生産について、それまでのIII号戦車やIV号戦車の場合と異なり、ライセンス料無しで行うように命じた。MAN社も4両のパンターをイタリアに送る予定であった。 1943年2月13日から24日にかけて、パンターの生産契約についての交渉が行われた。 1943年2月16日には、ヒトラーは、「イタリアがパンター1(パンターD型)とパンター2(1943年4月にパンターIIに呼称変更)のどちらを製造すべきか」という主題に関する指令を出した。しかし、イタリアはパンター2には興味を示さなかった。 イタリアは、生産開始から18か月間は、月50両のパンターを生産し、その半分の25両を、おそらくライセンス料代わりに、ドイツに提供し、残りの25両はイタリアが使用するという、暫定的かつ楽観的な計画が立てられた。 ドイツは、イタリアが図面を受け取ってから、1年以内にパンターの生産を開始することを期待していた。 よって、1944年3月までにはイタリアでパンターが生産に入ることが期待されたが、しかし、1945年より前に、イタリアがゼロからパンターを生産することは、明らかに不可能であった。 もしも、生産開始が予定より遅れるようであれば、ドイツが直接、銃砲や装甲板やエンジンや無線機などの、主要部品を、もしくはパンターの仕掛品を、イタリアに供給し、ノックダウン生産が行われる可能性もあった。 1943年9月8日、イタリア王国は連合国に降伏し、イタリア北部の重工業地帯はドイツ軍の支配下となった。この時には、最早、イタリア軍のためにパンターをライセンス生産する話は、忘れ去られていた。
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