イタリアの一部として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/12 08:34 UTC 版)
「ボルツァーノ」の記事における「イタリアの一部として」の解説
イタリアへの併合当時、ボルツァーノに暮らす人々の多数はドイツ語話者であった。1910年時点で、ボルツァーノには2万9000人のドイツ語話者がいたのに対し、イタリア語話者は1300人に過ぎなかったのである。 1920年代には、ボルツァーノは南チロルの他の地域と同様に、ファシスト党指導者ベニート・ムッソリーニが求める、集中的なイタリア化政策に晒された(Italianization of South Tyrol)。イタリア化政策は、イタリアの他の地域からイタリア語話者を移住させてボルツァーノの人口を三倍にし、地元のドイツ語話者の人口を上回ることにあった。1927年、それまでのトレント県が分割されてボルツァーノ県(Provincia di Bolzano)が設置され、ボルツァーノはその県都となった。 1933年、ドイツでアドルフ・ヒトラーが権力を握った。ヒトラーの、すべての民族ドイツ人をひとつのライヒのもとに束ねようとするイデオロギーは、イタリアのファシストの間で、ドイツがイタリアから南チロルを奪還しようとするのではないかという懸念を引き起こした。1939年、ムッソリーニとヒトラーは South Tyrol Option Agreement に調印し、ヒトラーはドイツの「生存圏」に南チロルを含める主張を取り下げた。しかし、南チロルにとどまり第三帝国に移住することを拒否したドイツ系住民は、裏切り者とみなされ、より徹底したイタリア化を迫られたのであった。
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