イエロー・クリークの虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 22:11 UTC 版)
「ダンモアの戦争」の記事における「イエロー・クリークの虐殺」の解説
パイプ・クリークの事件が起こった直後に、ミンゴ族のローガン酋長の親戚が殺された。ローガン酋長はこの時点まで、入植者に対して友好的であった。ローガンとその狩猟隊はホィーリングから上流約48kmのイエロー・クリーク(現在のオハイオ州ストイベンビル)でベイカーズボトムからは川向こう、オハイオ川の西堤に野営していた。 4月30日、狩猟隊の何人か(ローガンは入っていなかった)が、慣習となっていたラム酒の配給を求めて、川向こうのベイカーの酒場に行った。彼らには小さな白人の子供が随いていた。ローガン酋長が入植者家族の殺人や誘拐に関わっていたか、あるいはその子供を他のショーニー族=オハイオ同盟から得ていたか何も明らかではない。それにも関わらず、周りの入植者達に伝言が伝えられた。ミンゴ族の男が酔ってしまった時に、それまで伏せて待っていた入植者がインディアン全員を殺し、子供を救い出した。殺人を犯した白人は、キングス・クリークの河口近くに住んでいた入植者ダニエル・グリースハウスの指導で動いた。この白人による野蛮な行為の知らせがローガン酋長のもとに届いたとき、彼とその仲間はクレサップ大尉が白人の主犯格と見なしていたので、この攻撃もクレサップの仕業と信じ込んだ。しかし、この事件に詳しかった者(クラークを含む)が、グリースハウスとその一党が攻撃の実行者であり、クレサップは全く関わっていないと伝えた。 辺境にある入植者はこの攻撃によって、オハイオの残りのインディアン達がショーニー族=オハイオ同盟に加わり、辺境全体が戦争に突入するだろうと実感した。辺境に残っていた入植者は直ぐに安全を求め、小要塞に入るか、入植地を棄ててモノンガヘラを越えて東に逃げるか、多くの者がアレゲーニー山脈を越えて逃げ去った。この恐れは十分根拠があった。ローガン酋長らミンゴ族はこれまで、白人とショーニー族=オハイオ同盟の間の緩衝帯となっていたが、この白人の野蛮な虐殺によって立ち上がり、白人入植者の追い出しに加わり、モノンガヘラから西の入植白人に対して、白人にされたのと同じように、殺人、強姦、略奪および破壊行動を始めた。 1774 - 1774年5月5日、ショーニー族は彼らに送られた弔意と伝言に対し、次の回答書を配って、ダンモア知事と直接話し合うことを求めた。 (原文のまま)兄弟達よ:(コノリー大尉、マッキー氏、クローガン氏)我々はホワイト・アイズから貴方がたの弔意を受け取った。クローガン氏とマッキー氏が言っていることについては、すべて嘘だと見ており、たぶん貴方が言うことも嘘かもしれない。しかし、貴方が我々に話しかけた最初の機会なので、貴方の言うことを聞こう。また我々が貴方の言うことを聞くのは我々が白人から聞いてきたことよりも、真実を語っていることを期待する。オハイオ川を度々上下し、そこに入植地を作っているのは貴方であり、貴方が前にも告げたように貴方の賢明な人々が共に会してこの問題を相談し、貴方が強く問題を考慮してくれることを望む。同胞よ:我々は貴方がこの川の種々の場所に集めた戦士を率いて我々に話しかけるのを理解する。戦士達が砦を造っているのを我々は理解する。貴方が言うことを聞くように求めたので、我々はそうしよう。しかし貴方が我々に話しかける同じやり方でだ。低地帯の集落にいる我々の同胞には酋長がいないがすべて戦士であり、貴方の言うことを聞いた方が良いというなら、そうする用意もできる。「貴方は、貴方の側の人々が我々にしたことを気に掛けるなと言う。我々は我々の若い男達が今するかもしれないことに注意を払わないことを貴方に望む。貴方の戦士達に言うことを聞いて欲しいと望むときは疑いもなく貴方は戦士達を支配できる。我々は我々が望むときに同じ忠告を得ることを期待する理由がある。すなわち、我々はバージニア知事から話を聞けたらばということである。」
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