その他の開拓地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/12 16:11 UTC 版)
ピオリアは当初ヌーベルフランスの最南端であり、フランス領ルイジアナの最北端となり、最後は新しくできたアメリカ合衆国の最西端となった。フランスの関心は、フランス人探検家が初めてイリノイ川にやってきた1673年から、アメリカ合衆国の最初の開拓者がこの地域に入ってきた1815年ころまで、優に100年以上もの間、ピオリアが中心であった。川の東堤に少数のフランス人が残っていたが、1846年頃までに居なくなった。今日、ピオリア中心街の街路配置にフランス領ピオリアのかすかな名残があり、通りや学校、ホテルの集会室の名にジョリエ、マルケット、ラサールなどの名前が残っている。 1675年、ジャック・マルケットが現在のイリノイ州ユーティカの近く「グレート・ビレッジ」に伝道所を造った。1680年にイロコイ族に破壊された。 バンセンヌ砦、後にセントバンセンヌ、最後はビンセンズは1732年に造られた。イギリス軍が支配した後はサックビル砦になり、ジョージ・ロジャース・クラークは、バージニア知事に因んでパトリック・ヘンリー砦とした。最初の広域イリノイ郡の一部であるが、後の北西部領土の一部となった時に郡庁所在地となった。 ケベックから来たフランス人宣教師により1699年に造られたカホキアは、この地域で初期に造られた開拓地の一つであり、北部の町では最も人口が多くなった。1787年、北西部領土のセントクレア郡の郡庁所在地となった。1801年、インディアナ準州知事のウィリアム・ハリソンは、セントクレア郡を拡大してカナダ国境まで伸びる広大な領域を管理することとした。1814年、セントクレア郡は現在在る領域に減らされ、郡庁はカホキアからベルビルに移された。1769年4月20日、偉大なインディアンの指導者、ポンティアック酋長が不名誉な目的でカホキアに来て、ピオリアの酋長に殺された。 1703年に造られたカスカスキアは、当初小さな伝道所であり、1809年から1818年はイリノイ準州都として栄え、1818年から1820年、イリノイ州の初代州都となった。フランスが1721年に砦を造り、イギリスが1763年に破壊した。アメリカ独立戦争の間、ジョージ・ロジャース・クラーク将軍が1778年に占領した。19世紀の洪水で古い開拓地は破壊された。この地域は現在カスカスキア砦州立公園となっている。 1720年、カンパニー・オブ・ザ・ウエストの採鉱部門支配人フィリップ・ド・ルノーが200名の労働者と機械工および500名の黒人奴隷とともに到着して採鉱を始めた。しかし、あまり利益にならない石炭と鉛のみを産出したため、会社は失敗した。1723年、ルノーと労働者および奴隷はセントフィリップの集落を造った。今日のイリノイ州モンロー郡ルノーの近くであり、シャルトル砦からは北に3マイル (5 km)であった。これがこの地域に入った最初の黒人奴隷の記録である。 フランスは1757年にメトロポリス近くにマサック砦を築いた。 オーリアンズ砦はミズーリ州ブランズウィック近くのミズーリ川沿いに1723年に築かれた。
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