熊本藩主細川家墓所とは? わかりやすく解説

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熊本藩主細川家墓所

名称: 熊本藩主細川家墓所
ふりがな くまもとはんしゅほそかわけぼしょ
種別 史跡
種別2:
都道府県 熊本県
市区町村 熊本市黒髪横手
管理団体 熊本市(平8・717)
指定年月日 1995.11.28(平成7.11.28)
指定基準 史7
特別指定年月日
追加指定年月日 平成16.09.30
解説文: 細川氏寛永九年(一六三二加藤氏のあとを承け熊本城入り肥後過半領主となった。この細川氏墓所は二か所にあり、一か所は横手上北岡)の妙解寺跡に、一か所は黒髪立田)の泰勝寺跡にある。
 妙解寺は細川[[光尚]みつなお]が、父細川忠利追善のため、寛永十八年(一六四一)に建立した臨済宗の寺で、寺号は忠利の戒名妙解院によるが、現在は山門・塀・石橋など建物一部を残すのみで廃寺となっている。墓域は寺の背後の山にあり、五つ区画からなる石段を昇った正面には忠利、同夫人、光尚の霊廟があり、建物内五輪塔墓がある。この三棟を囲むように向かって右に忠利の殉死者の墓が一五基、左に光尚殉死者の墓が一五基あるが、前者中に阿部弥市右衛門の墓があり、主君許し得ず追腹切ったという彼とその一族悲劇画いた森鴎外小説阿部一族」で知られる
 この区画南西に綱利・[[宣紀]のぶのり]・宗孝・重賢の墓域があり、その北に治年、[[斉護]なりもり]、同夫人の墓、さらにその南西に治年夫人、[[斉茲]なりしげ]子煕吉の墓域がある。また東の墓域には藩主の子女の墓が妙解寺歴住職の墓に並んでいる。
 次に泰勝寺慶長十六年(一六一一細川忠興が父幽斎(孝)の追善のため小倉建立したもので、いったん[[八代]やつしろ]に移されたのち寛永十四年(一六三七)、現在地移された。寺号は幽斎の戒名泰勝院によるが、五祠堂山門・塀を除いて明治維新廃寺になっている墓域は三区画からなり、寺の背後に幽斎、同夫人忠興、同夫人ガラシャ)の霊廟があり、中に五輪塔がある。
 その東の区画に斉茲とその子、また[[斉]なりたつ]の墓域があり、さらにその東の区画に、明治維新後に造られた[[韶邦]よしくに]、護久らの墓域がある。
 この二か所の細川家墓所は、五四万石領主であった大名ふさわしく大規模で、かつ霊廟建物多数残るようにその保存良好である。また殉死者の墓があること等、封建時代主従制あり方をもよく示しており、わが国大名家墓所代表的なものといえる。よってこれらを史跡指定し保存を図るものである
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