【作品の創作過程】
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/04 10:20 UTC 版)
「わが半生(原文名:我的前半生)」を一夜で読み終えた賈英華(カエイカ)、北京出身、幼い頃から東四牌楼第九條胡同口(胡同は路地のこと)で育った。彼が生まれ育った北京東城について、清朝時代の北京城の居住区は主に「東富西貴」、「南賎北貧」とに区分され、特に「東富」には、金持ちの商人と紳士が住んでいる所であった。しかしながら1911年の辛亥革命後に、「東富西貴」に変化が現れ、軍閥の混戦で実権を握った新しい高官と貴人は大多数繁栄しつつある東城に住むようになり、又ここにも中国を代表する多くの文化人をも輩出し、今日の「西富東貴」という枠組みを形成した。一条から十二条まで、各条において幾つもの文化人や歴史的人物の事件や昔話が残され、例えば九条には京劇の女形で著名な梅蘭芳の故居があり、この地は正に京劇の男形役者孟小冬と梅蘭芳が激しい恋に落ちた所としても大変有名である。他にも梅蘭芳を拉致した大学生が捕らえられて斬首刑に処し、九條胡同口の電柱にその首が吊るされたといういわれも残っている。八条には民国の代理国務総理 朱啓鈐、葉聖陶、章士釗、唐生明、朱海北及び溥儀のおば(嬸子/父親の弟の妻)、溥儀の側近教師である朱益藩 の故居もあり、又七条には、かの「苦菜花」で著名な作者馮徳英の故居があり、張挺(溥儀が彼を日本留学させた)もここに住んでいたこともある。 著名作家浩然も十条口に住んでいた事があり、そして十一条には宦官が暮らす小さな廟があり、賈英華がまだ少年の時に、瑞興成油鹽店にいる年老いた宦官は入り口の石段でよく宮中の出来事を語ったものだ。 賈英華がまだ中学に通っていた頃、彼の一人のクラスメートは裕容齢(西太后の御前女官)の隣人で、賈英華はこの院内で学習をした事があり、彼は今日に至っては容齢の「皮膚はとても白く、ツルの羽毛のように真っ白な髪に子供っぽさの顔つきで、人並み優れた風格を有しており」。「文革」が始まった頃、賈英華はまだ中学に通っていた。彼は鼓楼の紅衛兵司令部で書き写した「わが半生」、一夜かけて読み上げ、世界でこのような有意義な本があったものかと驚嘆したのだった。1967年、溥儀が世を去ってからは、溥儀夫人李淑賢は東四牌楼第八條に引っ越した。彼女と隣人との間は普段交友はあまりないが、賈英華の母とは意気投合する仲であった。賈英華が二十数歳の時に、腎炎に患い自宅で休養していた。李淑賢は其の頃廣安門中醫院で勤務しており、よく始発バスで看病にいったものであった。
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