『太宗実録』(1431)の流山国島と于山島
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「于山島」の記事における「『太宗実録』(1431)の流山国島と于山島」の解説
1431年に編纂された韓国の文献『太宗実録』の太宗十二年(1412年)の項に「流山国島」の名が現れる。その中で、江原道高城於津に漂着した白加勿らは「11戸60人余りが、武陵島から流山国島に移った。流山国島は、東西と南北がそれぞれ2息、周囲が8息で豆や麦が採れる」と観察使に証言している。なお、1息は約12キロメートルであり、それによれば東西・南北それぞれ24キロメートル、外周が96キロメートルということになる。金柄烈は、白加勿らが生まれ育った「武陵島」を鬱陵島附属の竹嶼とみなし、移り住んだ「本島」すなわち「流山国島」を鬱陵島に比定している。「流山国島」の流山は于山の発音を表記で充てたものと考えられるが、「武陵島」を鬱陵島とみなす前提に立てば「流山国島」に該当する島が周囲にないことが問題になる。これに先立つ1403年、太宗は倭寇を警戒し鬱陵島住民に本土へ移住するよう命じていたため(空島政策の始まり)、白加勿らは観察使の質問に架空の島を証言したのではないかという推測を生むわけである。金柄烈自身は、当時にあっては鬱陵島のことが「于山国島(その転訛として、流山国島)」、竹嶼のことが「武陵島」と呼ばれるのが、むしろ自然であったとしており、于山国島は独島ではなかったとしている。 鬱陵島は、はるか海上にあるので観察使が来ることが少なく、逆に兵役や税を逃れる者が本土より密かに移住したり、住民が倭寇を装い本土を襲ったりしたため、1416年政府は空島政策を堅持する方針を立て、その後鬱陵島住民を強制的に本土に引き上げさせている。 翌年の『太宗実録』の太宗十七年(1417年)の項に于山島という名が初めて現れる。そこには「按撫使の金麟雨が于山島から還ったとき、大きな竹や水牛皮、芋などを持ち帰り、3人の住民を連れて来た。そして、その島には15戸の家があり男女併せて86人の住民がいる」と報告しており、住人の数や戸数より上記の「流山国島」のことを表していると考えられ、この于山島は鬱陵島の事を示していると考えられる。ここでは「于山武陵島住民の刷出与出」が議論されており、「武陵の住民は刷出せず、五穀と農器を与えて生業を安定」させてほしいとの請願もあったところから、金柄烈は鬱陵島本島である「于山」を先に書き、属島竹嶼である「武陵」を後に書いたと推測している。これについては、「按撫使の金麟雨は于山島から還り、‥‥」の部分を鬱陵島の傍らにある現在の竹嶼から還ったと解し、この于山島や流山国島はその竹嶼だとする解釈もある。いずれにせよ、ここでいう「于山島」が現在の竹島(韓国でいう独島)であるという解釈は、島の大きさや島内環境の記載からみて成り立ちようがない。 「流山國島」に関する原文 『太宗実録』第二十三之四 十二年○命議政府 議処流山國島人 江原道観察使報云 流山國島人白加勿等十二名 来泊高城於羅津 言曰 予等生長武陵 其島内 人戸十一 男女共六十余 今移居本島 是島自東至西 自南至北 皆二息 周回八息 無牛馬水田 唯種豆一斗出二十石或三十石 麦一石出五十余石 竹如大椽海錯果木皆在 焉窃慮此人等逃還 姑分置于通州高城扞城○ 翻訳 『太宗実録』第二十三之四 十二年(1412年)政府の命による流山國島人について、江原道観察使は、流山國島人の白加勿ら十二名が高城於羅津に来泊し「私達は武陵で育ったが、その島の内、十一戸の男女合わせ六十人余りが今この島(流山國島)に移住した。この島は、東から西までと南から北までそれぞれ二息(約24km)、周囲が約八息(約96km)、牛・馬・水田はなく、唯一豆が一斗から二十石あるいは三十石、麦は一石から五十石余り採れる。大垂木のような竹、海と錯覚する果実の木など色々ある。」と言っていると報告した。これよりこの人たちが逃げ帰るのを憂慮し、しばらく通州、高城、扞城に分け住まわせた。 「于山島」に関する原文 『太宗実録』第三十三之四 十七年○按撫使金麟雨 還自于山島 献土産大竹 水牛皮 生苧 綿子 検樸木 等物 且率居人三名以来 其島戸凡十五口男女并八十六 麟雨之往還也 再逢颶風 僅得其生○ 翻訳 『太宗実録』第三十三之四 十七年(1417年)按撫使の金麟雨は于山島から還り、土地の産物の大きな竹・水牛の皮・生芋・綿子・アシカ等を献上し、また島民三名を率いてきた。その島の戸数はおよそ十五、男女併せて八十六人。麟雨が行って還る時、再び嵐に遭い、何とか生き延びた。
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