「50年問題」の発生
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1950年1月6日、コミンフォルムが「日本の情勢について」と題する論文を機関誌『恒久平和のために人民民主主義のために!』に掲載し、野坂参三らが主張していた平和革命戦術について、"日本は米国の完全な従属化にあるにもかかわらず、日本共産党の一部のものは、米軍の撤退を求めて独立を闘いとることもしないのみか、占領下においても社会主義への平和移行が可能であるとさえいっている。このような野坂のいう平和革命論は、米軍とその背後にある資本家勢力を美化し、日本の人民を欺く理論であり、マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもないもの"と痛烈に批判した(「コミンフォルム批判」)。 当初日本共産党はこれをデマと見做し、1月8日に中央委員会・統制委員会連名で「この外国電報を信ずるなら同志スターリンはすでに二〇たび死んだであろうし、同志毛沢東は一〇たび誤りを犯したことになるであろう」と声明を出した(『党撹乱のデマを打ち破れ』)。しかし、これが事実であることが間もなくわかり、党に混乱が生じた(「50年問題」)。 日本共産党書記長の徳田球一ら党主流派はコミンフォルム批判が「日本の情勢を十分考慮していない」と反論する『「日本の情勢について」に関する所感』を1月12日に発表。逆にコミンフォルムに賛同する宮本顕治はこれに反発して、「右翼日和見主義」「民族主義」「チトー主義者」などと徳田らを攻撃した。徳田を支持する者たちと宮本を支持する者たちとが、それぞれ「所感派」・「国際派」と呼ばれるグループを形成した。両者は激しく罵り合い、党の分裂は誰の目にも明らかとなった。 1月17日、中国共産党機関紙『人民日報』が、アジア大洋州労働組合会議での劉少奇の報告内容に沿う形で、コミンフォルム批判を肯定し革命において議会闘争は補助手段にすぎないとする「日本人民解放の道」を発表。これを受けて所感派はコミンフォルムの論評について「積極的意義を認める」と方針転換して事態収拾を図るが、その後も文書による非難合戦や分派形成と党員除名の応酬が相次いだ。 6月6日、緊迫する朝鮮半島事情を受けて、GHQ指示のもとでレッドパージが始まり、徳田らは地下に潜伏。所感派によって組織された椎名悦郎を議長とする臨時中央指導部(臨中)は、6月22日に「分派主義者との闘争」を決議し、各党組織の二派の間で泥仕合が展開された。9月3日に『人民日報』が「今こそ日本人民は団結して敵と闘うべきである」とする社説を出すが、これは事実上の臨中への帰順の呼びかけであった。
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