「51年綱領」の撤回
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1953年にスターリンと徳田が死亡したのが転機となり、勢力挽回を図る日本共産党は1955年7月の第6回全国協議会(六全協)で、武装闘争を「誤りのうちもっとも大きなものは、極左冒険主義である。この誤りは、党が国内の政治情勢を評価するにあたって、自分自身の力を過大に評価し、敵の力を過小評価したことにもとづいている」などと自己批判した。 一方で「新しい綱領が採用されてから後に起こったいろいろのできごとと、党の経験は、綱領にしめされているすべての規定が、完全に正しいことを実際に証明している」「わが党の基本方針は依然として新しい綱領にもとづいて、日本民族の独立と平和を愛する民主日本を実現するために、すべての国民を団結させてたたかうことである」としており、『51年綱領』を評価し、引き続き綱領として堅持している。 1958年7月の第7回党大会では、国際派であった宮本を書記長に選出するとともに、『51年綱領』を「一つの重要な歴史的な役割を果たした」と評価した上で、正式に廃止した。一方で1962年に日本共産党党中央委員会が発行した綱領集では、51年綱領の全文が収録されていた。 警察・公安警察は、これらの見直しの中で「(革命方式が)平和的となるか非平和的となるかは、結局敵の出方による」とする『敵の出方論』の方針が出されており、日本共産党は現在も暴力革命を手段として放棄していないと見解を示している。 一方、党の方針に忠実に従って武装闘争に参加した挙げ句に取り残された活動家らは、さらにスターリン批判やハンガリー動乱武力鎮圧など、ソビエト社会主義共和国連邦の動きにも打ちのめされることとなり、それらによる虚脱感は「6全協ノイローゼ」と呼ばれた。日本共産党の新たな方針に従わなかった活動家は武装闘争を継続し、これが日本の新左翼(極左暴力集団)のルーツとなっている。
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