「国際」と「東方」
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1914年(大正3年)2月、「国際通信社」(以下「国際」)が設立された。代表社員は、樺山資紀の長男で財界の重鎮・樺山愛輔。総支配人は元AP東京支局長のアイルランド人ジョン・ラッセル・ケネディ (John Russell Kennedy, 1861-1928) が務めた(1923年まで)。 同社設立の背景には、アメリカ在住の経験を持つ高峰譲吉や、彼に同調した牧野伸顕、渋沢栄一らの強い思いがあった。 1909年8月に渡米実業視察団の団長としてアメリカに向かった渋沢は、同国における日本関係の記事が非常に少ないこと、しかもそのわずかな記事の中には悪意に基づくものもあることを憂慮し、日本から海外にニュースを積極的に発信する必要があるとの認識を持つに至った。1911年には、来日したAPのメルヴィル・イライジャ・ストーン (Melville Elijah Stone) が講演し、日本も国家代表通信社 (National News Agency) を持つべきだと主張した。のちの同盟通信社社長・古野伊之助は、これに感銘を受けた1人である。 しかし、世界3大通信社の協定に基づく制約により、「国際」は諸外国の通信社と独自に契約することが許されず、極東市場を掌握するロイターを通してニュースを得るに留まった。渋沢らの意図に反して、「国際」はロイターに従属する立場から脱却できなかったのである。 「国際」は慢性的な赤字に苦しんだ。同社がロイターに支払う通信手数料は月2000円。対して、契約新聞社からの購読料はほぼ同額の2000円余りに留まり、諸経費を含むと足が出た。赤字は外務省が補填した。新通信社の設立が検討された。 1913年11月、ケネディが独断でロイターと契約。渋沢が設立しようとしていた通信社、文言中の「シンジケート」は、ロイターから日本国内における営業譲渡を受ける体裁でありながら、毎年3000ポンドも払って原則ロイターからの受信しかできず、発信はロイター側から求められたときだけ行うことになった。ロイターは日本の新聞社と個別に契約する必要がなくなった。 1914年10月1日に「東方通信社」が上海で設立された。社長は支那研究所所長の宗方小太郎。「国際」がアメリカでの排日運動に刺激されて誕生したのに対し、こちらは中国におけるドイツの排日運動の盛り上がりに対抗するため、外務省の働きかけによって誕生した。1920年(大正9年)8月1日、同社は「新東方通信社」(以下「東方」)に改称し、本社を東京に移転している。
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