電聯時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 09:20 UTC 版)
ケネディに代わり国際社長に就任した岩永裕吉は、3万ポンドの代償を払って日本国内のロイター暖簾を譲り受けるなどした。1925年(大正14年)にはモスクワへ赴き、ロスタ(後のイタル・タス)と対等の通信契約を締結した。 さらに岩永は、新聞社の共同機関による通信社の設立を説き、1926年(大正15年)5月1日、国際と東方の合併により「日本新聞聯合社」を設立(翌年「新聞聯合社」に改称。以下「聯合」)した。同社は東京日日新聞社、大阪毎日新聞社、東京朝日新聞社、大阪朝日新聞社、国民新聞社、時事新報社、中外商業新報社、報知新聞社の8社による匿名組合であった。 このころ、帝通は落日の時を迎えていた。頼母木桂吉が社長を務めていた大正末期に黄金時代を現出した帝通であったが、関東大震災で社屋が全壊する被害を受けた。また1925年(大正14年)に頼母木が加藤内閣の逓信事務次官に就任して社長職を離れたころから、社業は陰りを見せ始めた。 国際は帝通を通じて外電を各地方に配信する契約を締結していたが、新会社の聯合は、契約期間が満了したのを機にこれを廃止。急速に没落した帝通は、1929年(昭和4年)に破産宣告を受けるに至る。以後、電通と聯合の2大勢力が激しく争う「電聯時代」が到来した。
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