「名鉄」発足の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:14 UTC 版)
現在の名鉄は、1935年(昭和10年)に、名岐鉄道(名岐)と愛知電気鉄道(愛電)が合併して発足したものである。 合併前の名岐・愛電の両社は、名岐が名古屋式経営と称される多くの内部留保を抱える無借金経営を行っていた一方、愛電は積極的な設備投資に起因する負債(当時の金額で226万円)を抱えていた。もっとも、経営規模・払込資本金額・経常利益・株式配当といった経営規模・財務内容はほぼ同等であった。 それまでの両社は、三重県方面への進出(伊勢電気鉄道の買収工作)や名古屋地下鉄道の運営方法など、当地域の鉄道運営の主導権をめぐって対立することも多かったが、当時の日本は世界恐慌を境として、大陸(現在の中国など)への進出・利権を廻って欧米列強との対決(戦時)色が強くなり始めたころであり、民間企業の間では国内(同一民族間)での競争・対立を止めて協調・合同(民族団結)へ向かう機運が次第に高まった時代であった。合併話が持ち上がった時点では、陸上交通事業調整法や戦時立法の国家総動員法も構想段階であったが、当地の交通事業を再編・統合して安定した鉄道輸送を図るべく、名古屋財界の有力者を中心に民間主導の型で検討・折衝が進められることとなった。 当初は両社とも合併には消極的で、特に名岐側は企業体質がまったく異なる愛電との合併に対して強い拒否反応を示したとされる。その後も名岐は「自社が愛電を合併する」という形態にこだわり、最終的に名岐鉄道を存続会社として愛知電気鉄道は解散し、合併後の新会社の社長には当時の名岐社長であった跡田直一が就任し、愛電社長の藍川は副社長となることが内定した。合併比率は名岐1対愛電1の対等合併とされた。 合併期日は1935年(昭和10年)8月1日と決定したが、新会社の社長就任が内定していた跡田が同年7月17日に死去したため、急遽藍川が繰り上がる形で現・名古屋鉄道の初代社長に就任した。このことを指して、旧名岐の社員からは「愛電による名岐乗っ取り」との声も聞かれたという。旧名岐の社員であった土川元夫(のちに名鉄社長・会長を歴任)は自身の自叙伝において、合併契約により取締役に次ぐ上級部長職である理事職(現在の執行役に近い職位)の割り当てを受けていたが、合併後に「お前はまだ若いから」との藍川の一言で降格され、他の旧名岐社員も同様に左遷されたことを振り返っている。 両社の合併によって現・名鉄という中核企業が発足した愛知・岐阜両県では、陸上交通事業調整法施行後も法律(強制統合)の直接的な対象とはならず、名鉄を中心とした鉄道事業者統合は、戦時体制への移行という時流の要請に沿って、その多くが事業者間の合意によって自発的に行われた。これは周辺の鉄道事業者の多くが名鉄と資本的なつながりを有する、または名鉄の子会社であったことが最たる要因として挙げられる。もっとも、名鉄と資本的つながりを持たない独立系事業者であった瀬戸電気鉄道および三河鉄道の合併に際しては交渉が難航し、後者については鉄道省による仲介の末、ようやく合併に漕ぎ着けている。
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