「君が代」との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/31 20:56 UTC 版)
国歌としての「君が代」は、当初はジョン・ウィリアム・フェントンが1870年に作曲したものが存在していたが、海軍軍楽隊長となっていた中村は、1876年に「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改定ノ儀上申」を出し、日本語を理解しないままにフェントンが作曲した旋律の改定を提言した。1877年の西南戦争の影響で、この提言はしばらく手が付けられなかったが、1880年、宮内省伶人の奥好義が作った旋律が、伶人長の林廣守 撰として雅楽部から上申された。最終的に、国歌として選定したのは、海軍軍楽長であった中村と陸軍軍楽長の四元義豊、そして海軍省傭の音楽教師であったフランツ・エッケルトであり、エッケルトは「君が代」に和声を付けた。こうした経緯から、中村は「「君が代」の制定者」とされ、「国歌「君が代」の作曲に尽力した」と評されるひとりとなっている。
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