「丹後」時代
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1905年(明治38年)1月1日、旅順要塞降伏にともない、日本海軍に鹵獲される。5月29日、浮揚処理開始。起重機船で砲身・砲塔を取り外すなど、作業を行う。7月21日、浮揚成功。8月22日、ポルタヴァは帝国軍艦籍に編入、丹後と命名される。一等戦艦に類別。 8月24日、3隻(丹後、満州丸、駆逐艦曙《初代》)は旅順港を出発、8月29日に舞鶴海軍工廠に到着。応急修理を受けたのち、10月12日に舞鶴を出発、20日に横須賀到着。10月23日、東京湾で凱旋観艦式(明治天皇御召艦浅間、先導艦八重山)が行われる。元ロシア海軍艦艇(相模《ペレスウェート》、丹後《ポルタワ》、壱岐《インペラートル・ニコライ一世》、沖島《ゲネラル・アプラクシン》、見島《アドミラル・セニャーウィン》)等も凱旋観艦式に参列した。12月12日、日本海軍は艦艇類別等級表を改定。戦艦の等級廃止にともない、日本海軍保有の9隻(富士、敷島、朝日、三笠、石見、相模、丹後、肥前、周防)が『戦艦』に類別される。 この折に海水に浸かったボイラーは国産の宮原式石炭専焼缶16基に換装され、それに伴って2本煙突も形状を変えた。前後のマスト上部に付くアンテナ用ポールも十字型のクロスツリーへと変更された。武装面では主砲と副砲はロシア製からイギリスのアームストロング社製の物に換装し、戦訓から対水雷艇迎撃用の「7.6cm(40口径)速射砲」を単装砲架で片舷5基ずつ計10基を追加し、艦首尾部の45.7cm水中魚雷発射管2基は全て撤去され、替わりに38.1cm水上魚雷発射管は使用する魚雷を大型の45.7cm魚雷に替えて使用した。 1912年(大正元年)8月28日、日本海軍は艦艇類別等級表の改訂を実施。「丹後」は一等海防艦(7000トン以上)に類別変更される。 第一次世界大戦が勃発すると日本とロシアは同盟国になった。1916年(大正5年)4月4日、日本海軍は3隻(相模、宗谷、丹後)を軍艦籍より除籍。艦艇類別等級表からも削除。「丹後」はロシア海軍側に返還された。返還後、元の艦名はガングート級戦艦で使用されていたためにチェスマ(Чесмаチスマー)と改称されてウラジオストック艦隊に所属した。その後は白海に移された。なお、同様の経緯で「相模」もロシア側に返還されて「ペレスウェート」となるが、ヨーロッパへ回航中の同艦は地中海で触雷、沈没した。
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