「丹後」時代とは? わかりやすく解説

「丹後」時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:01 UTC 版)

丹後 (戦艦)」の記事における「「丹後」時代」の解説

1905年明治38年1月1日旅順要塞降伏にともない日本海軍鹵獲される。5月29日浮揚処理開始起重機船砲身砲塔取り外すなど、作業を行う。7月21日浮揚成功8月22日ポルタヴァ帝国軍艦籍に編入丹後命名される一等戦艦類別8月24日、3隻(丹後満州丸駆逐艦曙《初代》)は旅順港出発8月29日舞鶴海軍工廠到着応急修理受けたのち、10月12日舞鶴出発20日横須賀到着10月23日東京湾凱旋観艦式明治天皇御召浅間先導八重山が行われる。元ロシア海軍艦艇相模《ペレスウェート》、丹後ポルタワ》、壱岐インペラートル・ニコライ一世》、沖島《ゲネラル・アプラクシン》、見島《アドミラル・セニャーウィン》)等も凱旋観艦式参列した12月12日日本海軍艦艇類別等級表を改定戦艦等級廃止にともない日本海軍保有の9隻(富士敷島朝日三笠石見相模丹後肥前周防)が『戦艦』に類別される。 この折に海水浸かったボイラー国産宮原石炭専焼16基に換装され、それに伴って2本煙突形状変えた前後マスト上部に付くアンテナポール十字型のクロスツリーへと変更された。武装面では主砲副砲ロシア製からイギリスアームストロング社製の物に換装し、戦訓から対水雷艇迎撃用の「7.6cm(40口径速射砲」を単装砲架で片舷5基ずつ計10基を追加し艦首尾部の45.7cm水中魚雷発射管2基は全て撤去され替わりに38.1cm水上魚雷発射管使用する魚雷大型の45.7cm魚雷替えて使用した1912年大正元年8月28日日本海軍艦艇類別等級表の改訂実施。「丹後」は一等海防艦7000トン以上)に類別変更される第一次世界大戦勃発する日本とロシア同盟国になった1916年大正5年4月4日日本海軍は3隻(相模宗谷丹後)を軍艦籍より除籍艦艇類別等級表からも削除。「丹後」はロシア海軍側に返還された。返還後、元の艦名ガングート級戦艦使用されていたためにチェスマ(Чесмаチスマー)と改称されウラジオストック艦隊所属したその後白海移された。なお、同様の経緯で「相模」もロシア側に返還されて「ペレスウェート」となるが、ヨーロッパへ回航中の同艦は地中海で触雷沈没した

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