「丸の内口」と「八重洲口」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 14:29 UTC 版)
「八重洲」の記事における「「丸の内口」と「八重洲口」」の解説
「東京駅の歴史」および「丸の内」も参照 1914年(大正3年)、東京駅が開業した。この時、駅舎は西側(皇居側)にのみ置かれ、東側には車両基地が設けられたため、八重洲橋は撤去された。 東京駅の改札が西側にしかなかったことから、日本橋などがある東側へ行くには迂回を強いられた。1923年(大正12年)の関東大震災後で駅東側の地域も大きな被害を受けたが、震災復興再開発事業の一環として1925年(大正14年)に八重洲橋が再架橋され、東京駅の車両基地の上を跨ぐ跨線橋が作られて丸の内側に直線的に行けるようになった。1929年(昭和4年)には東京駅東側に乗車券売場のみの改札口が設けられた。東京駅の改札は当初、西側を「八重洲町口」、東側を「八重洲橋口」と呼んだ。 1929年(昭和4年)には、東京駅周辺の町名が再編成され、東京駅の西側にあった麹町区「八重洲町」が廃されて「丸ノ内二丁目」となった。町名再編成の結果、東京駅の西側から「八重洲」の地名が消滅し、東京駅の改札も「八重洲町口」を「丸ノ内口」に、「八重洲橋口」を「八重洲口」と改称した。また、震災復興事業に関連して、日本橋区と京橋区の境界となっていた道路が「幹線7号街路」として拡幅・延伸され、「八重洲通り」と命名された。こうしたことから、東京駅を中心として西側を「丸ノ内」、東側を「八重洲」とする地理的雰囲気が醸成されていった。 なお、麹町区八重洲町一丁目1番地であった土地(三菱一号館の北側)に三菱によって建設されたビル(1926年(大正15年)2月着工、1929年(昭和4年)3月竣工)は、「八重洲ビルヂング」と命名された。このビルは1962年(昭和37年)に「丸ノ内八重洲ビルヂング」と改名されるが、これには「八重洲側」にあるように誤解されるというテナントからの苦情があったためという(丸ノ内八重洲ビルヂングは2006年に解体され、現在は丸の内パークビルディングが建つ)。
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