「中野義時」について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/11 21:45 UTC 版)
「天正最上の乱」の記事における「「中野義時」について」の解説
従来、天正最上の乱の原因と経過は以下のように説明されていた。 すなわち、父・義守は気の強い義光よりもおとなしい次男・中野義時を偏愛し、義光を廃嫡して義時に家督を譲ろうとしたが果たせず、後に山形城主の座をあきらめ切れていなかった義時が父を担いで挙兵した。義光は義時の居城・中野城を攻め落として切腹させ、義時の子・備中丸は仙台へと逃れたという。 しかし、中野義時の名が一級史料には全く見当たらないことから、今日の研究では義時の存在は否定されている。また義時の不存在から、天正最上の乱自体の実在を疑う説もある。 ただし、光明寺本(1746年編纂)最上系図には、最上義光の弟に「中野殿」と見え、山形両所宮に義光・義時の争いが伝承として残るなど、最上義守が隠居した中野城に義光の弟がいた可能性までは否定されていない。また、「伊達輝宗日記」においても、乱のさなか中野某が伺候する様子が窺われる。 また、これとは別に、伊達晴宗・輝宗父子の対立について、出家して「栄林」と号した最上義守から伊達氏の重臣・牧野久仲に充てた某年5月の書状(『伊達正統世次考』に所収され、原文も「伊達家文書」として現存)が残っていることから、最上義守の隠居は永禄7年(1564年)と推定される伊達晴宗の隠居や元亀元年(1570年)4月の牧野久仲の失脚(元亀の変)以前の出来事でないと、文書の内容と矛盾が生じるとの指摘もある。これについて、粟野敏之は最上義守の隠居を永禄4年(1561年)頃と推定し、天正の乱は家督争いではなく家督継承後の義光による家中統制の強化に反発した家臣団が隠退していた義守を擁して起こした反乱であったとする説を唱えている。
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