青春デンデケデケデケ 逸話

青春デンデケデケデケ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/14 18:49 UTC 版)

逸話

  • 本編で使われている1960年代のロックサウンドは、「テケテケ(サウンド)」と通称されているが、原作タイトルでは『デンデケデケデケ』としている。原作者の芦原によるとパイプラインのギターの音に「テケテケ」という表記ではもの足りない、よりヘビーな感じのする「デンデケデケデケ」という雷鳴のような響きを重視してつけられた[5]
  • 芦原は登場人物と同年代だが、高校時代は音楽活動は行っておらず、ロックバンドを結成した友人たちを羨望の目で眺める立場であった。この小説でその願いをいわば実現した。本作のバンドはその友人たちがモデルになっている。
  • 直木賞受賞後に、芦原はかつて高校時代に音楽活動をしていた友人たちと作中と同名のバンド「ロッキングホースメン」を結成し、定期的に活動を行っている。

映画版

青春デンデケデケデケ
監督 大林宣彦
脚本 石森史郎
原作 芦原すなお
製作 川島國良
大林恭子
笹井英男
出演者 林泰文
大森嘉之
浅野忠信
永堀剛敏
音楽 久石譲
撮影 萩原憲治
岩松茂
編集 大林宣彦
製作会社 ギャラック・プレミアム
PSC
リバティ・フォックス
配給 東映
公開 1992年10月31日
上映時間 135分
製作国 日本
言語 日本語
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ロケ地は香川県立観音寺第一高等学校とその周辺地域で、ほぼ全編が観音寺市をはじめとする四国で撮影されている[6]

原作の文章を生かしたナレーション、言葉遊びの映像化、テンポの速い場面転換などの演出技法が特徴である[7]。ロックをはじめとする当時の音楽も多数作中で使用されている。

大林映画としては珍しく、女性ではなく、男子高校生を主人公とした作品である[6]

ストーリーはおおむね原作に忠実であるが、以下のような点が異なる。

  • 原作では夏休みになっているバンドの合宿をロケの時期の関係で冬休みにしている。このほかにもエピソードの入替などが一部ある。
  • 人物の設定が一部変更されている。特に岸部一徳演じる寺内先生に関して多く、『ロッキング・ホースメン』に校内の練習場を確保したり第二軽音部の顧問になるのは原作では別の先生(佐藤先生)である。また、寺内先生が式の最中に急死する結婚披露宴の場面は、原作では寺内の縁者(妻の姪)が花嫁であるのに対し、映画版は同僚の女性教師(桃子先生)が花嫁となっている。

2001年4月にパイオニアLDCからDVDが発売され、原作者と監督による対談が収録されている。

監督の大林が死去して半年後の2020年10月に、観音寺市の広報誌『広報かんおんじ』は追悼特集「デンデケデケデケは鳴り止まない」を掲載[1]、この号は2020年度の香川県広報コンクールの広報紙部門で最優秀賞を受賞した[8]

キャスト

スタッフ

劇中曲

ここでは、映画本編に登場する曲をストーリーに沿って順に記載。曲名及び歌手名は主にエンドロールから。実際の歌手本人たちによる音源が使用されているものには、ここでは曲名に続けて★で表記[9]

  • パイプライン」(Pipeline)★
    作中では、ベンチャーズの曲として取り上げられている。元は1963年サーフ・ロック・バンドのシャンテイズが発表した曲。
    クレジットタイトルでベンチャーズの映像と共にこの曲が流れるほか、作中で竹良たちのバンドが何度か演奏する。
  • ホフマンの舟歌
    作曲:オッフェンバック
    高校入学前の春休みに、竹良が自室で杉基のヴァイオリンで弾く。
  • アイル・ビー・ホーム英語版」(I'll Be Home)★
    1956年パット・ブーンがカバーした曲とされる。
    上記の曲をヴァイオリンで弾いた竹良が、直後に自室のラジオでこの曲を聴く。
  • 「祖谷の粉挽き唄」
    徳島県民謡
    竹良が道路を隔てて「神戸屋」のショーウィンドウにあるエレキギターを見ていると、宣伝カーがこの曲をかけながら目の前を通り過ぎる。
  • ロック・アラウンド・ザ・クロック」(Rock Around the Clock)★
    1954年ビル・ヘイリー&コメッツが発表した曲。
    竹良が自室のラジオでこの曲をかけ、一緒に歌いながら机に向かって何かをしている。
  • 「ドライビング・ギター」(Driving Guitars)
    ベンチャーズの曲。
    軽音楽部に所属する清一が、出会ったばかりの竹良から「ちょっと音を聴かせてくれん?」と頼まれ、持っていたギターで演奏する。
  • 福知山音頭
    京都府の民謡。
    清一の部屋でこの曲のレコードを見つけた竹良が、「誰のコレクション?」と尋ねるシーンで使われる。
  • しゃぼん玉飛んだ」★
    童謡。作詞:野口雨情、作曲:中山晋平、唄:岩田さちこ
    自宅の仏壇を前に絹江が竹良に、亡くなった長女・なでしこの思い出話を語るシーンで使われる。
  • 「カー・クレイジー・キューティ」(Car Crazy Cutie)★
    ロック・グループのザ・ビーチ・ボーイズ1963年に発表した曲(アルバム「リトル・デュース・クーペ」)。
    ある日竹良が、自室のラジオでこの曲をかけながら出かける準備をする。
  • ウーリー・ブリー英語版」(Wooly Bully)★
    1965年サム・ザ・シャム・アンド・ザ・ ファラオス英語版が発表したとされる曲。
    竹良と清一がイナダ農機でバイトするシーンで使われる。
  • 慕情」(Love Is a Many-Splendored Thing)★
    元は1955年同名映画ナット・キング・コールが歌唱した主題歌だが、本作ではポップス・ヴォーカル・トリオであるレターメンのカバーが使われている。
    清一への恋をあきらめためぐみの、約20年後までの恋愛模様のダイジェスト映像で使われる。
  • 「あなたまかせの夜だから」
    作詞:青江ひとみ、作曲:野村旬平/原曲は、1971年大木英夫二宮善子がデュエットした曲。
    約20年後のめぐみが、男性(原作者)とカラオケでこの曲をデュエットする。
  • 美しい十代」★
    作詞:宮川哲夫、作曲:吉田正/1963年に三田明が歌唱した曲。
    竹良と清一が自転車で橋を渡るそばを宣伝カーがこの曲を流しながら走り抜ける。またその後恵美子のために巧がこの歌を練習する。
  • バラ色の雲」★
    作詞:橋本淳、作曲:筒美京平1967年ヴィレッジ・シンガーズが歌唱した。
    竹良たちが「神戸屋」で楽器を購入し持って帰るために自転車に乗せる作業中、前の道を宣伝カーがこの曲を流しながら通り過ぎる。
  • パサディナのおばあちゃん」(The Little Old Lady “from Pasadena”)★
    1964年に男性デュオであるジャン&ディーンが発表した曲。
    竹良たちが、楽器購入後にバンドで初練習をすることになりウキウキしながら練習場所に向かうシーンで使われる。
  • 潮来笠」★
    作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正1960年橋幸夫が歌唱した曲。
    竹良たちが富士男の自宅で初めてちゃんとした楽器でバンド練習を始めようとする頃、寺の前の道を宣伝カーがこの曲を流しながら走り抜ける。
  • ウォーク・ドント・ラン」(Walk, Don't Run)“急がば廻れ
    原曲は、ジョニー・スミスが作曲した曲を1960年にベンチャーズがサーフ・アレンジしてヒットした曲とされる。
    富士男の父からお経の邪魔になるため他所で練習するよう叱られた竹良たちが、空き地に移動してこの曲を練習する。
  • ダイアモンド・ヘッド」(Diamond Head)
    原曲は、1965年にベンチャーズが発表した曲。
    上記の後練習場所を探す竹良たちが、電気灯籠から電源を借りて緩やかな階段(琴弾八幡宮の境内)でこの曲を演奏する。
  • 「長崎の女」★
    作詞:たなかゆきを、作曲:林伊佐緒/1963年に春日八郎が歌唱した曲。
    職員室で寺内が竹良に洋楽の楽譜をプレゼントした後、「若い頃は外国のものがよく見えた時期もあったが、今は洋楽より日本の歌の方が好きになった」と言って、この歌を口ずさむ。また、寺内と桃子が学校の階段の踊り場のシーンで春日の音源が使われる。
  • モナ・リザ」(Mona Lisa)★
    元は1950年の映画「別働隊英語版」でナット・キング・コールが歌唱した主題歌だが、本作ではマントヴァーニ・オーケストラの演奏が使用されている。
    竹良が初めて谷口家に遊びに行った時など、静夫の部屋のシーンで数回使われる。
  • 「いとしのパオラ」(Dolce Paola)★
    1965年にサルヴァトール・アダモが歌唱した曲。
    竹良たちがバンド練習のため祖谷渓に訪れ、テントを張るシーンで使われる。
  • ノッポのサリー」(Long Tall Sally)
    原曲は、1956年リトル・リチャードが発表した曲。
    竹良たちが渓谷で夜に火を焚きながらこの曲を練習する。
  • 「ソフトリー・ソフトリー」(SOFTLY SOFTLY)★
    ザ・ナック(1960年代のバンド)英語版[10]が歌唱した曲。
    竹良たちが祖谷でくすぐりあってから、眠りに落ちたシーンで使われる。
  • 「さらばピアノよ」
    竹良たちが高校2年に進級した春頃、高校の音楽室のピアノで桃子がこの曲を弾く。
  • 夏の思い出
    作詞:江間章子、作曲:中田喜直1949年NHKのラジオ番組で歌われ、その後広まった曲とされる。
    竹良たちのバンドが高校の第二軽音楽部として練習場所を半分使えることになり、コーラス部員がこの歌を練習する中彼らがコーラス部の部室に機材を運ぶ。
  • 悲しき願い」(Don't Let Me Be Misunderstood)★
    1964年ニーナ・シモンが歌唱した曲で、本作ではカバーであるアニマルズの音源が使用されている。
    巧が人づてに恵美子にバンドの練習を見に来るよう誘い、その返事の手紙を彼が読むシーンで使われる。
  • チェッチェッチェッ
    作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正/原曲は、1964年に橋幸夫が歌唱した曲。
    部室でのバンド練習に女子生徒たちを集めて竹良が歌う。
  • 「あなたでなければ」(I Don't Want to Walk Without You)★
    1961年ジョニー・ソマーズ英語版が歌唱した曲。
    恵美子の結婚後のエピソードで使われる。
  • ジャンバラヤ」(Jambalaya“On The Bayou”)
    原曲は、1952年にカントリー歌手のハンク・ウィリアムズが発表した曲。
    久しぶりに帰省した杉基が、竹良からエレキギターを借りて「高校時代にこっそり練習していた曲」としてアンプなしの状態でうろ覚えで弾き語りする。
  • ラウンチー英語版」(Raunchy)★
    1957年にビル・ジャスティスが発表した曲。/ビリー・ヴォーン楽団による演奏が使われている。
    スナック「ウェストビレッジ」でのクリスマス・開店イベントの当日、準備中のシーンで使われる。
  • ジングルベル」(Jingle Bells)
    世界的に有名なクリスマスソング
    クリスマスの日のスナック「ウェストビレッジ」の開店イベントでバンドデビューすることになった竹良たちが演奏する。
  • ヒッピー・ヒッピー・シェイク」(Hippy Hippy Shake)
    原曲は、1959年チャン・ロメオ英語版が発表した曲。
    上記と同じく竹良たちが演奏する。
  • オー・プリティ・ウーマン」(Oh, Pretty Woman)
    原曲は、1964年にロイ・オービソンが発表した曲。
    上記と同じく竹良たちが演奏する。
  • 「センチになってよ」(I'm Getting Sentimental Over You)★
    トミー・ドーシー楽団によって1932年に発表された曲。/ビリー・ヴォーン楽団による演奏が使われている。
    上記のイベントで客たちが帰った後竹良が店のマスターと会話するシーン、続けて孝行と釣りに行くシーンで使われる。
  • 軍艦マーチ
    作曲:瀬戸口藤吉の日本の軍歌。この曲には歌詞もあるが、本作では曲のみの音源が使われている。
    孝行と絹江が教師時代と思われる学校の運動会で、学生たちに混じって2人が参加した二人三脚の競技中に流れる。
  • シーサイド・バウンド
    作詞:橋本淳、作曲:すぎやまこういち/原曲は、1967年にザ・タイガースが歌唱した曲。
    竹良が高校3年生になった頃、グループサウンズに憧れる下級生のバンドが軽音楽部の部室で演奏する。
  • ジョニー・B・グッド」(Johnny B. Goode)
    原曲は、1958年にチャック・ベリーが発表した曲。
    ある雨の日に寺を借りて、文化祭で演奏する曲として竹良たちが演奏する。また、本作のエンドロールでは文化祭のステージで歌う竹良たちの演奏シーンが流れる。
  • 渚のデイト英語版」(Follow the Boys)★
    1963年にコニー・フランシスが発表した曲。
    高校3年生の夏休みの終わりかけに、幸代が藤原家に訪れるシーンで使われる。
  • 「歌を忘れたカナリヤ」
    作詞:西條八十、作曲:成田為三/1947年に日本の童謡「かなりや」から題名が『歌を忘れたカナリヤ』と改められ、唱歌となった。
    幸代を待たせている間に竹良が海に出かける準備をしながら、この歌の一部を口ずさむ。
  • ボーイハント」(Where the Boys Are)★
    1960年にコニー・フランシスが発表した曲。本作では日本語歌詞によるものが使用されている。
    竹良と幸代が海で泳ぐシーンで使われる
  • 恋のハレルヤ」★
    作詞:なかにし礼、作曲:鈴木邦彦/1967年に黛ジュンが歌唱した曲。
    竹良と幸代が砂浜に訪れた同時間帯に、この曲をかけながら宣伝カーの運転手と娘が休憩または仕事終わりに海水浴場に訪れる。
  • 「けんかでデイト」(First Quarrel)★
    1963年にポールとポーラ英語版が発表した曲。
    幸代との海水浴デートを終えて竹良が帰宅し、玄関先で絹江と会話するシーンで使われる。
  • 「銀座九丁目水の上」
    作詞:藤浦洸、作曲:上原げんと/1958年に神戸一郎が歌唱した曲。
    桃子の結婚式の食事の席で酒に酔った寺内が踊りながら歌う。
  • 「フォーティ・デイズ」(Forty Days)★
    1955年にチャック・ベリーが発表した"Thirty Days (To Come Back Home)"を、1961年にクリフ・リチャードがカバーしタイトルを変え発表した曲。(アルバム”21 Today"
    竹良が文化祭の前夜から泊まり込みで準備するため、自宅から自転車で学校に向かうシーンで使われる。
  • ラ・マルセイユ
    フランス国歌
    文化祭当日、体育館の壇上でフランスの物語らしき演劇の出し物が催され、何かの罪を犯した女の役を演じるめぐみがギロチンにかけられるシーンで使われる。
  • 「太陽の彼方に」(Movin')
    1964年にアメリカのロック・バンド、アストロノウツが発表した曲。
    文化祭のステージに上がった竹良たちがパイプラインの演奏の後、続けて演奏する曲。
  • アイ・フィール・ファイン」(I Feel Fine)
    1964年にビートルズが発表した曲。
    文化祭のステージで富士男がバンドのメンバー紹介をした後竹良たちが演奏する。
  • 高校三年生」★
    作詞:丘灯至夫、作曲:遠藤実/1963年に舟木一夫が歌唱した曲。
    1968年(竹良が高校3年生)の2月に宣伝カーの娘がこの曲をかけながら自ら運転する車で観音寺駅前で一旦停止した所 偶然駅にいた竹良と一瞬目が合う。

主なロケ地

製作

映画化まで

原作が賞を受賞すると複数の映画化企画が寄せられた[1][6]篠田正浩も映画化を希望していたという)。それらはいずれも田舎ではやれないと、舞台を湘南など首都圏京阪神に移したり、「しーさん」を女性に変更してヒロインとするといった大幅な改変を伴うものであった[6][11]。大林は全く知らないところで、CMで付き合いのあったホリプロ笹井英男プロデューサーが、大林には無断で「大林さんが原作通りに観音寺でやろうと言っています」と芦原に勝手に約束した[6]。芦原は以前から大林映画が好きで、この申し出を聞いた時、飛び上がりそうになるほど喜んだ[1]。しかし大林は芦原から「尾道ではないですね!?」と不安がられたため「大丈夫、観音寺です」と約束し、可能な限り原作に忠実な映画化を提案、これを芦原が了承して映画化が実現した[6][11]。原作者である芦原の故郷に対する愛着を大林が快く思ったことがこの合意の背景にあったとされる[6]。芦原は「これほど優しいまなざしで撮られた映画はほかにないとしみじみ思う」と述べている[1]

2006年香川県高松市で開催された「さぬき映画祭」でのトークショーで語られたところによれば、松竹も原作者に企画書を提示しており、それは舞台を湘南に移したもので、監督には、新人の朝原雄三が起用されることとなっていた。なお、その場に同席していた朝原は、「後から考えれば、大林監督で映画化されて良かった」と語っている。加えて大林によると映画化の際、「原作と同じ観音寺弁だと意味がわかりにくいから標準語にしたい」また当時日本で「テケテケサウンド」と言えば「湘南」、「加山雄三」のイメージがあったとのことで「舞台を湘南に変えて映画にしませんかと申し出を受けた」とのこと[1]。しかし、大林が「そんなことをやるから日本映画はダメになるんだ。観音寺弁がいい、観音寺弁はとてもチャーミングだ。舞台も変える必要はない」などと言ってその申し出を断わったという[1][5]。大林はたくさんの尾道映画や古里映画を作ったが、方言は映画の一部に限られ、全編その土地の方言で作った映画は実は本作一本のみである[1]

撮影準備

ロッキングホースメンのメンバーのうち、楽器が出来たのは白井清一役の浅野忠信だけで[12]、他の3人は楽器未経験[13]。大林監督からは「練習しといて下さい」としか言われず。助監督からも「とりあえず音は違う音を使うかも知れないんで、形だけはせめて何とかして下さい」と言われた[13]。しかし監督は自分たちの音で演奏して拍手してもらえるぐらいになって欲しいと思っているだろうなと、皆で話し合って撮影の1ヵ月半ぐらい前から練習を始めた[13]スタッフに頼み、東宝スタジオを借りて週3のペースで練習を始めたが、なかなか上達せず。バンドメンバーは監督に喜んでもらえるぐらいまで演奏レベルを上げたいと大林に相談し、毎日練習して特訓を受けることになった[13]。それで演奏指導をエド山口に頼んだ[12][13]。しかしある程度は上達はしたが、ロッキングホースメンの生音を使用するのはムリという判断がなされ、完成版に撮影終了後、監督の大林からの要請により、演奏場面の全曲に対しエド山口・小松久・太田収他のメンバーでアフレコをおこなった[12]。この時大林からは「下手にやって」などの指導があったという[12]

大林は若い俳優陣に「観音寺の女学生を観音寺弁でナンパできるぐらいになりなさい」とクランクイン1ヵ月前に俳優を観音寺に送り込んだ[1][13]

キャスティング

主役の林泰文は、映画デビュー作だった『野ゆき山ゆき海べゆき』から本作で大林作品6本目[13]。『野ゆき山ゆき海べゆき』では「特別よくはないけど悪くもないし、ちょっと気になる。最後の一人まで残ったからしょうがない」という理由で抜擢され、『漂流教室』時には高校受験の勉強中で役者は続けるつもりはなかったが「オーストラリアロケだぞ」などと言われ出演を承諾[13]。本作の製作時には大学の経済学部二年在学中で、株式証券関係に興味が出てその方面に就職を考えていたときだった[13]。しかし大林がバンドメンバーの写真を組み合わせ、「林が竹良になんないと、はまらない。しょうがないからお前やってくれ」と口説かれた[13]。本作で第16回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞し、賞状に書かれた「あなたの今後の映画界での活躍を期待します」という文面を見て「もう迷わない。役者をやっていこう」とようやく決意が出来たという[13]

先述の「さぬき映画祭」のトークショーには、女優高畑淳子も同席している。高畑によると「青春デンデケデケデケが映画化されると聞き、主人公の母親役には、香川県出身で方言にも対応できる自分を起用してほしいと、大林監督に手紙を出したが返事はなかった」というエピソードを語った。

南野陽子は歌手活動を休止した20代半ばに本作の観音寺市ロケを単身で訪れ「炊き出しでもいいから映画の撮影に参加させて欲しい」と当地へ長期滞在し、スタッフの夜食作りの手伝いなどをした[14]。南野がエキストラで映っているシーンがある。当時の文献には「ナンノはテレビドラマをキャンセルまでしてスケジュールを調整し、付き人もなしに一人でロケ現場の高松に来た。しかし撮影がかなり遅れていて、スタッフが『申し訳ないけど2、3日待ってほしい』と頼んだ。映画界ではよくあることだったが、ワガママで名を轟かすナンノは相当な剣幕で怒り、『帰ります!』と言って聞かず、大慌てでスタッフが必死の説得を試みたが、結局帰った。ロケ現場の滞在は1時間そこそこだった」と書かれたものがある[15]。これが縁で1998年の「三毛猫ホームズの黄昏ホテル」(テレビ朝日)や2001年の『マヌケ先生』に出演している。

白井清一役の浅野忠信は、2020年4月の大林の訃報を受け、自身のtwitterに「大林宣彦監督 ありがとうございました 一緒に映画を撮った日々を忘れません」というコメントを、白井を演じた際の写真とともに掲載した[16]

撮影

大林は「原作に書かれていることは一行足りとも外すまい。全部絵にしてやろう」という気概で撮影に臨んだ[1]。このため大林は現場でシナリオではなく、原作本を手に演出をやっていたという[1]

リアリティを高めるため、屋外シーンを中心に16mmカメラを3台用意し、リテークなしで同時に回し続けるという手法が取られた。照明も自然光を利用した。こうして撮影された大量のフィルムの編集作業は5ヶ月にも及んだという。

セカンドユニットの監督として参加した小中和哉は「大林監督が『青春にリハーサルなし、NGなし』をモットーにスタッフに段取りも無しにいきなり本番を始め、台詞を言い間違えようがお互いのカメラが入ろうが1シーンを最後まで撮り、全てOK。カメラポジションを変えてそれを何度も繰り返す。まともな画作りをさせてくれない監督にスタッフの不満が溜まり、現場は大混乱に陥った。ラッシュを見ても不自然な影が出ていたり構図も決まらない。その膨大なラッシュを大林監督は半年かけて編集し、それまで誰も見たことのなかったライブ感溢れる(記録的なカット数の)作品を作り上げた。スタッフは完成作品を見てようやく監督が目指していたことを理解することになるのだけれど、現場ではこれでいいのかと疑心暗鬼に駆られていた。そんな中でも自分の意志を貫く大林監督の姿を見て、僕は新しいことに挑戦する困難さと監督に求められる意志の強さを教えてもらった」などと述べている[17]

ロケの多くが観音寺で行われたことから、地元では観光客向けにロケ地マップも作られた[1]。ただし、撮影から約20年が経過して、再開発や建て替えで当時の建物が残っていない場所もある[1](参考:[2])2008年には、ロッキングホースメン最初で最後の晴れ舞台の場面で使用された(ただし外観のみ)、観音寺第一高校旧体育館が取り壊された。

現在のJR観音寺駅舎は1963年の建築で、作品の舞台となる時代にはすでに存在していたが、雰囲気を出すためにより古い駅舎の残る琴平駅を観音寺駅として撮影した。また、作中に登場する列車の気動車(キハ58系)はJR四国のカラーに塗り替えられているが、後にJR四国は同車の一部を国鉄時代の色に塗り直している。

作中に登場する「神戸屋」のモデルとなった実在の楽器店「大阪屋」(オオサカヤ)は現在も観音寺市内中心部で営業している。「日の出コーラ」のモデルは、当時アサヒビールが販売していたコーラ飲料「アサヒコーラ」と推測される。

作中に使用されたギター、ベースはグヤトーンが、ドラムセットはPearlが当時生産していた製品を特別に再現、製作したものを使用している。

映画の冒頭部のスタッフクレジットの場面でザ・ベンチャーズが特別に出演、スタジオでのライブシーンが撮影されている。後に作者の芦原すなおがベンチャーズのメンバーと会談した時に「(原作の)英語訳はされないのか?」「次はシャドウズの小説でも書くんじゃないかい?」と言われたと、1992年のザ・ベンチャーズ日本ツアーのパンフレットで語っている。

エピソード

当地出身のミュージシャン・宇賀啓祐は、帰郷して本作の制作を手伝い根岸季衣と知り合った[18]。帰京後に根岸が宇賀のライブを訪ね、一緒に音楽活動を始めて、これが縁で結婚している[18]

作品の評価

野沢尚は「1992年度のベストワン。スーパー16を使い、全編ノーライト、手持ちで撮影したという全体の八割は、まさにあの頃の、身内のプライベート・フィルムを見ているようだった。未成年の未成熟な日々を、ザラザラした画面による未整理なタッチで描いた。これが凄い。『はるか、ノスタルジィ』と比べると、同じ監督がここまで手法を変えて文学作品を料理していることに感嘆する。大林宣彦は、ただの『愛の伝道師』ではない、凄腕の料理人だ。シナリオ学校の教え方からすると、不必要なナレーションが多いと理論先行型の先生なら注意されるだろうけど、摩訶不思議なあの頃の妄想状態を、いとも簡単に、単純に、映像化している。作法も無視し、作り手も登場人物たちのヤンチャぶりに寄り添うようにして、ああじゃこうじゃ、と映像を駆使する。クライマックスでは、画面のそれまでのザラつきが消え、緻密な色調になる。おそらくここからは35ミリのフィルムなのだろう。夢心地の青春の日々をザラザラとした粗い粒子で描き、夢から醒めた退屈な日常をサラサラと丹念に描く。映画はそれまでの超テンポが嘘のように、ゆったりと落ち着く。このラスト30分がツライという人もいるが、全然そうは思わない。18歳の日常は本来、漫然と過ぎてゆく時間なのだ。青春の極みが過ぎると、あの頃の熱狂なんて実は存在しなかったような白茶けた錯覚に陥るものなのだ」などと評している[7]

漫画版

ポプラ社の隔月刊漫画雑誌「ピアニッシモ」で2007年7月号より連載が開始された。作者はサダカネアイコ。讃岐弁の台詞などはそのまま生かされている。2008年4月に最初の単行本が刊行された。


  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「特集 追討大林宣彦監督 デンデケデケデケは鳴り止まない」 (PDF) 広報かんおんじ2020年10月号 pp.1–9 - 観音寺市
  2. ^ 映画版では演奏時にはずしている場面がある。
  3. ^ 映画では三豊市 (撮影当時は豊中町)に実在する農機具メーカーのイナダ(旧稲田農機[1])でロケをおこなっている。
  4. ^ a b 史実においては「わかば」の発売は1966年、「エコー」は1968年(参考:“JT、「わかば」「エコー」など3銘柄終了へ”. 日本経済新聞. (2019年7月24日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO47748100U9A720C1916M00/ 2021年3月5日閲覧。 )のため、竹良が1年生だった1965年にはいずれもまだ存在していない。
  5. ^ a b 『青春デンデケデケデケ』DVD・デラックス版の特典映像の大林宣彦と芦原すなおの対談より
  6. ^ a b c d e f g 沼尻正之「大林映画にとって「地域」とは何か? : 尾道三部作とそれ以後」『追手門学院大学文学部紀要;The Meaning of“Region”for Obayashi Nobuhiko’s Films :Onomichi Trilogy and His Later Films, Otemon Gakuin University』3月10日 第6巻、追手門学院大学地域創造学部、2021年、39-40頁、NAID 400226523322023年6月17日閲覧 
  7. ^ a b 野沢尚『映画館に、日本映画があった頃』キネマ旬報社、188–191頁。 
  8. ^ “支局長からの手紙 広報紙の「青春デンデケ」/香川”. 毎日新聞. (2021年2月1日). https://mainichi.jp/articles/20210201/ddl/k37/070/308000c 2021年11月19日閲覧。 
  9. ^ ただしエンドロールで曲名に続けて(歌手名)が表記されているもののみで、「祖谷の粉挽き唄」など一部の曲で音源が使われていても歌手名の表記がないものは★は付けていない。
  10. ^ 1970年代にデビューし、「マイ・シャローナ」を発表した同名のバンドとは異なる。
  11. ^ a b 大林宣彦「解説 - 少年の約束」『青春デンデケデケデケ』河出文庫、1992年、pp.220 - 224
  12. ^ a b c d 【エド山口】「青春デンデケデケデケ」エピソード!”. YouTube. エド山口チャンネル (2020年3月30日). 2020年4月12日閲覧。
  13. ^ a b c d e f g h i j k 大林宣彦「林泰文インタビュー 『人生の節目にはいつも大林監督がいたんです』」『4/9秒の言葉―4/9秒の暗闇+5/9秒の映像=映画』創拓社、1996年、81–84頁。ISBN 4871382184 
  14. ^ 『大林宣彦のa movie book尾道』たちばな出版、2001年、190頁。ISBN 4-8133-1380-9 
  15. ^ 「ZIGZAG大接近 南野陽子が映画ロケ先から突如帰っちゃったワケ」『週刊宝石』1991年12月19日号、光文社、214頁。 
  16. ^ 2020年4月11日のツイート - 浅野忠信公式twitter
  17. ^ 小中和哉「最も幸運な大林チルドレン」」『総特集 大林宣彦 1938-2020』ユリイカ2020年9月臨時増刊号、青土社、118–121頁。ISBN 9784791703890http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3459&status=published 
  18. ^ a b 根岸季衣「監督を偲び」」『総特集 大林宣彦 1938-2020』ユリイカ2020年9月臨時増刊号、青土社、226–227頁。ISBN 9784791703890http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3459&status=published 
  19. ^ a b c Question?が初主演舞台 - 朝日新聞デジタル2007年1月20日


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