荒野より (小説)
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文壇の反響・同時代評価
江藤淳は、三島としては珍しい心境小説の「生き生きとして躍動して」いる前半部分の描写を高評価しつつも、作品終盤の「下げ」は、「作家らしい哲学」が付け加えられて、あまりに「気は利いている」がゆえに、〈本当のこと〉らしくないと評している[14]。
山本健吉は、「すっきりまとまった短編」と評し、闖入者の青年を通じて、「自分の小説の毒と対面せざるをえなかった」三島には、その毒がいつか「小説家自身をも毒するものだという予想」があるとし[15]、三島の唱えている、〈芸術家にはたしかに、酒を売る人に似たところがある。彼の作品には酒精分が必要であり、酒精分を含まぬ飲料を売ることは、彼の職業を自ら冒瀆するやうなものである〉という考えに関しては、「(三島)氏が中年期にさしかかり、老年期にはいったとき、なおこのような芸術観が氏をささえうるだろうか」と述べ[15]、山本自身は「芸術による酩酊」は欲せず、少なくとも散文芸術の小説において求めるものは、「心の静穏」だと異論を唱えている[15]。
磯田光一は、三島が『危険な芸術家』という評論の中で、青少年にエレキは有害でベートーヴェンは安全で有益であるという考えが〈近代的な文化主義〉の影響で世に蔓延り、〈ベートーヴェンのベの字もわからない俗物〉もそれを鵜呑みにし、〈政府の文化政策〉もその線から離れられないことに言及しながら、〈毒であり危険なのは音楽自体であつて、高尚なものほど毒も危険度も高いといふ考へは、ほとんど理解されなくなつてゐる〉[16] と指摘していることに触れつつ[17]、『荒野より』の中に、それと同様の三島の「芸術的マニュフェスト」や、「自己批評」を我々が読み取ったとしても、「日常生活と荒野との間にひろがる溝の深さは、大きくも小さくもならない」として、この作品意義を以下のように評価している[17]。
この荒野のなかにどのような暗喩を読むかは人の自由である。だが草も木もない不毛の荒野こそ、あらゆる文化の価値体系が相対的に見えてしまうゼロ地点、さらにいえば、芸術家が作品という虚構の裏側でたえず向き合うことを強いられているどす黒い虚無に通じるものではあるまいか。
「作品」は、「言葉」というオブラートに包まれた毒薬である。いや、このばあいオブラートという比喩は必ずしも適当ではない。「言葉」はつねに社会の側に属しており、「社会」の側から見るならば、「毒」とは何物でもない。「毒」と「社会」との断絶に架橋するものは、「言葉」の魔術以外にあろうはずはないのである。 — 磯田光一「文化主義に背くもの――『荒野より』について」[17]
佐伯彰一は、『荒野より』の中で、芸術家を〈酩酊を売る人〉、諸作品を〈酒〉と言った三島の自覚を「不気味なほどの的確さ」とし、後半の〈私〉と〈あいつ〉との「重ね合せ」の明晰な分析や、孤独への嗅覚の鋭敏さは鮮やかで、「きりりと引きしまった短篇」ではあるとしながらも、短編小説自体の読後感として見た場合、「割り切れすぎて、含みと余情に乏しい」と評し[18]、同じく「孤独」のテーマを扱い、「聞き書きの話」という間接法で書かれた、芥川龍之介の短編『孤独地獄』の方が孤独に身につまされている余韻が感じられるとして、両作品の比較論を展開している[18]。
佐伯は、『花ざかりの森』から『豊饒の海』に至るまで、〈孤独〉は三島作品の基本テーマの一つであったが、芥川やその弟子の堀辰雄、さらに太宰治と比べてみると、三島の対処は、「孤独そのものの定着、造型」の点で「弱味が目立つ」とし[18]、三島の場合は早急に自己を対象化し、「位置づけと診断」の方向へ一気に突っ走り、太宰とは違う意味で「生きることに心せいた」三島であったが、「孤独に対してさえも、終始前のめりの姿勢をとりがちだった」と考察している[18]。そして、もしも三島が死なずに逮捕され、「獄中」に下り、ワイルドのように蔑まれる孤独を味わえば、新境地が開けて第二の三島文学がもたらされたかもしれないと、円地文子と同様の想像や願望を述べつつ三島を評伝し、『荒野より』のテーマと繋がる評論『小説とは何か』と未完の『日本文学小史』の二つの遺作を論じている[18]。
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m 青海健「異界からの呼び声――三島由紀夫晩年の心境小説」(愛知女子短期大学 国語国文 1997年3月号)。(青海・帰還 2000, pp. 58–83)。
- ^ a b c 山内洋「荒野より【研究】」(事典 2000, pp. 135–137)
- ^ a b 佐渡谷重信「荒野より」(旧事典 1976, p. 152)
- ^ a b c d e f 清水昶「日常の中の荒野――『真夏の死』、『孔雀』、『荒野より』、『独楽』」(清水昶 1986, pp. 60–75)
- ^ 田中美代子「解題――荒野より」(20巻 2002, p. 806)
- ^ 井上隆史編「作品目録――昭和41年」(42巻 2005, pp. 440–444)
- ^ 山中剛史編「著書目録」(42巻 2005, p. 597)
- ^ “[https://www.chuko.co.jp/bunko/2016/06/206265.html 荒野より 新装版]”. 中央公論社 (2016年6月23日). 2022年12月11日閲覧。
- ^ 久保田裕子「三島由紀夫翻訳書目」(事典 2000, pp. 695–729)
- ^ 佐藤秀明・井上隆史編「年譜 昭和41年6月下旬」(42巻 2005, p. 282)
- ^ a b c 三島由紀夫「荒野より」(群像 1966年10月号)。『荒野より』(中央公論社、1967年3月)、荒野・中公 1975, pp. 10–28、群像18 1990, pp. 367–378、20巻 2002, pp. 517–537に所収
- ^ a b c d e f g h i 奥野健男「『英霊の声』の呪詛と『荒野より』の冷静」(奥野 2000, pp. 391–420)
- ^ a b c d 平岡梓「倅・三島由紀夫」(諸君! 1971年12月号-1972年4月号)。「第三章」(梓 1996, pp. 48–102)。
- ^ 江藤淳「文芸時評」(朝日新聞夕刊 1966年9月27日号)。江藤 1989, pp. 373–377に所収。事典 2000, p. 135に抜粋掲載。
- ^ a b c 山本健吉「文芸時評」(読売新聞 1966年9月27日号)。山本 1969, pp. 426–427に所収
- ^ 三島由紀夫「危険な芸術家」(文學界 1966年2月号)。荒野・中公 1975, pp. 124–126、美学講座 2000, pp. 54–56、33巻 2003, pp. 632–634に所収
- ^ a b c 磯田光一「文化主義に背くもの――『荒野より』について」(図書新聞 1967年4月1日号)。「三島由紀夫と現代 文化主義に背くもの――『荒野より』について」(磯田 1979, pp. 137–140)
- ^ a b c d e 佐伯彰一「《評伝・三島由紀夫》――二つの遺作」(『三島由紀夫全集』3巻-4巻、6巻、10巻、13巻、17巻-19巻月報付録)(新潮社、1973年-1974年)。「第二部 追想のなかの三島由紀夫――(一)二つの遺作」(佐伯 1988, pp. 77–126)に所収
- ^ a b c 村松剛「解説」(荒野・中公 1975, pp. 313–319)。「I 三島由紀夫――その死をめぐって 『荒野より』」(村松・西欧 1994, pp. 30–37)に所収
- ^ a b c d e 中上健次「三島由紀夫の短編」(群像18 1990, pp. 306–308)
- ^ a b c d e f g h 佐藤秀明「序章 三島由紀夫の『荒野』」(佐藤 2006, pp. 9–19)
- ^ 澁澤龍彦「絶対を垣間見んとして……」(新潮 1971年2月号)。澁澤 1986, pp. 75–85に所収
- ^ 大野晋『日本語練習帳』(岩波新書、1999年1月)
- ^ 井上隆史編「作品目録――昭和45年」(42巻 2005, pp. 456–460)
- ^ 山中剛史編「著書目録」(42巻 2005, p. 615-616)
- ^ 三島由紀夫「ドナルド・キーン宛ての書簡」(昭和45年2月27日付)。ドナルド書簡 2001, pp. 190–192、38巻 2004, pp. 447–449に所収
- ^ a b 徳岡孝夫「第八章 いつ死ぬ覚悟を?」(徳岡 1999, pp. 209–210)
- ^ a b c d 鈴木亜繪美「第一章 曙(五)『楯の会』百人の兵隊――五期生 須賀清の証言」(火群 2005, p. 69)
- ^ 田中美代子「解説――まだ文学が神聖だった頃」(遍歴エッセイ 1995, pp. 275–282)
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