神武天皇 年譜

神武天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 10:18 UTC 版)

年譜

『日本書紀』によると以下の通りであり、庚午年(誕生)と甲申年(立太子)は年齢から逆算した物であり、明記された干支は甲寅年(東征開始)が最初である[5]。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

以後3年間は、手研耳の反逆により空位となった。

橿原神宮

『古事記』によると日向では高千穂宮にいた。東征中に宇佐の足一騰宮(あしひとつあがりのみや、『日本書紀』では一柱騰宮)、筑紫の岡田宮、安芸の多祁理宮(『日本書紀』では埃宮)、吉備の高島宮に立ち寄った。即位後の宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では「橿原宮(かしはらのみや)」、『延喜式』では「畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)」、『古事記』では「畝火の白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」と記す(白檮はカシと読み、ブナ科の常緑高木でアラカシの別称)。『万葉集』にも「可之波良能宇禰備乃宮(かしはらのうねびのみや)」が発見できる[6]。伝承地は奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮

「橿原」の地名が早く失われたために宮跡は永らく不明であったが、江戸時代以来、多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基に口碑や古書の蒐集を行っており、その成果は蓄積されていった。幕末から明治には天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、明治21年(1888年)2月に奈良県県会議員の西内成郷内務大臣山縣有朋に対して宮跡保存を建言した(当初の目的は建碑のみ)。翌年に明治天皇の勅許が下り、県が「高畠」と呼ばれる橿原宮跡(の推定地、現在の外拝殿前広場)を買収。京都御所の内侍所を賜って本殿神嘉殿を賜って拝殿(現在の神楽殿)と成し、橿原神社(明治23年(1890年)に神宮号宣下、官幣大社)が創建された。

明治44年(1911年)から第一次拡張事業が始まり、橿原神宮は創建時の2万159坪から3万600坪に拡張される。その際に周辺の民家(畝傍8戸、久米4戸、四条1戸)の一般村計13戸が移転し(『橿原神宮規模拡張事業竣成概要報告』)、洞部落208戸、1054人が大正6年(1917年)に移転した(宮内庁「畝傍部沿革史」)。

太古(1万年前~2500年前)には、奈良盆地は「奈良湖(大和湖)」という湖であった。奈良湖南岸には、縄文時代から大集落(後の橿原遺跡)が存在していた。奈良湖は、6000年前には、湖面標高70 mであったが、2500年前に、亀ノ瀬付近に陥没が起こり、水がゆっくりと河内湾に排出されていき、弥生時代には、湖面標高50 mとなり、面積は縮小し、古墳時代には消滅した。

昭和13年(1938年)より挙行された紀元2600年記念事業に伴い、末永雅雄の指揮による神宮外苑の発掘調査が行われ、その地下から縄文時代後期~晩期の大集落跡と橿の巨木が立ち木のまま16平方メートルにも根を広げて埋まっていたのを発見した。鹿沼景揚(東京学芸大学名誉教授)によると、これを全部アメリカのミシガン大学に持ち込み、炭素14による年代測定をすると当時から2600年前の物であり、その前後の誤差は±200年という事であった。この事から記紀の神武伝承には何らかの史実の反映があるとする説も存在する[7][8]

またこの時期に第二次拡張事業(昭和13年~15年、1938年~1940年)が行われた。社背の境内山林に隣接する畝傍及び長山部落の共同墓地、境内以西、畝傍山御料林以南、東南部深田池東側民家などを買収。「境内地としての風致を将来した。」(「昭和二十一年稿 橿原神宮史」五冊-三、五冊-五(橿原神宮所蔵))この事業は国費・紀元2600年記念奉祝会費により賄われた。

陵・霊廟

神武天皇 畝傍山東北陵
奈良県橿原市

(みささぎ)の名は畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)。宮内庁により奈良県橿原市大久保町の遺跡名・俗称「四条ミサンザイ[9] に治定されている(北緯34度29分51秒 東経135度47分16.5秒 / 北緯34.49750度 東経135.787917度 / 34.49750; 135.787917 (畝傍山東北陵(神武天皇陵))[10][11][12][13]埋蔵文化財包蔵地とはされていない[9]。宮内庁上の形式は円丘。

記紀によると畝傍山の北方、白檮尾(かしのお)の上にあると記されている。壬申の乱の際に大海人皇子が神懸りした際に「高市社の事代主神と身狭社の生霊神」が表れ「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」と神託を受けたため、[14] 神武陵に使者を送って挙兵を報告したとされる。天武期には陵寺として大窪寺が建てられたと見られる。延喜式の第21巻の『諸陵式』によると神武天皇陵は平安初期には東西1・南2町の広さであった。貞元2年(977年)には神武天皇ゆかりのこの地に国源寺が建てられたが、中世には神武陵の所在もわからなくなっていた。

江戸時代初期より神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっており、水戸光圀が『大日本史』の編纂を始めた頃に幕府も天皇陵を立派にする事で幕府の権威をより一層高めようとした。元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われ、その時に神武天皇陵に治定されたのが畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在は第2代綏靖天皇陵に治定されている)。しかし畝傍山からいかにも遠く、山上ではなく平地にあため、福塚よりも畝傍山に少し近い「ミサンザイ」あるいは「ジブデン(神武田)」という場所にある小さな塚(現在の神武陵)という説や、最有力の洞の丸山という説もあった。

文久3年(1863年)に神武陵はミサンザイに決定され、徳川幕府が15000両を出して修復し、同時期に神武天皇陵だけでなく、百余りの天皇陵全体の修復を行った。この時、山陵奉行として天皇陵修復の任に当たったのは宇都宮藩家老の戸田忠至、神武天皇陵治定に大きな役割を果たしたのは戸田に従事した三条西家の侍臣の谷森善臣であると言われている。同年の8月13日には孝明天皇自ら神武天皇陵への行幸が布告されたが、八・一八の政変により中止となった。が、修復が完成した11月28日には勅使柳原光愛を神武天皇山陵に派遣し、年末の12月8日には御所の東庭にて孝明天皇自ら神武天皇陵を拝し祈りを捧げた。(「孝明天皇紀」)

このように神武天皇陵の治定は紆余曲折の歴史があり、国源寺は明治初年に神武天皇陵の神域となった場所から大窪寺の跡地へと移転したが、ミサンザイにあった塚はもとは国源寺方丈堂の基壇であったという説もある。

確証に乏しい陵墓選定ではあったが、明治時代以降には文字通り神格化が進んだ。1916年(大正6年)には畝傍山中腹にあった洞村(208戸)が天皇陵を見下ろしているとして集団移転させられた出来事もあった[15]

現陵は橿原市大久保町洞(古くは高市郡白檮<かし>村大字山本)に所在し、畝傍山から東北に300m離れており、東西500m・南北約400mの広大な領域を占めている。毎年4月3日には宮中と複数の神社にて神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっている。皇居では皇霊殿宮中三殿の1つ)において、他の歴代天皇・皇族と共に神武天皇の霊が祀られ、神武天皇祭当日には天皇自らその祭りを執り行っている。


注釈

  1. ^ a b c 日本書紀』の記載から換算すれば、ユリウス暦紀元前711年2月13日となる。
  2. ^ 実在していたかどうか様々な説があるが、実在しない伝説上の人物であるとする説が一般であり、通説である。
  3. ^ 神武天皇自身は瓊瓊杵尊を「天祖」と呼び、『日本書紀』は神代下の冒頭で高皇産霊尊を「皇祖」と記している。
  4. ^ 初代天皇の立太子は明らかに不合理であるが、父の彦波瀲武鸕鶿草葺不合命を天皇に準じて扱ったとも見られる。父がいつ崩御したかの記述は無いが、東征開始時に父を「皇考」(亡父の意)と呼んでおり、これ以前に崩じたと見られる。
  5. ^ 日本書紀』の記載から換算すれば、紀元前697年となる。
  6. ^ 干支年は、後漢建武26年(50年)に三統暦の超辰法をやめ(元和2年に正式改暦)以降は60の周期で単純に繰り返している。
  7. ^ 天文学上の記法では-659年2月18日、ユリウス通日は1480407となる。

出典

  1. ^ a b c d 本朝皇胤紹運録』。
  2. ^ a b c 日本書紀』による。
  3. ^ (井上 1973)P275
  4. ^ 上田正昭 「諡」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。
  5. ^ 『日本書紀(一)』岩波書店 ISBN 9784003000410
  6. ^ 畝傍橿原宮(国史).
  7. ^ 「生命の教育」 平成8年5月号、季刊『生きる知恵』第9号「科学的根拠のある神武天皇伝説」東神会出版室
  8. ^ 樋口清之「日本古典の信憑性-神武天皇紀と考古学」『現代神道研究集成9巻』 神社新報社 1998年
  9. ^ a b 陵墓の治定と祭祀に関する第三回質問主意書”. 衆議院 (2010年11月30日). 2018年9月1日閲覧。
  10. ^ 『陵墓地形図集成 縮小版』 宮内庁書陵部陵墓課編、学生社、2014年、p. 400。
  11. ^ 天皇陵(宮内庁)。
  12. ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)8コマ。
  13. ^ 畝傍山東北陵(国史).
  14. ^ 日本書紀』、巻第28
  15. ^ 真実からやっと神話へ『朝日新聞』1976年(昭和51年)3月1日朝刊、11版、9面
  16. ^ 「神武天皇論」国書刊行会 2020-6
  17. ^ 藤田覚「幕末の天皇」講談社学術文庫 2013 85、86頁
  18. ^ 武田秀章「維新期天皇祭祀の研究」大明堂 平成8年 52‐84頁
  19. ^ 清水潔「神武天皇論」国書刊行会 令和2年 301頁
  20. ^ 田中卓『日本国家の成立』1992年。
  21. ^ 宝賀寿男『「神武東征」の原像』青垣出版、2006年。
  22. ^ 久保田穰『古代史における論理と空想 邪馬台国のことなど』大和書房、1992年。
  23. ^ 志賀剛「大和朝廷の起源と発生」『日本の神々と建国神話』雄山閣出版、1991。
  24. ^ 武光誠『日本誕生』、1991年。
  25. ^ 松前健「古代王権の神話学」雄山閣 2003 183頁
  26. ^ 国史大辞典』吉川弘文出版。
  27. ^ Oldest ruling house”. ギネス世界記録. 2021年6月26日閲覧。






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