石山寺 概要

石山寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/26 13:17 UTC 版)

概要

当寺は、琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にある。本堂は国の天然記念物珪灰石(「石山寺硅灰石」)という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっている(石山寺珪灰石は日本の地質百選に選定)。

蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は、石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。紅葉の名所としても知られ、秋にはライトアップが行われており、2015年(平成27年)に日本夜景遺産に認定された[2]。また、洋画家の三谷祐幸によって寄付された関西美術院を所有する。

歴史

石山寺縁起絵巻』によれば[3]聖武天皇発願により、天平19年(747年)、良弁東大寺開山・別当)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのが始まりとされている。聖武天皇は東大寺大仏の造立にあたり、像の表面に鍍金(金メッキ)を施すために大量の黄金を必要としていた。そこで良弁に命じて、黄金が得られるよう、吉野金峯山に祈らせた。金峯山はその名の通り、「金の山」と信じられていたようである。そうしたところ、良弁の夢に吉野の金剛蔵王(蔵王権現)が現われ、こう告げた。「金峯山の黄金は、(56億7千万年後に)弥勒菩薩がこの世に現われた時に地を黄金で覆うために用いるものである(だから大仏鍍金のために使うことはできない)。近江国志賀郡の湖水の南に観音菩薩の現われたまう土地がある。そこへ行って祈るがよい」。夢のお告げにしたがって石山の地を訪れた良弁は、比良明神(≒白鬚明神)の化身である老人に導かれ、巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の6寸の金銅如意輪観音像を安置し、草庵を建てた。そして程なく(実際にはその2年後に)陸奥国から黄金が産出され、元号を天平勝宝と改めた。こうして良弁の修法は霊験あらたかなること立証できたわけであるが、如意輪観音像がどうしたことか岩山から離れなくなってしまった。やむなく、如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の草創という。そもそも正倉院文書によれば、この石山の地は、東大寺を建立するために近江国の各所から伐採してきた木材を集めておく場所であったのが知れる。この地が東大寺や良弁と強い繋がりがあったのが分かる。

その他資料としては『元亨釈書[4] や、後代であるが宝永2年(1705年)の白鬚大明神縁起絵巻がある[5]

その後、天平宝字5年(761年)から造石山寺所という役所のもとで堂宇の拡張、伽藍の整備が行われた。正倉院文書によれば、造東大寺司からも仏師などの職員が派遣されたことが知られ、石山寺の造営は国家的事業として進められていた。これには、淳仁天皇孝謙上皇が造営した保良宮が石山寺の近くにあったことも関係しているといわれる。本尊の塑造如意輪観音像と脇侍の金剛蔵王像、執金剛神像は、天平宝字5年(761年)から翌年にかけて制作され、本尊の胎内に聖徳太子念持仏の6寸如意輪観音像を納めたという。こうして石山寺は華厳宗の寺院として寺観が整えられていった。

それ以降から平安時代前期にかけての寺史はあまりはっきりしていないが、寺伝によれば、初代の座主(ざす、「住職」とほぼ同義)に聖宝が就いて真言宗の寺院となっている。その後も観賢などの当時高名な僧が座主として入寺している。聖宝と観賢はいずれも醍醐寺関係の僧である。石山寺と醍醐寺は地理的にも近く、この頃から石山寺の密教化が進んだものと思われる。

石山寺の中興の祖といわれるのが、菅原道真の孫の第3世座主・淳祐内供(寛平2年〈890年〉 - 天暦7年〈953年〉)である。内供とは内供奉十禅師(ないくぶじゅうぜんじ)の略称で、天皇の傍にいて常に玉体を加持する僧の称号である。高僧でありながら諸職を固辞していた淳祐は、やがてこの内供と称されるようになった。「石山内供」・「普賢院内供」とも呼ばれている。淳祐は体が不自由で、正式の坐法で坐ることができなかったことから学業に精励し、膨大な著述を残している。彼の自筆本は今も石山寺に多数残存し、「匂いの聖教(においのしょうぎょう)」と呼ばれ、一括して国宝に指定されている。このころ、石山詣が宮廷の官女の間で盛んとなり、『蜻蛉日記』や『更級日記』にも描写されている。

承暦2年(1078年)1月2日、落雷によって本堂が半焼し、本尊の塑造如意輪観音像も損壊したため、永長元年(1096年)に本堂(国宝)を再建し、新たな本尊として如意輪観音坐像(重要文化財)を祀る形となった。

東大門、多宝塔鎌倉時代初期、源頼朝の寄進により建てられたものとされる。この頃には、だいたい現在見るような寺観が整ったと思われる。

戦国時代元亀4年(1573年)2月に光浄院暹慶室町幕府第15代将軍足利義昭の味方をして織田信長に背き、石山寺の南にあった石山城に立て籠もったが、すぐに柴田勝家の攻撃を受けて降伏している。この合戦によって石山寺のいくつかの堂舎が被害を受けている。その後、信長によって寺領5,000石が没収されてしまったが、信長の死後、豊臣秀吉によって文禄5年(1596年)にいくつかの寺領が返還されている。

慶長6年(1601年)には徳川家康によって寺領579石が認められている。

慶長年間(1596年 - 1615年)、淀殿によって石山寺の復興が行われ、慶長7年(1602年)には本堂の合の間と礼堂が改築されている。

石山寺は全山炎上するような兵火には遭わなかったため、建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財を多数伝存している。

令和3年(2021年)第52代座主鷲尾遍隆が死去。同年12月21日に長女の鷲尾龍華が第53代座主に就任。奈良時代の747年創設以来、初の女性座主となった[6]

石山寺と文学作品

石山寺の紫式部(歌川広重 (3代目)画)

石山寺は、多くの文学作品に登場することで知られている。

清少納言の『枕草子』二百八段(三巻本「日本古典文学大系」)には「寺は壺坂笠置法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。石山粉河志賀」とあり、藤原道綱母の『蜻蛉日記』では天禄元年(970年)7月の記事に登場する。『更級日記』の筆者・菅原孝標女寛徳2年(1045年)、石山寺に参篭している。紫式部が『源氏物語』の着想を得たのも石山寺とされている。伝承では、寛弘元年(1004年)、紫式部が当寺に参篭した際、八月十五夜の名月の晩に、「須磨」「明石」の巻の発想を得たとされ、石山寺本堂には「紫式部の間」が造られている。

和泉式部日記』(十五段)では、「つれづれもなぐさめむとて、石山に詣でて」とあり、和泉式部敦道親王との関係が上手くいかず、むなしい気持を慰めるために寺に籠った様子が描かれている。


注釈

  1. ^ 1961年(昭和36年)の国宝指定時には「60巻1帖」だったが、寺内で新たに発見された13巻が2002年(平成14年)に追加指定されている。
  2. ^ 納入品は平成15年5月29日文部科学省告示第105号で追加指定。文化庁サイトの「国指定文化財等データベース」では納入品の記載が脱落している。
  3. ^ 1948年昭和23年)の盗難以前の画像。盗難後に首から下の部分は発見されているが、頭部は行方不明である。

出典

  1. ^ 琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産”. 文化庁. 2020年9月20日閲覧。
  2. ^ “日本初、夜景遺産の紅葉 大津・石山寺でライトアップ”. 京都新聞. (2015年11月13日). オリジナルの2015年11月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151114090617/http://www.kyoto-np.co.jp/shiga/article/20151113000217 2020年5月27日閲覧。 
  3. ^ 薗田稔、橋本政宣『神道史大辞典』(snippet)吉川弘文館、2004年https://books.google.co.jp/books?id=Yz0QAQAAMAAJ , p.494
  4. ^ 相馬大近江33ヵ所』(preview)保育社、1982年。ISBN 9784586505814https://books.google.co.jp/books?id=Qt0dGmPoUbEC&pg=PA8 , p.8-9
  5. ^ 白鬚大神社縁起(白鬚大明神縁起絵巻原文)”. 白鬚神社. 2012年6月閲覧。
  6. ^ 読売新聞オンライン(2023年4月11日)
  7. ^ 石山寺 2006, p. 54-56.
  8. ^ 石山寺 2006, p. 33 - 37.
  9. ^ 石山寺 2006, p. 30.
  10. ^ 石山寺 2006, p. 44 - 48.
  11. ^ 石山寺 2006, p. 38 - 39.
  12. ^ 石山寺 2006, p. 40 - 41.
  13. ^ 石山寺 2006, p. 59.
  14. ^ 石山寺 2006, p. 57 - 58.
  15. ^ 石山寺 2006, p. 49 - 50.
  16. ^ 光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館”. 大津市大河ドラマ「光る君へ」活用推進協議会. 2023年12月26日閲覧。
  17. ^ 石山寺 2006, p. 25.
  18. ^ 石山寺 2006, p. 61.
  19. ^ 【重要】勅封秘仏御本尊 如意輪観世音菩薩 御開扉 期間延長について”. 石山寺公式ホームページ (2020年6月24日). 2020年7月1日閲覧。
  20. ^ a b c d 平成20年12月2日文部科学省告示第172号
  21. ^ 宇野茂樹 1978, p. 519-520.
  22. ^ 宇野茂樹 1978, p. 519 - 520.
  23. ^ 宇野茂樹 1978, p. 524 - 527.
  24. ^ 宇野茂樹 1978, p. 524-527.
  25. ^ 平成16年6月8日文部科学省告示第112号






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