本願寺の歴史 東西分立後

本願寺の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/13 15:00 UTC 版)

東西分立後

東西分立以降も昭和62年(1987年)までは、東西ともに「本願寺」が正式名称である[注釈 12]

分立以降の歴史
西本願寺の歴史については、西本願寺「歴史」の項目を参照。
東本願寺の歴史については、東本願寺「年表」、および真宗大谷派「東西分裂以降の歴史」の項目を参照。

脚注

参考文献

関連項目


注釈

  1. ^ 弘長2年11月28日…西暦(ユリウス暦・グレゴリオ暦換算ともに)「1263年」になるが、弘長2年はまだ年を越していないので「1262年」と考える。 よって、文献の「親鸞の示寂」の年の西暦を、和暦に基づいて「1262年」と表記する場合と、新暦に基づいて「1263年」と表記する場合があるので注意が必要である。
  2. ^ 本願寺派高田派などでは、明治5年11月の改暦(グレゴリオ暦〈新暦〉導入)に合わせて、生歿の日付を新暦に換算し、生誕日を5月21日に、命日を1月16日に改めた。
  3. ^ 吉水の北の辺…現在の東山区林下町 知恩院塔頭の「崇泰院」付近
  4. ^ 大網の草庵…大網の草庵は、後に寺格化され「願入寺」となる。
  5. ^ 大田壮一郎論文(2005年、P19-23)によれば、妙香院が正しいとされる。
  6. ^ 蓮如…大谷派では、「」の字は」(二点之繞)を用いて表記するのが正式であるため、「」と表記するのが正式である
  7. ^ 長島一向一揆において、信長は和睦成立後に、反故し一揆勢を虐殺した前例があるため。
  8. ^ 信長の目を逸らすための顕如の策略との説もある。
  9. ^ a b 教如の事。
  10. ^ a b c 顕如の事。
  11. ^ a b 准如の事。
  12. ^ 東本願寺は、昭和62年に「宗教法人 本願寺」を解散し、「宗教法人 真宗大谷派」に合併される。東本願寺の伽藍を「真宗本廟」と改称する。

出典

  1. ^ 参考文献…河野法雲・雲山龍珠 監修『真宗辞典』法藏館、新装版、P.605「如信」
  2. ^ 大田壮一郎「初期本願寺と天台門跡寺院」大阪真宗史研究会 編『真宗教団の構造と地域社会』(清文堂出版、2005年) ISBN 4-7924-0589-0 p11-40
  3. ^ 太田光俊「本願寺〈門跡成〉と〈准門跡〉本願寺」永村眞 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-251-3
  4. ^ 阿部能久 『戦国期関東公方の研究』 思文閣、2006年 、第三章第三節「関東公方と一向一揆」
  5. ^ 上場顕雄『教如上人-その生涯と事績-』東本願寺出版部





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