本願寺の歴史
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東西分立後
東西分立以降も昭和62年(1987年)までは、東西ともに「本願寺」が正式名称である[注釈 12]。
- 分立以降の歴史
- 西本願寺の歴史については、西本願寺「歴史」の項目を参照。
- 東本願寺の歴史については、東本願寺「年表」、および真宗大谷派「東西分裂以降の歴史」の項目を参照。
脚注
参考文献
- 河野法雲、雲山龍珠 監修『真宗辞典』(新装版)法藏館、1994年。ISBN 4-8318-7012-9。
- 千葉乗隆『浄土真宗』ナツメ社〈図解雑学〉、2005年。ISBN 4-8163-3822-5。
- 宮城 顗『宗祖聖人親鸞』 (下)、真宗大谷派宗務所出版部、1988年。ISBN 978-4-8341-0182-9。
- 高松信英、野田晋『親鸞聖人伝絵』 御伝鈔に学ぶ、真宗大谷派宗務所出版部、1987年。ISBN 978-4-8341-0164-5。
- 豊原大成『親鸞の生涯』法藏館、1986年。ISBN 4-8318-2305-8。
- 今井雅晴『如信上人』(改訂版)真宗大谷派東京教務所、1998年。
- 東澤眞静『蓮如の生涯』法藏館、1986年。ISBN 4-8318-2302-3。
- 真宗大谷派宗務所 編『真宗の教えと宗門の歩み』(第3版)真宗大谷派宗務所出版部、2007年。ISBN 978-4-8341-0273-4。
関連項目
注釈
- ^ 弘長2年11月28日…西暦(ユリウス暦・グレゴリオ暦換算ともに)「1263年」になるが、弘長2年はまだ年を越していないので「1262年」と考える。 よって、文献の「親鸞の示寂」の年の西暦を、和暦に基づいて「1262年」と表記する場合と、新暦に基づいて「1263年」と表記する場合があるので注意が必要である。
- ^ 本願寺派・高田派などでは、明治5年11月の改暦(グレゴリオ暦〈新暦〉導入)に合わせて、生歿の日付を新暦に換算し、生誕日を5月21日に、命日を1月16日に改めた。
- ^ 吉水の北の辺…現在の東山区林下町 知恩院塔頭の「崇泰院」付近
- ^ 大網の草庵…大網の草庵は、後に寺格化され「願入寺」となる。
- ^ 大田壮一郎論文(2005年、P19-23)によれば、妙香院が正しいとされる。
- ^ 蓮如…大谷派では、「蓮」の字は「辶」(二点之繞)を用いて表記するのが正式であるため、「蓮如」と表記するのが正式である
- ^ 長島一向一揆において、信長は和睦成立後に、反故し一揆勢を虐殺した前例があるため。
- ^ 信長の目を逸らすための顕如の策略との説もある。
- ^ a b 教如の事。
- ^ a b c 顕如の事。
- ^ a b 准如の事。
- ^ 東本願寺は、昭和62年に「宗教法人 本願寺」を解散し、「宗教法人 真宗大谷派」に合併される。東本願寺の伽藍を「真宗本廟」と改称する。
出典
- ^ 参考文献…河野法雲・雲山龍珠 監修『真宗辞典』法藏館、新装版、P.605「如信」
- ^ 大田壮一郎「初期本願寺と天台門跡寺院」大阪真宗史研究会 編『真宗教団の構造と地域社会』(清文堂出版、2005年) ISBN 4-7924-0589-0 p11-40
- ^ 太田光俊「本願寺〈門跡成〉と〈准門跡〉本願寺」永村眞 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-251-3
- ^ 阿部能久 『戦国期関東公方の研究』 思文閣、2006年 、第三章第三節「関東公方と一向一揆」
- ^ 上場顕雄『教如上人-その生涯と事績-』東本願寺出版部
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