廟堂建立とは? わかりやすく解説

廟堂建立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 06:26 UTC 版)

本願寺の歴史」の記事における「廟堂建立」の解説

大谷廟堂」の詳細については、「大谷廟堂」を参照文永9年1272年)、親鸞弟子東国関東)の門徒協力得た覚信尼親鸞末娘)により、親鸞墓所を「大谷」の地より「吉水の北の辺」に改葬し「大谷廟堂」を建立する建治3年1277年)、大谷廟堂管理護持する留守職」(るすしき)は覚信尼が当たる。 弘安3年1280年)、覚信尼その子覚恵親鸞の孫)の依頼により、如信親鸞の孫)が大谷廟堂法灯を継ぐ。 しかし寺務覚信尼覚恵委任し陸奥国にある大網の草庵戻り布教活動続ける(『大谷本願寺通紀』)。 如信は、親鸞祥月忌のため毎年上洛し、その際覚如親鸞曾孫に対して宗義教える。後に、覚如によって如信は「本願寺第二世」に定められる弘安6年1283年)、覚信尼入滅にともない覚恵大谷廟堂の「留守職」を継承する永仁3年1295年)、親鸞の「御影像」を安置影堂化し大谷影堂」となる。 正安4年1302年)、覚恵唯善親鸞の孫で覚恵とは異父弟)の間に起こった大谷廟堂留守就任問題唯善事件)が勃発する延慶2年1309年7月青蓮院により覚恵長男である覚如継承することと裁定下される敗れた唯善は「大谷廟堂」を徹底的に破壊して鎌倉逃亡する延慶3年1310年)、覚如東国関東)の門徒了承得て大谷廟堂の「留守職」を継承する。(~1314年1322年1338年1342年1350年委譲復職繰返す。〉) このことから、大谷廟堂寺院化した後も、本願寺法主血縁によって継承されるうになる延慶4年/応長元年1311年)、覚如親鸞五十回忌に当たり「御影像」と影堂再建する応長2年1312年)、覚如は「大谷影堂」(「大谷廟堂」)を寺格化しようと「専修寺」と額を掲げるが、延暦寺反対により撤去する。『存覚一期記』によると、高田門徒真仏上人門弟である法智がこの「専修寺」の額を下野国にある高田如来堂持ち帰ったという。後に如来堂専修寺に名称を改めている。 正和3年1314年)、存覚留守職を継承する。(~1322年1338年1342年その後覚如により、解任復職繰返す義絶事件)。

※この「廟堂建立」の解説は、「本願寺の歴史」の解説の一部です。
「廟堂建立」を含む「本願寺の歴史」の記事については、「本願寺の歴史」の概要を参照ください。

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