浄土真宗の発展と本願寺教団の形成
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「本願寺の歴史」の記事における「浄土真宗の発展と本願寺教団の形成」の解説
浄土真宗は弱小勢力であった本願寺を横目に、親鸞の門弟たちの教団によって発展していった。 関東では真仏・顕智の系統をひく高田門徒(専修寺を中心とする)・荒木門徒・和田門徒が、他にも鹿島門徒・伊達門徒・横曽根門徒が有力であった。特に高田門徒は非常に盛んであった。 了源の教団は、京都の佛光寺を中心にして「名帳」・「絵系図」によって近畿で発展をとげる。 また、北陸では如道を祖とする三門徒が勢いを持っていた。 康応2年/明徳元年(1390年)、綽如が「本願寺」を継承し第五世になるも、まもなく寺務は法嗣である第2子の巧如に委任する。また、綽如によって本尊が帰命尽十方無碍光如来の十字名号から木造阿弥陀如来立像に変更された。 綽如は越中(富山県)井波に瑞泉寺を建立する。 明徳4年(1393年)4月24日、瑞泉寺にて第五世綽如が入滅する。 応永元年(1394年)、綽如入滅にともない、寺務を委任されていた巧如が「本願寺」を継承し第六世となる。巧如は本堂に阿弥陀如来立像と親鸞御影像の両方を安置させている現状に不満を感じ、阿弥陀如来は阿弥陀堂に、御影像は御影堂に祀るべきだと考えたが、資金がなく実現しなかった。 第六世巧如も瑞泉寺で北陸への教化を行う。つづく第七世存如の時代により発展し、近江(滋賀県)・加賀(石川県)・能登(石川県)・越前(福井県)などで本願寺教団の形成がみられるようになる。 本願寺は、近江や北陸地方を中心に徐々にではあるが教線を拡張する。
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