山田 (伊勢市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/09 14:19 UTC 版)
概要
宮川と勢田川に挟まれた平地に位置し、室町時代以来現在に至るまで伊勢の中心として機能している。また伊勢市駅や宇治山田駅が交通の拠点となっているほか、政治・経済等の面において広く南勢(伊勢志摩)地域の中心としての役割を担っている。
『伊勢市史』によると「山田」の範囲は以下の地区である。
※名称は1889年(明治22年)4月1日に町村制が施行され、宇治山田町が成立する以前のものである。☆は1868年(明治元年)12月に翌年の明治天皇の行幸を見越して改称された地区。
- 倭町☆ - 常明寺門前町より改称
- 尾上町(おのえ)☆ - 妙見町より改称
- 岡本町
- 岩淵町 - 現行の表記は「岩渕」が多い。
- 吹上町
- 河崎町
- 船江町
- 一之木町
- 豊川町
- 田中中世古町 - 1908年(明治41年)1月、本町に改称。
- 宮後町(みやじり)
- 一志久保町 - 1955年(昭和30年)1月、一志町に改称。
- 大世古町
- 曽祢町
- 八日市場町
- 下中之郷町 - 1931年(昭和6年)10月、宮町に改称。
- 常磐町☆ - 上中之町より改称
- 浦口町
- 二俣町
- 辻久留町(つじくる)
- 中島町
- 宮川町☆ - 中川原より改称
歴史
山田の歴史は深く、倭町で弥生時代の竪穴建物跡が発見されるなど、有史以前から人々が居住していたことが分かっている[1]。しかし、宮川や豊川はたびたび氾濫を起こしたため、実際に定住が進み集落が形成されたのは雄略天皇22年(西暦478年)に豊受大神が山田原に鎮座[2]して以降だと考えられている。
中世に入ると朝廷からの資金が滞るようになったことに加え、荘園勢力の台頭により山田は衰退の一途をたどることになる。そこに外宮の禰宜度会家行が現れ、伊勢神道(度会神道)を興す。これは外宮の祭神が内宮よりも神格が上であると主張するもので、山田の地位向上に大いに効果を発揮した。更に御師の活躍で全国に檀家を持つようになり、復興を果たしたと共に地理的な特性[3]もあり、室町時代頃には内宮を擁する宇治を上回る規模に発展した。
この頃山田と宇治の対立が激化し、たびたび町や神宮が炎上していた。また、代々の神官家と新興勢力との対立・衝突も見られた。
こうして力を付けた山田には郷(村)ごとに惣が結成され、それらをまとめる団体として山田三方が組織された。山田三方は神宮と深いつながりを持つ土倉などの有力者から構成され、座の営業権などを取り決める自治組織としての役割を果たした。その規模は、堺や博多に並ぶものであったとされる。この山田三方は明治時代に近代国家が成立するまで山田の自治組織として続いた。
近世になるとお蔭参りの流行などにより、町はますます発展していった。こうした中、徳川家康は宮川以東の神領を管轄するため慶長8年(1603年)山田奉行所を山田吹上に置いた[4]。この時代、日本の最初の紙幣(手形)と言われる「山田羽書」が発行されている。[5]
明治時代になると伊勢神宮が国家神道の頂点とされたため神都の顔として更に発展していく。1889年(明治22年)には対立関係にあった宇治と合併して宇治山田町(うじやまだちょう)に、1906年(明治39年)には津市・四日市市に次いで三重県で3番目に市制を施行した。山田には市役所がおかれたほか、明治の初期には度会府・度会県[6]の府庁・県庁の所在地でもあった。
神都の交通機関として、戦前までに参宮鉄道(現JR参宮線)・参宮急行(現近鉄山田線)・伊勢電(現在は廃止)が相次いで乗り入れ、それらの終点駅が山田に開業した。市内交通も発達し、神都線(路面電車)や御幸道路も整備された。
戦中には6度の空襲に遭った(宇治山田空襲)が無事復興を果たす。しかし高度経済成長期以降は全国の地方都市と同様、若年層の流出が続き、徐々に人口が減少し中心部の空洞化が進んだ。
現況
伊勢市唯一のデパートであった三交百貨店が2001年(平成13年)に撤退するなど衰退の色は否めない[7]。しかし他に匹敵する規模の市が存在しないため、現在でも三重県南部最大の町の中心であることには変わりない。
呼称について
現在のこの地域を「山田」と呼ぶことは少なく、山田の名が残っていた山田赤十字病院も、2012年1月にミタス伊勢へ移転し伊勢赤十字病院に改称され、山田という名称が消滅した。最近は山田と呼ぶ代わりに「伊勢市街地(伊勢中心街)」や単に「市街地」と表現されたり、後述する小中学校区名で呼ばれることが多い。
- あえて「山田」と言う場合は過去(特に江戸時代)に存在した外宮の鳥居前町を指すのが一般的である。
- 「山田」の呼称が残存している例として、JR山田上口駅、近鉄山田線[8]などがある。
- ただし、現在でも遷宮や神嘗祭など、神宮行事への参加は外宮は山田、内宮は宇治に分かれて行い[9]、神嘗祭を祝う各町の会式を集約統合した伊勢まつり(実質的に山田[10])・宇治大祭(宇治)[11]もこれを踏襲している。そのため、「山田」と呼ぶ機会は少ないものの、宇治との差異を意識する機会になっている。しかし、市町村合併により、従来の「山田」の外にも外宮の行事に参加する地域が拡大しているため、これらの地域は山田としての意識はない。
- ^ 現地では「隠岡遺跡公園」として竪穴建物が復元されている。
- ^ 日本書紀の記述による
- ^ 志摩国からの参拝を除き、陸路・海路を使って宇治に行くには必ず山田を通らねばならなかった。これは現在でも基本的に変わっていない。
- ^ 跡地はぎゅーとらクックエディーズ八間通店になっており、宇治山田市(伊勢市の旧称)時代に造られた石碑が現存する。なお、山田奉行所は後に度会郡小林(現在の伊勢市御薗町小林)に移された。
- ^ 日本紙幣の元祖「山田羽書」(三重県の文化)
- ^ 現在の三重県全域の旧幕府領、旗本領などを管轄、のちに三重県の南半分を管轄した府県。慶応4年(1868年)7月6日から明治2年(1869年)7月17日までは度会府、明治9年(1876年)4月18日に三重県に編入されるまでは度会県だった。
- ^ このことは伊勢市を舞台にした橋本紡の恋愛小説『半分の月がのぼる空』にも描かれ、物語の重要な要素となっている。
- ^ 過去には「伊勢電気鉄道本線→参急伊勢線→関急伊勢線→近鉄伊勢線」が存在し、現在も「伊勢鉄道伊勢線」が存在するが、いずれも令制国としての伊勢を指す。ただし、参急(関急)伊勢線は、1942年(昭和17年)までは山田に位置する大神宮前駅まで乗り入れていた。
- ^ お白石持行事についてはこの限りではなく、慶光院奉献団(磯町)を除く全ての奉献団が両方に参加する。
- ^ 従来、山田と宇治の祭りを総称して「伊勢おおまつり」として行っていた。本来の日程は山田は10月15・16日、宇治は17日であったが、1991年(平成3年)から山田は直前の土日を開催日にする一方、宇治は従来の日程を維持した。さらに、2009年に伊勢おおまつりが「伊勢まつり」と改称し、宇治地区が「宇治大祭」と名乗って単独の祭りを開くようになったことで、はっきり両者は分裂した。ただし、「伊勢まつり」は伊勢市が自治体として後援しており、名目上は現在でも伊勢市を代表する祭りと位置づけられている。
- ^ 主催は「宇治大祭運営委員会」。
- ^ a b 伊勢市環境生活部 戸籍住民課(2010)"町別統計表(人口・世帯)".(2010年9月20日閲覧。)
- ^ 『半分の月がのぼる空 looking up at the half-moon』(橋本紡著、電撃文庫、2003年10月25日発行、107頁)
- 1 山田 (伊勢市)とは
- 2 山田 (伊勢市)の概要
- 3 地域
- 4 脚注
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