尾崎豊
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基本情報 | |
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生誕 |
1965年11月29日 日本・東京都世田谷区 自衛隊中央病院 |
出身地 | 日本・東京都練馬区 |
死没 |
1992年4月25日(26歳没) 日本・東京都文京区 日本医科大学付属病院 |
学歴 |
練馬区立練馬東中学校卒業 青山学院高等部中退 |
ジャンル |
ロック フォーク |
職業 |
歌手 作詞家 作曲家 編曲家 詩人 実業家 |
担当楽器 |
ボーカル ギター ピアノ ハーモニカ カスタネット |
活動期間 | 1983年 - 1992年 |
レーベル |
CBS・ソニー (1983年 - 1986年) MOTHER&CHILDREN(WARNER MUSIC JAPAN、1987年 - 1989年) CBS・ソニー (1990年) Sony Records (1991年 - 1992年) |
配偶者 |
尾崎繁美 (1988年 - 1992年) |
著名な家族 |
尾崎裕哉(長男)
|
事務所 |
マザー・エンタープライズ (1983年 - 1989年) ROAD AND SKY (1990年) アイソトープ(1991年 - 1992年) |
共同作業者 |
須藤晃 西本明 田島照久 町支寛二 福田信[注釈 1] 佐藤輝 |
公式サイト | YUTAKA OZAKI OFFICIAL SITE |
概略
1983年(昭和58年)12月、シングル「15の夜」とアルバム『十七歳の地図』で高校在学中にデビュー[1][5]。ライブでの派手なパフォーマンスや、夢や愛、生きる意味をストレートに曲にし、同世代の若者たちからカリスマ的圧倒的支持を得た。
1992年(平成4年)4月、26歳で急死し、メディアにて連日報道がされた[注釈 2]。死後30年を過ぎてもなお幅広く支持され、楽曲は多くのアーティストにカバーされている[5][6]。
ジャクソン・ブラウン、ブルース・スプリングスティーン、ビリー・ジョエル、浜田省吾、佐野元春、井上陽水、アナーキー、甲斐バンド、さだまさしなどから強い影響を受けている[3][7][8]。
長男の尾崎裕哉は、同じくシンガーソングライターとして活動。
生涯
幼少 - 学生時代
1965年(昭和40年)11月29日、東京都世田谷区の自衛隊中央病院にて、陸上自衛隊防衛事務官の尾崎健一と妻の絹枝の次男として生まれる[1]。兄弟は5歳年上で、弁護士・元裁判官・埼玉弁護士会長の兄、尾崎康がいる。練馬区で育ち、練馬区立春日町第二保育園から練馬区立田柄第二小学校に入学した[1]が、1976年(昭和51年)8月、尾崎が小学5年生の時に埼玉県朝霞市へ転居し[9]、朝霞市内の公立小学校へ通う[1]。しかし、転校先の学校に馴染めず、毎朝登校するふりをして家を出たあと1時間ほどして家に帰り、実際には登校していない日々が続くようになった[9]。尾崎が音楽に触れるきっかけとなったのは、兄が購入して使用されていなかったクラシック・ギターを手に取り始めたことであった[9]。あらゆるフォークソング、シンガーソングライターの曲に興味を持っていた尾崎は、特に井上陽水が描き出す詞の世界観に強く惹かれていた[9]。小学校6年生になると半年に渡り登校拒否を続けており、その間、井上陽水やさだまさし、イルカの曲をギターを弾きながら歌う日々が続いていた[10]。
小学校を卒業すると、本人の希望で[11]練馬区立練馬東中学校へ越境入学[1]、中学の同級生に元バレーボール全日本代表の中田久美がいる。生徒会副会長、文化祭実行委員長を務めたが、喫煙により停学処分が下る[12]。高校受験では、第一志望であった慶應義塾志木高等学校には不合格だったものの、青山学院高等部に合格。さらに、陸上自衛隊少年工科学校の1次試験にも20倍の競争率を突破して合格した[13][14]。少年工科学校では髪を短くしなくてはいけないと知り、それを嫌った尾崎は青山学院高等部に進学することを決めた[14]。高校在学中には喫煙やオートバイでの事故などで停学、さらに、高校3年生の時には渋谷で同級生らと飲酒し、同じクラスの女子生徒が一気飲みをした事によって急性アルコール中毒で搬送された挙げ句、その直後には大学生のグループとパトカーが出動するほどの乱闘騒ぎを起こし、無期限停学処分を下される[15]。のちに停学処分は解けたが、出席日数が足りず留年となり、自主退学した。高校在学時には新聞配達[注釈 3]と飲食店でのアルバイトをしていた[17]。また、高校時代は剣道部に所属していた[18]。
その後、ジャケットを見ただけで何となく購入(ジャケ買い)したジャクソン・ブラウンの「ランニング・オン・エンプティ」を聴いて衝撃を受ける[19]。その影響で「街の風景」や「ダンスホール」などの曲が制作された[19]。
デビュー - 10代全盛期
高校2年生の秋、音楽で生計を立てていくことを決意した尾崎はCBS・ソニーが主催した『CBS/SONY Sound Development Audition 1982』、ビクター主催のオーディションにそれぞれ応募し[20]、CBS・ソニーのオーディションに合格する[1][21]。
尾崎は浜田省吾の音楽が好きで[8]、プロデューサーの須藤晃も作品の匂いに浜田との共通点を感じて[8]、デビュー・アルバム『十七歳の地図』のレコーディングには浜田省吾と佐野元春のツアーバンドを半々起用した[8][22]。『十七歳の地図』は初回プレスが2,000枚ほどであり[23][24]、事務所やレコード会社も積極的なプロモーションも行わなかったためにセールスは伸び悩んだ。
その後口コミにより人気が出て、4thシングル「卒業」の中の過激な歌詞が話題となり[25]、2ndアルバム『回帰線』は大手音楽チャート1位を記録[26]、尾崎の名は瞬く間に全国へと広がっていった[5]。
特に10代のころは「社会への反抗・疑問」や「反支配」をテーマにした歌を多く歌い、マスメディアからは「10代の教祖」などと呼ばれた[27][28]。校内暴力や学生による飲酒・喫煙が横行し、偏差値教育や受験戦争のひずみが露呈していた時代世相と相まって一部の若者の間で社会現象となる[27][注釈 4]。10代最後の日に3rdアルバム『壊れた扉から』を発売しヒット、同時期に行われていたツアーも満員となるなど人気は絶頂を迎える。当時の「シンプジャーナル」編集長・大越正実は「尾崎が3年前にデビューしていたらバカにされたんじゃないかと思う。ちょうどフォークソングを見直しする機運があり、若い人たちが"軽薄短小"に不安になってきて、言葉を聴き始めたからではないか」などと評している[29]。
無期限活動休止 -覚醒剤取締法違反で逮捕−完全復活
一世を風靡した尾崎は、20歳になり方向性を見失い突然無期限活動休止を宣言し単身渡米する[1][5]。当時曲を生み出せないことに苦悩していた尾崎は、何の収穫もないままその年の末に帰国する[30]。そんな中で所属事務所が立ち上げたレコード会社への移籍が決定[1][5]、プロデューサーの須藤ら懇意にしていた音楽スタッフとも離れてしまい、新しいアルバムの制作は何度も中断された[30]。その後、新曲の発売がないまま1年半ぶりのライブツアーが始まるも、9月に肉体的な疲労から倒れ、残りのツアーは中止となる[1][13]。その年の暮れには覚醒剤取締法違反で逮捕され精神的に低迷[31]、バックバンド「Heart Of Klaxon」のメンバーとも関係が悪化する[31]。復帰後にリリースした「太陽の破片」がヒット、フジテレビ系列の『夜のヒットスタジオ』に最初で最後のテレビ出演を行い、東京ドームにて復活ライブを行うが、同時期に制作していたアルバム『街路樹』は発売延期を繰り返し、シングル「核 (CORE)」の完成度を含め満足のいく活動からは程遠かった。
一方プライベートでは一般人の女性と結婚、長男が生まれ、新たな価値観を見出した尾崎は1990年(平成2年)、レコード会社を古巣のCBS・ソニーに復帰、2枚組アルバム『誕生』をリリースし、オリコン1位を記録。翌年には大規模ツアーを行うなど、尾崎は完全復活を遂げる。しかし同時に事務所やマスコミへの猜疑心は止むことはなく[32]、尊敬する浜田省吾の個人事務所であるロード&スカイも短期間で契約を解除した[32]。個人事務所「ISOTOPE」(アイソトープ)を立ち上げるも経営面の管理のほかにプロモートからライブスケジュールを自ら取り仕切らなければならず、多忙な日々を送る中で、再び精神的に追い詰められた尾崎は自殺を図るなど混迷を深めていった[33]。その後、遺作となる『放熱への証』の制作に取りかかるが、1991年(平成3年)末に母親が急死。交友関係も狭くなっていき、精神的状況はさらに悪い方向へ向かっていた。
20代になってからの尾崎は、かつての「自由」「反支配」といったものとは違い、「真実の愛」「贖罪」「罪」といったものを主題にした歌を多く作っていった。
26歳での突然死
1992年(平成4年)4月25日(土)早朝、当時の尾崎の自宅であるマンションから約500メートル離れた、足立区千住河原町の民家の軒先に全裸で傷だらけで倒れていたところを、家主の妻に発見された[34]。5時45分ごろ、通報で墨田区内の白鬚橋病院に運び込まれる[35]。診察した医師は「生命に関わることも考えられるので、専門医に診てもらった方がいい」と診断したが[36]、尾崎は妻と兄とともに自宅マンションに戻る[36]。しかし、10時頃になって容体が急変、呼吸が止まっているのに気がついた家族が約1時間後の11時9分に119番通報。日本医科大学付属病院で手当てを受けるも、午後0時6分に死亡した[1][37][38][39]。死因は肺水腫[40](詳細は後述)。
後日、雨の降る中4月30日(木)東京都文京区の護国寺にて葬儀・追悼式が行われ、参列者は4万人近く[注釈 5]に上り、規模は美空ひばり、吉田茂に匹敵するものとなった[注釈 6]。密葬は日蓮正宗にて営まれた。戒名は「頌弦院智心碩豊居士」[42]、墓所は埼玉県所沢市の狭山湖畔霊園にある[注釈 7][43]。
注釈
- ^ 尾崎の所属事務所『マザー・エンタープライズ』およびレーベル『MOTHER&CHILDREN』の社長。
- ^ 当時、1ヶ月にも及んで、民放のみならずNHKも含めたテレビ各局は連日のように尾崎の特集を組んだ。
- ^ 月給は2万円で、尾崎の担当区域は180部だった[16]
- ^ 実際に当時は「卒業」の歌詞に影響されて、学校の校舎の窓ガラスを割るといった事件が発生した[27]。
- ^ 参列者数は3万8000人、4万人、5万人、5万3000人などと言われている。
- ^ それぞれ、美空ひばり、忌野清志郎の追悼式は4万2000人、坂井泉水の追悼式は4万100人、吉田茂の国葬は4万人という規模であった[41]。
- ^ 防犯上、警備上の理由のため、実際にはこの墓地には尾崎の遺骨は納骨されていない。
- ^ 尾崎豊の父が躰道の前身である玄制流空手を習っていた影響も受けている。
- ^ のちに、Mr.Childrenらを生んだ小林武史が優勝している。
- ^ a b ファーストアルバム『十七歳の地図』に収録されている『街の風景』の原曲。
- ^ 原宿音楽祭での「町の風景」は平成21年(2009年)3月30日に放送されたTBSラジオのラジオ番組「kakiiin尾崎豊」にて公開されている。
- ^ 「十七歳の地図」の原曲。尾崎がつけたタイトルは「野良犬の道」。
- ^ オーディションは前日の10月10日に行われたが、尾崎はオーディションを受けなかった。翌日、CBSソニーのプロデューサーである丸沢和宏に説得され、オーディションを受けた[46]。
- ^ 正確には「Scrambling Rock'n'Roll」の間奏中。
- ^ その後もなんとかスタッフに支えられステージに這いつくばりながらセットリストのすべての曲を歌い切った
- ^ 大阪球場でのライブはライブツアー「Tropic of Graduation Tour」時に開催されたものであるが当時のツアーパンフレットには日程が記載されておらず、大阪球場での公演2日前の8月23日でツアーは終了する予定であったがツアー開始初日の5月6日に関係者の間で会見を行い公表した。チケットは発売後に即日完売したことからも当時、尾崎の人気が一気に高まっていたことがうかがえる。
- ^ 最初にニューヨークへ渡ったのは1月で、その後は行ったり帰ったりを繰り返し、6月から長期滞在していた。
- ^ 同社はのちにアルファ・ムーンと合併しエム・エム・ジーとなり、その後イーストウエスト・ジャパンとなる。
- ^ 日本武道館でのライブは尾崎の夢だったが、同じく日本武道館での公演がプログラムされた「放熱への証」ツアーも尾崎の急死によって中止に終わり、結局叶うことはなかった。
- ^ 裁判官は尾崎に対して「人気歌手として社会に与えた影響は大きい。仕事上のスランプは理解できないわけではないが、法律が厳禁している覚せい剤の使用は決して許されるべきではない。両親が歌手生命が絶たれても警察に通報して救おうとした熱意などもあり、もう一度更生の機会を与える。一日も早く立ち直るように」と話した。また尾崎は判決が下されるまで実刑を信じていたという[49]。
- ^ 釈放時、右手には手垢が滲みた村上春樹の「羊をめぐる冒険」を持っていた[50]。またファンらが彼の出所を祝うかのように「存在」や「卒業」を歌ったという[51]。
- ^ 2013年現在、シングルではこのCDの売り上げが尾崎史上最高となっている。
- ^ このライブの模様は映像作品『OZAKI・19』に収録
- ^ 結局「TOKYO ROCKFEELING FESTIVAL」は尾崎以外の出演者で行われた。
- ^ 岡村とは1987年8月6日の広島平和コンサート「ALIVE HIROSHIMA '87」で共演し、岡村の楽曲「Young Oh! Oh!」を岡村とともに歌っている。
- ^ 北勝海とは亡くなる前々日の1992年4月23日に東京・六本木のスナックで知り合っている。その際に尾崎は北勝海に「次の僕のコンサート必ずきてくださいよ。チケット送りますから。」と話したという[59]。
- ^ RED WARRIORSや大友康平(HOUND DOG)らは尾崎と同じ事務所であるマザーエンタープライズに所属していた。
- ^ 現行教科書11種類のうち3種類の本に記述があること。
- ^ 巻数は『〜℃』で表されていた。
- ^ 3℃は1992年4月に発行され、その直後の4月25日に尾崎は急死した。
- ^ 浜田は事務所の名や曲名などに「ROAD」を多用している。
- ^ 尾崎は自分のイメージを鋭く尖ったナイフのような『Egde』だと解釈していたことによる。
- ^ 主にライブ映像を中心として構成されている。
- ^ 今番組内で放送された「ハイスクールRock'n'Roll」のMCでブルース・スプリングスティーンに関する話をしている。
- ^ 既に2010年に開催された音楽イベント「フジロックフェスティバル」において公開されていた。
- ^ この番組は無料放送として放送された。
- ^ 「誰かのクラクション」は尾崎がパーソナリティを務めた唯一のレギュラー番組で、1985年10月から1986年3月、1986年10月から1987年3月にオンエアされていた。番組ディレクターは加藤与佐雄。
- ^ アマチュアバンドの前座として参加。
- ^ 「核 (CORE)」の原曲。
- ^ 白井貴子の前座として参加。
- ^ 当初はナゴヤ球場にて予定されていたが、会場の使用許可が下りず、大阪球場での開催となった。
- ^ 一部の関連本で、大阪球場での「Scrambling Rock'n'Roll」はプログラムからカットされた、とあるのは誤り。
- ^ ツアー途中に尾崎本人の急病により、ツアーが中断している。
- ^ 4日後の9月28日に公演会場である新潟県民会館へ入るも、ライブ前に倒れ、ツアーは中断されたため、結果的にこの日が本ツアーの最後の公演となった。
- ^ 多数の関連書では「15の夜」がプログラムされておらず、「十七歳の地図」となっているが、両曲ともに演奏されている。
- ^ 「・ism」が演奏された公演もあり
- ^ 6日の出演は予定になく、急遽出演したため「シェリー」、「僕が僕であるために」のみを演奏している。
- ^ 一部の関連本では、アンコールに「15の夜」がプログラムされているが誤り。
- ^ 2012年12月1日公開。
- ^ 尾崎本人が急死したため全公演中止となった。
- ^ 後に、未収録写真を76点を追加して「FREEZE MOON+」として再発売されている《2009年、春日出版、ISBN 4863211546》。
出典
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- ^ 尾崎豊 デビュー30周年記念日 -THE DAY- | WOWOWオンライン
- ^ 「私たちの街でコンサートを!」『月刊PATi-PATi 1986年8月号』第2巻第9号、CBS・ソニー出版、1986年8月9日、160頁。
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