名古屋アベック殺人事件 刑事裁判

名古屋アベック殺人事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/08 13:11 UTC 版)

刑事裁判

家裁送致・逆送致・起訴

名古屋地方検察庁は1988年3月19日、殺人・死体遺棄・強盗致傷などの罪で、被疑者6人のうち唯一成人だったBを名古屋地方裁判所起訴するとともに、少年少女5人 (K・A・C・D・E) をそれらの容疑で名古屋家庭裁判所送致した[85]。5人の送致書には「犯行は悪質で刑事処分が相当」との意見書が付されており[85]、名古屋家裁は約3週間にわたる調査を行った[10]。Kの少年調査表では、家裁調査官が「本件はたまたま出会った共犯者六人がそれぞれ問題を持ちながら相互に作用しあってなされた集団犯罪で、少年一人ではここまで凶悪な犯罪を犯さなかったであろう。」という意見を述べていた[10]

同家裁は同年4月14日の少年審判で、5人を「刑事処分相当」として名古屋地検に逆送致する決定を下した[注 48][86][274]。これを受け、名古屋地検は同月22日、5人を殺人・死体遺棄・強盗致傷などの罪で名古屋地裁に起訴した[87][275][276]。また同日、名古屋家裁は金城埠頭事件についても「刑事処分が相当」として、5人を強盗致傷容疑などで名古屋地検に逆送致し、同事件についても後に追起訴された[87]

6人共通の罪状は、強盗致傷罪殺人罪死体遺棄罪強盗未遂罪で、K以外の男3人 (A・B・C) はYに対する強盗強姦罪でも起訴された[162]。また、Eは本事件前に犯した道路交通法違反の余罪(酒気帯び運転)でも起訴されている[162][251]。6人は起訴後、それぞれ名古屋拘置所の独居房に拘置され、初公判時点では規則正しい生活を送っていた[277]。6人にはそれぞれ、別々の弁護人がついた[278]

死亡被害者2人の殺人事件の量刑

司法研修所 (2012) は、1970年度(昭和45年度)以降に判決が宣告され、1980年度(昭和55年度) - 2009年度(平成21年度)の30年間にかけて死刑や無期懲役が確定した死刑求刑事件(全346件、うち193件で死刑が確定)を調査し[279]、殺害された被害者が2人の殺人事件(強盗殺人は含まない)で死刑が確定した事件は全65件中31件(全体の48%)で[280]、「死刑と無期懲役の選択割合が拮抗している。」と発表している[280]

その調査対象となった事件のうち、死刑が選択された事件(全31件)には、犯人に殺人前科がある事件(4件)[注 49][280]、利欲目的(身代金目的[注 50]保険金目的[注 51]など、全15件)やわいせつ・姦淫目的で被害者を拐取した後の殺人(2件)[注 52][289]、無差別殺人(1件)[注 53]、「殺害態様の際立った残虐性が死刑選択に大きな影響を与えたのではないかと思われる事例」(3件)[注 54]などがある。

一方、無期懲役が選択された事案(全34件)には[280]、心神耗弱が認定されたものが5件あるほか、殺害の計画性がないか低かった、もしくは「綿密な計画の下での犯行」や「用意周到な犯行」ではないと認定されて無期懲役が適用された事例が、本事件のK(整理番号:131番)[292]を含めて20件[注 55]ある[296]。ただしこれらの事例は殺害の計画性のみではなく、その他の犯情や一般情状が総合的に考慮された上で無期懲役が選択されたと指摘されている[293]

三春町ひき逃げ殺人事件の控訴審判決(仙台高裁第1刑事部:2023年2月16日宣告)では、死刑選択にあたっての判断傾向について「殺害された被害者が2名の場合を中心として過去の裁判例をみるに、〔中略〕、罪質が極めて悪質で、利欲的ないし身勝手な動機に基づく犯行であって、殺人についての高度の計画性があるような場合には死刑が宣告される事例が多い一方で、計画性が十分になくとも死刑になった事例もあり、確実に生命を奪う執よう、残忍な態様で、殺害を意欲した強固な殺意に基づく場合に死刑が宣告される事例が多い、といった傾向を看取することができる」と評されている[297]

なお、日本弁護士連合会 (2011) は殺害された被害者が2人の事件では、異なる機会に2人を相次いで殺害した場合には死刑が適用されやすい一方、本事件のように同じ機会に2人を殺害した場合には無期懲役が適用されたものが多いことを指摘している[298]。死刑を回避した名古屋高裁 (1996) は、本事件を異なる機会に2人を殺害した事例ではなく、同一機会に2人を殺害した事例と位置づけている(後述[298]

少年事件に対する死刑選択基準

戦後日本で、論告求刑公判が開かれた1989年(平成元年)1月末時点までに死刑が確定した事件は620件余りあったが[299]、そのうち犯行時少年の死刑が確定した事件は37件で[注 56][300]、その大半は昭和20年代から30年代に集中しており[注 57][299]1970年(昭和45年)以降では、1969年9月に発生した正寿ちゃん誘拐殺人事件など4件[注 58]しかなかった[301]。これらはすべて、永山則夫による連続射殺事件の第一次上告審で、最高裁第二小法廷死刑選択基準を示したいわゆる「永山判決」(1983年7月8日)を宣告する以前に死刑が確定したものである[302]。このうち、最高裁で死刑が確定した事件は、旧刑事訴訟法および旧少年法が適用された事件を含めて28件あるが、殺害人数別にみると5人殺害が1件、4人殺害が3件、3人殺害が2件、2人殺害が13件、1人殺害が9件[注 59]である[302]

終戦直後から昭和30年代半ば(1960年ごろ)は少年によるものであるかを問わず、重大な犯罪が激増していたことや、成人による殺人・強盗殺人に対し死刑選択が極めてなされやすかったこと、また死刑選択が問題になる事件では成人と年長少年を別異に取り扱おうとする姿勢に乏しかったことといった事情から、殺害の計画性がなかったり、乏しかったりするような事件でも死刑が選択されていた[304]。しかし、1960年ごろから1975年(昭和50年)ごろにかけては、社会の安定や高度経済成長によって犯罪が減少しつつあったことから、成人の起こした殺人・強盗殺人でも、死刑選択が以前より抑制されるようになった[305]。少年事件においてもそのような事情に加え、少年法の理念が広く受け入れられ、裁判所も成人と年長少年を区別して取り扱うような姿勢に転じたことや、犯行に至った主観的事情(被告人の貧困・劣悪な家庭環境など)が少年に有利な情状として考慮されるようになったことから、特に殺害の計画性の高い事件についてのみ死刑が選択されるようになり、そうでない事件は死刑が回避されやすくなった[305]。このため、1960年ごろ以前に比べて少年事件に対する死刑判決は減少した[306]

1975年以降も、国民の平均的な経済状態・家庭状況が向上したことなどから、少年に対する死刑選択にあたっては、以前にも増して被告人の貧困・劣悪な家庭環境などといった情状が考慮されるようになった[307]。そのため本事件以前に少年事件で死刑が宣告され、最終的に確定した事件は、身代金目的で計画的な犯行による事件(正寿ちゃん誘拐殺人事件)や、殺害された被害者が4人に上った事件(永山事件、市川一家4人殺害事件)に限定されていた[307]。宮坂果麻理 (2002) も、「永山判決」から2001年時点までに審理された少年への死刑適用が争われた事件では、「犯行の計画性」「共犯関係における主導的役割」の因子が、死刑選択可否に多大な影響をおよぼしたと考察している[308]

AERA』 (1989) は少年法に詳しい識者の「成人の事件だったら、死刑を迷うことはない」という意見を取り上げている[309]。また、『産経新聞社会部記者の皆川豪志は、死刑適用の可否が審級ごとに分かれた本事件や光市母子殺害事件(いずれも殺害された被害者数は2人)を挙げ、両事件とも成人の犯行なら確実に死刑に処されていたと評した上で[310][311]、それらの事件で判断が分かれた要因について、司法判断が永山判決(18歳以上の被告人に対する死刑適用基準を示した判例)と少年法の規定(18歳未満への死刑適用禁止[注 1]、詳細は後述)のどちらを重視するかで揺れてきたためであると評している[311]

第一審

刑事裁判第一審は、名古屋地裁刑事第4部に係属した[35]。担当裁判官は、裁判長の小島裕史と、伊藤新一郎・柴﨑哲夫の両陪席裁判官である[312]。当時、名古屋地検公判部長を務めていた清水勇男曰く、この裁判部は「量刑が甘い」と言われていたという[21]

第一審における事件番号は、昭和63年(わ)第486号昭和63年(わ)第694号昭和63年(わ)第695号昭和63年(わ)第696号昭和63年(わ)第697号昭和63年(わ)第698号昭和63年(わ)第876号昭和63年(わ)第878号昭和63年(わ)第879号昭和63年(わ)第880号昭和63年(わ)第881号昭和63年(わ)第882号昭和63年(わ)第908号である[35]

初公判

名古屋地裁刑事第4部(小島裕史裁判長)で1988年7月18日、6被告人の初公判が開かれた[88]

罪状認否で、被告人BはX殺害について「謀議には加わっておらず、現場にも行っていない」と主張したが[88]、それ以外の点については大筋で起訴事実を認め[313]、未成年の5人 (K・A・C・D・E) はいずれも全面的に起訴事実を認めた[88]。その後、検察官の冒頭陳述書(60頁、約45,000字)で、残虐な犯行態様が明らかにされた[314]。冒頭陳述が読み上げられていた間、D・Eは泣いていた[272]

同日の公判後、Kは共犯に送った手紙で「すごい人が来てたね」など、傍聴人の多さに驚く言葉を綴っていた[263]

審理の経緯

Dの弁護人は、金城埠頭事件のうち第1事件(強盗未遂事件)について、Dが当時Kら5人と行動を共にしており、被害者2人に暴行を加えていた事実は認めた一方、当時の彼女には金品強取の故意はなく、他の被告人らと共謀した事実もなかったとして、同事件について無罪を主張した[28]。しかし名古屋地裁 (1989) は、Dが深夜の金城埠頭という人気の少ない場所で、Cらが木刀を用いて見ず知らずの他人を襲撃し、金品を強取しようとしていることを認識した上で、その行為で奪った金品を自分も分配してもらおうとして、Kら5人と行動を共にしていたことを指摘し、同事件についても共同正犯であることを認定した[205]

第一審の公判は全24回開かれたが[107]、論告求刑より前に開かれた公判は全14回である[89][90]。その内訳は、全被告人併合の審理が初公判を含めて3回、そして各被告人ごとに分離された公判が数回で[注 60]、後に死刑を言い渡されたKについても、分離公判はわずか1回しか開かれなかった[135]。これは、事実関係についてはほとんど争いがなかったためであるが[316]、被告人同士で共謀の時期や関与の程度など、利害が対立する点も見られたため、初公判後は分離公判となった[269]。一連の公判では、重大な結果の責任を巡ってそれぞれの被告人の利害が対立し、それぞれの弁護人が「互いに刺激し合った末の犯行」「主犯の少年に追従しただけ」などといった主張を展開した[278]

Kは公判で、検察官や裁判官から犯行に至った理由を尋ねられ「格好をつけて冗談半分に言った」と答えたが、検察官から「冗談で人を殺す話をするのか」と追及され、答えに窮するような場面があった[317]。これ以外にも「理屈の通らない言い分」をした被告人が検察官から詰問されて黙り込むような場面が何度かあった[278]。一方、犯人の母親のうち1人は公判で、被害者遺族へ謝罪しに行かない理由を「遺族に合わす顔がない」と弁解したが、これに対し裁判長の小島は「ない顔を合わすのが親でしょう」と声を荒らげていた[269]。また、息子のための情状証人としての出廷を拒否した母親もいた[269]

Kの弁護人を務めていた白濱重人は、本事件を「どうしよう、どうしようと迷っているうちにあんな結果になってしまった」、すなわち計画性のない少年たちが幼稚な発端から起こしてしまった犯罪であるとして、死刑を宣告されるには値しない事件と捉えていた[316]。その上で、裁判所はKたちが犯罪に至るまでの過程(=事件の本質部分)を十分に審理するだろうと考え、「求刑は死刑でも、判決は無期だろう」という見立てを立て[315]、もっぱら情状面に力を入れた弁護活動を展開してきた[316]。しかし、後にKに死刑が宣告されたことを踏まえ「弁護活動が甘かった」「我々がそういう問題点をはっきり提示すべきだったし、情状鑑定も申請すべきだった」と反省の弁を述べている[318]。控訴審でKの弁護を担当した多田元は、「司法警察員や検察官が、少年の特性や心理を理解しようとせず、おとなの論理で少年らを追及し、事件を構成して作成した自白調書を裁判所が鵜呑みにした」ことにより、死刑判決が言い渡されたと主張している[319]。また、第一審では被告人らが検察官や裁判官の追及的尋問に対し、事実を述べようとしても単なる言い逃れや弁解と受け取られそうに感じ、十分に事実を供述できなかったと述べている[319]

一方、名古屋地検はそれまでの公判で、通常1人の担当検事を3人に増員する異例の体制を敷き[299]、襲撃からかなりの時間が経過した後、犯行の発覚を恐れて殺害を実行した計画性や、被害者の首にロープを巻き付け、2人がかりで両端を引っ張りあった残虐性、大高緑地事件前にも金城埠頭事件を起こしている反社会性を重視し、厳しく刑事責任を追及してきた[89]。また、過去に犯行時少年の被告人が死刑に処された38事件との比較や、情状酌量の余地などを慎重に調べた上で、「何の落ち度もない被害者を2日間も連れ回しながら殺害したのは過去にもまれな残虐な犯行」と結論づけ、論告求刑公判直前の1989年1月中旬には名古屋高等検察庁にKへの極刑求刑を打診し、了承を得ていた[299]。名古屋地検の幹部は判決前、田中彰(『朝日新聞』記者)の取材に対し、もしKが死刑求刑から軽減された場合は名古屋高検と協議した上で控訴する方針を表明していた[320]。同地検幹部は判決後、田中の取材に対し「死刑が出る確率は6:4と思っていた」と述べている[309]

論告求刑

1989年1月30日に開かれた第15回公判で、検察官による論告求刑が行われた[90]。検察官は、主犯格の被告人Kに死刑、A・Bの両被告人に無期懲役、被告人Cに懲役5年以上10年以下の不定期刑(ただし、判決時に成年の場合は懲役15年)、D・Eの両被告人には懲役5年以上10年以下の不定期刑を、それぞれ求刑した[91]

同日は論告に先立ち、被害者2人の遺族(Xの母親、Yの父親)が検察側の証人として出廷し、それぞれ強い処罰感情を表明、特にYの父親は全員を死刑に処すよう求めた[161]。次いで行われた論告で、検察官は本事件を「まれにみる重大かつ凶悪な犯罪」「まさに集団的な通り魔の犯行」と位置づけ、動機は「遊ぶ金が欲しい」「思い切り暴れてみたい」という反社会的・自己中心的なものであり、酌量の余地がないことを指摘した[321]。その上で、先の強盗致傷などの発覚を恐れたことが殺人・死体遺棄の動機であり、犯行態様も極めて残虐・悪質で、その行為は「人間の皮をかぶった鬼畜の仕業」であると表現した[321]

また、犯行は極めて計画的で、6人は状況の変化を冷静に読んだ上で犯行を実行したと主張し、被害者に全く落ち度がないこと、遺族らが被告人らに厳罰を望んでいること、社会的影響が重大で模倣性も強いことを、被告人らに共通の情状として挙げ、厳罰を科す必要性があることを強調した[321]。特に、被害者の無念については「無念さは図り知れず、地中から2人の慟哭が激しく聞こえてくるようである。」と形容している[161]。その上で、以下のように各被告人ごとの情状について言及し、「被告人らの刑責は誠に重大だ」と主張した[321]

K(求刑:死刑)
一連の犯行の首謀者であり、殺害・死体遺棄の実行者[321]。終始共犯者を先導しており、犯行時は19歳6か月で、成人と差がない[322]。少年鑑別所でも反省のない態度を見せていた(前述[161]。犯罪性向が強固で矯正は不可能であり、少年とはいえ酌量すべき余地は見い出せない。自己の死をもって償わせる以外にはなく、極刑以外に科すべき刑罰はない[321]
A(求刑:無期懲役) - 死刑を選択の上、少年法第51条[注 1]の規定を踏まえて無期懲役を適用[91]
中学卒業前から非行を繰り返しており、父親はそれを制止するどころか煽り助長した(前述)。家庭環境は父親の特異な思考にもその原因の一端があって、Aの監督などを到底期待し得ない[161]。一連の犯行全てで実行行為に関与しており、著しく人間性が欠如している[321]。少年鑑別所でも反省の態度が窺えず[161]、18歳未満への死刑適用を禁じた少年法第51条の制約さえなければ、Kと同様に死刑を適用すべきだ[321]
B(求刑:無期懲役)
事件当時、唯一の成人[321][161]。犯行を思いとどまることを率先して言い出すべき立場にあったのは最年長であるBだったが、2人殺害の共謀がなされた際、それを制止するどころか「コンクリート詰めにしたらどうか」などと提案している[161]。Xの殺害現場には行っておらず、その実行行為にも関与していないが、その他の実行行為には深く関与しており、K・Aとの情状の差は紙一重に過ぎない[321]。冷酷な性格が顕著である[91]
C(求刑:懲役5年以上10年以下の不定期刑。ただし、判決時点で成年していれば懲役15年)
母親には看護能力がなく、Cが栄で不良徒輩と交際していることにも気づいていなかった(前述[161]。Cは2人の殺害現場には行っておらず、Bと同じくK・Aとは情状に若干の差が認められるが、公判で笑いを漏らすなど、反省の念を著しく欠く[321]。公判でも「一生懸命やってもある程度しか昇れない。夢はない」などと平然と供述し、健全な生活を志向して努力しようという姿勢は微塵もない[323]
DおよびE(求刑:ともに懲役5年以上10年以下の不定期刑)
全体として追従的ではあるが、同性のYを全裸にしてたばこの火を身体に押し付けるなど[321]、言語に絶する犯行を加えた[91]。2人の殺害・死体遺棄の共謀にも加担しており、それを制止するような言動は認められなかった[321]。Dは2人の殺害現場で、被害者たちの悲痛な哀願にまったく耳を貸さず、冷然と殺害行為を眺めていた[161]。Dには謝罪・反省の態度が一切認められず、Eも反省悔悟の念は希薄である[161]

なお、死刑が刑罰として認められている根拠として「死刑の威嚇力で一般的予防をなし、執行で特殊な社会悪を絶ち、社会を防衛せんとしたもの」と位置づけた1948年(昭和23年)3月12日の最高裁大法廷判決を挙げたほか、1983年(昭和58年)7月8日の最高裁第二小法廷判決(いわゆる永山判決)が示した「罪責、動機、態様、ことに殺害の執拗姓、残虐性、結果の重大性……等を考察したとき……極刑がやむを得ないと認められる場合には、死刑の選択も許される」という基準に照らし、本件はその基準に全て合致していることを主張した[321]。また、6被告人の弁護側が「被告人らは家庭環境に恵まれなかった」と情状酌量を求めていた点については、「被告人と同様かそれ以上に劣悪な家庭環境に置かれていても、立派に成人した者は多数いる。XやYも、被告人とさして変わらない家庭環境にいながら真剣に生きていた。家庭環境で酌量に値すると判断するのでは、2人は死んでも死にきれない」と反論した[91]。その上で、当時の「人命軽視の傾向が強く、殺害を伴う凶悪事件は後を絶たない」社会情勢や、死刑制度の存在(および、国民多数による死刑制度の支持)について言及した上で「凶悪事件については、一般予防及び社会防衛の見地から、死刑をもって望むことを断じてちゅうちょすべきではない。」とも主張している[232]

被告人たちはほとんど動揺せずに論告を聞いていたが、ウトウトして刑務官に注意された者もいた[324]

最終弁論

論告求刑公判後、6被告人の最終弁論がそれぞれ個別に行われた[92]

同年3月3日の公判で、被告人Kの最終弁論が行われ、Kの公判は結審した[92]。Kの弁護側は「論告には誇張が多く、死刑は失当だ」として、以下のような情状を挙げ、Kの量刑を有期懲役に減軽するよう訴えた[92]

事件の特質
計画性は認められない。精神的に未成熟な6被告人が遊興的に始めた犯行で、集団心理により重大な犯罪に発展した。犯行がエスカレートしていったのは金銭欲からではなく、買ったばかりの車を逃げようとする被害者らにぶつけられ、カッとなったことが原因であり、被告人らの幼稚さを示している。殺害の謀議も、Kが冗談で持ちかけたのが独り歩きしてしまった。
Kの性格
Kは論告で形容されたような「生来の粗暴者」ではない。前科はなく、非行歴も軽微だった。
死刑適用について
犯行時少年であった永山が起こした連続4人射殺事件と比べ、殺害人数が少ないなどの点が認められる。論告が永山判決を引用したのは不当だ。

その後、Kは小島裁判長から最後に言いたいことについて問われると、「被害者2人には申し訳のないことをしました」と答えた[92]

同月22日の公判で被告人Bの最終弁論が行われ、第一審の公判は全て結審した。同日、Bの弁護側は「Bは殺害謀議を本気と思っておらず、他の被告人に比べ、犯行への関与の度合いは低い」と情状酌量を求めた[93]

第一審判決

1989年6月28日、判決公判が開かれた[32]。名古屋地裁が宣告した判決は、主犯の被告人Kを死刑、殺害実行犯の被告人Aを無期懲役被告人Dと被告人Eをともに懲役5年以上10年以下(以上、いずれも求刑通り)に処すものだった[32]。また、被告人Bを懲役17年(求刑:無期懲役)、被告人Cを懲役13年(求刑:懲役15年)に処した[32]。Cは1969年4月26日生まれであり[56]、判決公判時点では既に成年していたため、懲役15年の求刑に対し、懲役13年の刑が言い渡された。公判に出席した検察官は、鈴木則夫である[325]

名古屋地裁 (1989) は、Dの金城埠頭第1事件における無罪主張(参照)を排斥し、同事件は6被告人全員が関与したものと認定[326]。また、BのX殺害に関する無罪主張も排斥し、検察官の主張通り、Bも同犯行の共同正犯であると認定した(参照[210]

その上で量刑面については、6被告人に共通した不利な情状として以下の点を挙げた[115]

6被告人共通の不利な情状
概要 詳細
犯行態様 大高緑地事件の被害者2人に被告人らが「やりすぎた」と自覚するほど強烈な暴行を加え、A・B・Cの3人がYを輪姦するなど、悪質性は高い[196]。大高緑地事件では、暴行によって負傷した被害者2人を長時間連れ回し、将来解放することをほのめかしながら結局は2人とも最終的に殺害しており、以下の点からも執拗かつ冷酷極まりない[196]
  1. Yに対しては、X殺害後に金城埠頭の岸壁から海中に飛び込もうと試みるほど精神的に追い込んだ〈前述〉末、死の恐怖に長時間晒したこと
  2. X殺害 - 「殺さないでください」という命乞いに耳を貸さず、無抵抗のXを絞殺したこと
  3. Y殺害 - 既に観念し無抵抗状態だったYに対し、Kは「綱引きだぜ」と口にしながら実行行為に及び、Cは笑いすら浮かべて傍観していたこと
  4. 両被害者殺害の際、実行犯のK・A両被告人とも「このたばこを吸い終わるまで引っ張ろう」と話し合いながら平然と首を絞め続けたり、実行中再三にわたって被害者の生死を確認した上で、死亡が確認できるまで首を絞め続けて殺害した点
犯行動機 強盗未遂・強盗致傷は遊興費欲しさや、他人に暴行脅迫を加えて快感を得ようとの欲求に基づく反社会的なものであり、殺人・死体遺棄についても大高緑地における強盗致傷・強盗強姦の犯行が発覚することを防ぐためである。後者は自己保身のため、他人の生命などまったく省みないという被告人らの態度の発現であり、いずれも酌量の余地はない[196]
結果の重大性

金城埠頭事件では被害に遭ったアベック2組の車がそれぞれ著しく損傷され、第2事件では10万3,000円が強取されたほか、被害者2人にそれぞれ1週間の怪我を負わせており、その結果は決して軽いとはいえない[196]。そして大高緑地事件では、X・Yの両被害者から計28,000円を奪った上、そのかけがえのない生命を奪ったものであり、その結果が極めて重大であることは言うまでもない[327]
X・Yとも家族から深い愛情を注がれ、将来は理容師として大成する希望に燃えていた矢先、被告人らの凶行によって非業の死を余儀なくされた。XはYを被告人らのもとに残したまま殺害され、Yも先にXが殺害されたことを知り、丸1日恐怖にさらされながら殺害されたものであり、両名の生前における苦痛・無念さは、察するに余りあるものと言わねばならない[115]

犯行の計画性 犯行はいずれも計画的である[115]
  1. 金城埠頭事件では、第1事件を起こす前に準備を行っており、それが未遂に終わるや否や再び謀議・準備の上で第2事件を起こした。
  2. 大高緑地事件でも、犯行前に改めて謀議した上で、ナンバープレートを隠して強盗致傷・強盗強姦の犯行に臨んでおり、計画性が認められる。殺人・死体遺棄についても「オートステーション」で謀議した上で、被害者2人を絞殺するための凶器としてロープを購入し、死体遺棄のための穴掘り用にスコップを用意するなど、これまた計画的である。
事件の社会的影響 本事件は深夜早朝にわたって見ず知らずの男女を次々と急襲した、いわば通り魔的犯行であり、何ら関係のない一般市民もいつ何時被害に遭うかもしれないという社会不安を生じさせた。また、欲求不満に駆られるまま暴行を働き、金品を強取するといった犯行態様は、その模倣性が高く、各犯行の社会的影響は極めて大きい[115]
被害感情など 殺害されたX・Yの両名を含む被害者6人に何ら落ち度は認められない。
金城埠頭第2事件で強盗致傷の被害に遭った男性は一時は殺されると観念しており、同事件の被害女性や、第1事件で強盗未遂の被害に遭った2人も、彼と同じく多大な恐怖を覚えた。彼らはいずれも、6被告人への厳罰を望んでいる。
大高緑地事件の各被害者の遺族らの無念さも甚大なものがあり、被害感情の深刻さもとりわけ深く、彼らは示談を遂げながらもなお(後述)6被告人に極刑を臨んでいる(前述[115]

一方、Kらは精神的に未成熟な少年であることや、唯一成人していたBも20歳に達したばかりの若年であり、暴力団の先輩格だったKに終始追従する形で行動していたことを挙げた。その上で、一連の犯行によって被害者らに与える損害や重大性を必ずしも十分に認識していない未成熟な少年たちが集団を形成し、相互に影響・刺激・同調し合った末に犯行に至ったことを、6被告人の刑責を量定する上で有利に斟酌すべきとして、以下のように各被告人個別の情状について検討した[115]

各被告人個別の情状[328]
被告人(事件当時の年齢) 不利な情状 有利な情状
被告人B(20歳1か月) 窃盗の前歴を有し、暴力団に加わるなど反社会的性向も窺われるところであり、刑事責任は重大である。

以下の点から、本件において主導的な役割があったとはいえない[115]

  • 殺人の共謀ではK・Cらの提案に対し積極的に発言することなく、終始うなずく形で同調していたにとどまる。
  • X殺害の現場にはおらず、現場に居合わせたY殺害の際にも実行行為には直接関与してはいない。

過去に誠実に稼働していた時期がある。また、Yの遺族らとの間で示談が成立し、公判でも終始反省の態度を示すなどしている。

被告人K(19歳6か月)

犯行の積極的実行行為者であり、金城埠頭事件・大高緑地事件とも首謀者的地位にあった。以下の点を併せ考えれば、その刑責は誠に重大である。

  • 一連のアベック襲撃事件では強盗の犯行を最初に提案し、急襲する標的の男女を指示した。
  • 殺人・死体遺棄の共謀でも率先して方法を提案した。被害者2人 (X・Y) を殺害した後も平然と煙草の吸殻を拾うなど、罪証隠滅工作をしている。
  • 保護観察中に犯罪を犯したり、家庭裁判所で不処分決定が出ると予定されていた就職先を嫌って直ちに暴力団に戻るなど、犯罪性の根深さが窺える。
  • 少年鑑別所でも反省しているとは思えない態度が散見された。
  • 犯行時は薗田組を離脱して鳶職として働いており、無為徒食していたわけではない。
  • 犯行後、Eと2人で殺害した被害者2人に思いを致して涙を流したり、拘置所移監後には母親との面会の際に涙を流すなど、反省の態度も芽生えている。
公判で反省していることを述べている。
被告人C(18歳10か月) 以下および左の点から、その刑責は重大であると言わざるを得ない。
  • 殺人・死体遺棄の共謀では、Kの被害者2人を殺害する提案に対し、積極的に支持する発言をし、凶行に向けて集団意思を形成するのに重大な役割を果たしている。殺人の共謀直後、自身が所属していた暴力団の所用でKと別れてからも、Kは再三Cとの連絡を試みており、その精神的役割は重大であったというべきである。
  • 大高緑地事件ではY姦淫を提案した。
  • 恐喝の前歴があり、犯行時は暴力団組員だった。
少年鑑別所で官本に落書きするなど、反省しているとは思えない態度が散見された。
  • 殺人・死体遺棄の現場には居合わせていない。
  • Cの母親と遺族との間で示談が成立している。最近に至っては母宛の手紙の中で反省の態度を示している。
被告人A(17歳) Kとともに被害者2人殺害の実行犯であり、以下および左の点から、その刑責は重大であると言わざるを得ない。
  • Kと同様、2人を殺害した後に平然と煙草の吸殻を拾い集めるといった罪証隠滅工作をしている。
  • 共謀成立後あるいはX殺害後もYを弄ぶなどしている。
  • 14歳未満のころに窃盗を犯した前歴を有している。
Kと同様、犯行時は薗田組を離脱して鳶職として働いており、無為徒食していたわけではない。
被告人D(17歳7か月) Yらに対し残忍な暴行行為におよんでいることや、左の点から、その刑責は重大であると言わざるを得ない。
  • 金城埠頭第2事件後、自分の分け前が少なかったことから大高緑地で再び強盗を行うことを提案した。
  • 犯行時は暴力団組員と同居し、無為徒食していた。
殺人・死体遺棄の共謀の際は、単にうなずく形で同意の意思を表したに過ぎず、それらの犯行現場でも実行行為には直接携わっていない。 両親とともに被害者遺族との間で示談が成立しており、公判でも反省の態度を示している。
被告人E(17歳1か月) 過去に無免許運転で検挙されたにもかかわらず、再び無免許運転をしている。
  • 幼少期から劣悪な生育環境で閉鎖的性格を形成していたことから、精神的に未熟さが残っている。犯行時Kに終始追従していたのも、その性格や生育環境に一因があったと認められる。
  • 犯行後、Kとともに被害者たちのことを思って涙を流し、少年鑑別所入所後も毎日2人の冥福を祈っている。弁護人宛の手紙や公判では反省の態度を示している。

以上の事情を総合した上で、K・Aの両被告人については「罪責は誠に重大」として、彼らにとって有利な情状や、可塑性に富む少年に対する極刑の適用は特に慎重であるべきことを考慮しても、Kは死刑に処すほかないと結論づけた[114]。また、Aについても死刑を選択したが、少年法第51条の規定[注 1]を適用して無期懲役に処した[43]。他の共犯4人については、それぞれの刑事責任の重大さや各種の事情を総合し、有期懲役刑に処した[312]

判決前はKの矯正可能性に対する評価が量刑を左右するものとして注目されていたが、判決は「精神的に未熟な少年が相互に刺激しあい同調しあって起こったもの」と認定した一方、「犯罪性が根深い」として矯正の可能性については言及しなかった[309]。一方で死刑適用にあたっては、死刑選択の可否について一応の基準を示した「永山判決」を引用したものと明言したわけではないが、『判例時報』 (1990) は名古屋地裁が「永山判決」の判示内容と同様の立場から死刑選択の可否について検討した上で、K・Aの両被告人に対して死刑を選択するという結論を出した可能性を指摘している[329]

Kの母親は息子に死刑判決が言い渡された際に泣き伏していたが、彼女の隣の席で傍聴していたのは被害者Yの父親だった[330]

女子高生コンクリート詰め殺人事件の第一審判決との対比

控訴審初公判前の1990年(平成2年)7月19日には、同じく少年による凶悪犯罪として社会に衝撃を与えた女子高生コンクリート詰め殺人事件の被告人4人に対し、東京地裁刑事第4部が第一審判決を言い渡していた[331]。裁判長は、後に名古屋高等裁判所の裁判長として本事件の控訴審を担当した松本光雄である[332]

同判決は犯行が極端に残虐で執拗・非人間的なものであり、4被告人の刑事責任を重大とした一方、その残虐性をエスカレートさせた最大の原因は少年らの精神的に未熟な人格にあると指摘[331]。被告人の更生可能性を酌み、主犯格の被告人(事件当時18歳)に懲役17年(求刑:無期懲役)などの刑を適用した[333]。その後、同事件の控訴審(東京高裁)では主犯に懲役20年などの刑が言い渡され[334]、確定している[335]。主犯格の被告人は、第一審の最終意見陳述でKへの死刑判決について言及した上で「私はそれ以上の罪を犯していると思い、眠れない日もあります」と述べている[336]

この判決は「少年法の趣旨を十分くんだ結果」と評された一方[337]、一般からは求刑段階でも「軽すぎる」という批判の声が上がっており[338]、判決後には裁判所や検察庁に対し「軽すぎる」との多数の投書や電話が寄せられていた[339]板倉宏日本大学法学部教授)は、同判決と本事件の第一審判決を比較し、それぞれの量刑に差が出た理由として、本事件では犯人たちに(殺害前に凶器のロープを購入するなど)被害者たちに対する確定的な殺意があり、殺害された被害者の数も2人であった一方、コンクリート事件では犯人たちには「死ぬかもしれない」という未必の殺意しかなく、殺害された被害者数も1人であったことを挙げている[340]。また多田元は、名古屋地裁は本事件の審理で「科学的に事件を解明して適正な量刑をすべく審理を尽したとは言い難い」「結果の重大性や外見的な残虐性に目を奪われて、「常識」では了解しがたい事件の本質を「常識」で切って捨てた」と主張した一方、コンクリート事件の審理では東京地裁が「常識では理解し難い重大な問題性を胚胎している」として、「共犯少年の相互の関係を前提として、犯罪精神医学から見た、本件一連の犯行に至った心理機制」についての鑑定を実施しており、そのような両地裁の審理方針の違いが事実認定や量刑判断の緻密さに顕著な差をもたらしたと考察している[341]

控訴

死刑を言い渡されたKの弁護人である白濱重人は判決後、少年への死刑適用は慎重であるべきだという「法曹界の常識」に反し、判決は「客観面」だけで死刑を選択しており、生い立ち・生育歴・情状面など「主観面」に対する考慮が欠如していることや、Kの矯正可能性に対する言及がないこと、そして集団犯罪であることへの言及が少ないことなどから、判決に不服の意を表明[342]。Kは同年7月7日付で、名古屋高裁へ控訴した[94]。懲役17年を言い渡された被告人Bも事実誤認・量刑不当を理由に、同月11日付で控訴した一方[95]、名古屋地検もBについて翌12日付で控訴した[46]

一方、A・C・D・Eの4被告人は控訴せず、いずれも同月13日付で判決が確定した[46]

Kの反応

福島章は、死刑求刑以前は「どうせ大した刑にはなるまい」と思っていたKが、死刑求刑を受けた段階で急に食事が喉を通らなくなったと述べている[343]

Kは死刑判決を言い渡されて以降、面会に来た母親に対し「もう疲れた」「もう(死刑で)いい」[268]「交通事故にでも遭ったと思って、おれのことはあきらめてくれ」などという自暴自棄な言葉を吐くようになり[261]、「死刑も怖くない」と開き直るような言動も取っていた[344]。また、控訴審の最中にも裁判で闘うことに疲れたことや、死刑判決が維持されることを予感して自暴自棄になったことから、母親に対し「もう、これ以上がんばれないから、先に死ぬよ」と言っていた[345]。そのような言動の真意について、Kは関係者や、死刑廃止運動家の高田章子に対し、以下のように手紙に綴っている。

「一審で死刑判決を受けたときの私は、ある意味でもう人生を投げていて、どうせ悪くされるのなら思いきり悪のまま死んでいくしかないと思い、生きることに対しての執着はほとんど持っていませんでした。被害者のお2人に対しても、かわいそうなことをしたという気持ちはあったものの、自分でやっておきながら、本当にまるで他人事のような気持ちしか持っていなかったことも事実です。例えて言うなら、小さな子供が何か悪いことをしていて親に見つかって怒られたから、意味もわからずただ謝るという、本当にその程度のものでした」 — 犯人K(関係者宛ての手紙:2006年7月1日付)、佐藤大介 (2021) [268]
「強がりではなく、一審当時の私には死刑になって死んでいくことは決して難しいことではありませんでした。自分は死刑になると勝手に確信していたのですが、自分が死刑になって死んでいくということに対してはほんとにほとんど抵抗はありませんでした。もう終わった、と自分の人生に対してのあきらめの気持ちもあったのですが、それまで精一杯かっこをつけて強がって生きてきた私にとっては、たとえ自分が死刑になったとしてもジタバタせず、最後のツッパリで潔く死んでいくことしか頭になかったのです。むしろ私は自分が死ぬということよりも、みんなの記憶の中から自分が消えてしまうんじゃないか、ということに対しての方に抵抗があったようにも思います。たとえ私が死んだとしても、せめて私のことを忘れないでほしいという気持ちはもっと強く持っていましたし、そのためにももうどうせ悪くされるのなら、たくさんの人の記憶に残るように思い切り悪のまま潔く死んでいこうとしていたのだと思います。本当になんて馬鹿なと思うでしょうが、それまでの私は自分の命さえ大切にしてこなかったのです」 — 犯人K(高田宛の手紙)、高田章子『年報・死刑廃止2012』 (2012) [346]

このような態度を取っていた息子に対し、Kの母親は「あなたが死刑になるなら、私はあなたより先に逝かせてもらう」という旨を言っていた[345][268]。また、「自分が死刑になれば、自分は楽になるけれど、それは本当に罪を償ったことにならない。生きていくことが、本当に罪を償うことになるんじゃないのか」などと繰り返し諭し、これを受けたKも投げやりな態度から一転して「頑張ってみる」と話すようになった[347]。K本人も関係者への手紙で、そのような母親の姿から、被害者や遺族の真情を自分なりに考えるようになった旨を述べている[347]。また、第一審判決後からは被害者2人の遺族に手紙を書き始め(後述[348][53]、控訴審判決直前には、どのような判決内容であろうと生きている限り謝罪し続けることを記した手紙を遺族に送っている[349]

控訴審

控訴審は名古屋高裁刑事第2部に係属した[125]。事件番号は平成元年(う)第262号[125]、裁判長は初公判では本吉邦夫が[97]、1995年(平成7年)7月19日の第22回公判から判決公判までは松本光雄が担当した[106][48]

Kの弁護団は第一審で死刑判決を言い渡されたことを受け、第一審では2人だった弁護人を5人に増強し、約1年をかけて控訴趣意書を執筆するなど、死刑判決破棄を勝ち取るべく入念に準備を進めていた[350]。当初結成されたKの弁護団(以下「第一次弁護団」)のメンバーとして[351]、控訴趣意書を連名で執筆したのは、水谷博昭・多田元・加藤毅・鈴木次夫・白濱重人の5人で[125]、主任弁護人は水谷である[98]。控訴趣意書は330ページにおよぶ大冊で、1990年6月15日に提出された[96]。また、公判中の1991年(平成3年)3月には、教師や弁護士、親ら約120人で構成された「東海非行問題研究会」(代表:愛知県立大学教授・山田正敏)が、本事件を特集した研究誌『非行問題研究』(#雑誌記事)を発刊した[352]。多田は同誌への寄稿で、事件の少し前にKが共犯の少女 (E) に対し、シンナーをやめるよう忠告し、彼女の誕生日に指輪を贈るなどしたところ、少女がシンナーをやめたというエピソードを挙げ、「単独なら著しい性格の偏りがあるとは認められない」と死刑判決に疑問を呈していた[353][352]。一方、名古屋高検検事の秋山富雄は控訴趣意書に対する答弁書を提出した[354]

被告人Bについては、弁護人(稲垣清)が控訴趣意書を執筆・提出した[125]。一方、名古屋地検検事の友野弘はBに関する控訴趣意書を執筆し、名古屋高検検事の川瀬義弘がこれを提出した[125]

事実認定に関してほとんど争いがなかった第一審とは異なり、控訴審では量刑のみならず、共謀が成立した時期や犯行の計画性の有無など、事実関係に関しても争われた[355]。名古屋高裁の訴訟指揮に反発したKが、弁護団を二度にわたって解任したことなどから審理は長期化し、初公判から結審までに約6年を要したが[46]、第一次弁護団の一員である多田は審理が長期化した一因として、検察官が証拠調べにことごとく反対し、事件の真相解明に非協力的な態度を取ったと主張している[319]

当初の審理

控訴審初公判は1990年9月12日に開かれた[注 61][97]。同日はKの第一次弁護団5人が、以下のような内容の控訴趣意書を朗読した[351]

計画性・残虐性の否定
殺害の共謀が成立したのは、拉致直後に立ち寄った「オートステーション」(原判決の認定)ではなく、それから丸1日後に訪れた「すかいらーく」である。互いに虚勢を張り、迎合し合った末に思わぬ展開になって殺害に至った[97]。殺害に計画性はない[351]
量刑など
「本件は被告人Kが単独で犯した犯罪ではなく、女子2名を含む少年ら6名の非組織的集団による犯罪であり、しかも被告人Kにおいては集団そのもの及び他の共犯者らからの刺激を強く受けて本件犯行に陥ったものであった以上、その集団がどのような性格を有するものであったのか、Kは他の共犯者をどのように意識し、その言動をどのように理解していたのか、といった点について十分審理が尽されるべき……」
「にもかかわらず、原判決は、本件に関する煽情的なマスコミ報道の中にあって、本件犯行の結果の重大性・態様の悪質さのみに目を奪われた結果、本件を少年事件として冷静に審理することを忘れたあげく、被告人Kら少年の鑑別結果を軽視し、また情状鑑定その他専門的、科学的な調査分析を怠った結果、本件犯行の基本的性格についての認識を欠いたまま、共謀の成立時期、犯行に至る経緯、動機等、判決に影響を及ぼすべき重要な事実についての認定を誤り、しかも被告人Kの量刑判断に際し、被告人が犯行に至った経緯、動機、矯正可能性の有無・程度といった重要な情状要素についての分析を怠り、あるいはその評価を誤り、もってKに対して極刑である死刑を言い渡した」 — Kの第一次弁護団による控訴趣意書、真神博 (1990) [357]
原判決は事件の原因となった少年の未熟な人格、集団心理への理解・検討が不十分で[97]、結果の重大性にのみ目を奪われ、未熟なゆえに暴走した少年犯罪の特性を理解していない[351]。未熟な少年を保護する少年法の趣旨を判決に生かすべきだ[97]
死刑違憲論
欧米など世界各国では死刑廃止が進んでいる。死刑は残虐な刑罰を禁じた日本国憲法に違反している[351]

同年11月5日に開かれた第2回公判では、検察官がKの控訴趣意書に対する答弁書を朗読し、「アベック2人を殺害する謀議が成立したのは明らか。少年犯罪に対し未熟さ、幼稚さなどの理由で寛刑に処すべきではない」[358]「当時少年とはいえ、2人を殺害した首謀者として死刑は当然」と述べ、控訴棄却を求めた[359]。次いで、Bの弁護側と検察側がそれぞれ、Bに関する控訴趣意書を朗読した[358]。Bの弁護側は「殺害の共謀成立は一審判決の認定よりも後で、被害者2人のうちX殺害の合意がされた当時、Bは別行動を取っていた」として、X殺害については無罪を主張した[358]。一方で検察官は、Bについて「犯行は悪質な上、BはK同様に年齢相応以上に実社会の裏側を経験していて、未成熟とは言い難い」とした上で[358]、「犯行グループの最年長として犯行の重要な役割を担った」と主張、第一審における求刑通り無期懲役に処すよう求めた[359]

Kが弁護団を解任

初公判以後、1991年8月末まで6回にわたり、K・B両被告人に対する被告人質問が行われた[360]。Kは第3回公判(1991年1月28日)で被告人質問を受けた際[361]、以下のような趣旨の手記を読み上げている[360]

被害者の遺族が私を死刑にして欲しいと思うのは当たり前のことだと思うが、自分は死刑になっても、それで償いができるとは思えない、自分にできることは、二度と同じ事件が起こらないように、この事件を多くの人に理解してもらうため努力することだと思う、そのために私は「事件の外側以外に事件の内側の部分も自分なりに説明ができるように努力したい」 — 被告人Kによる陳述の趣旨、多田元 (1993) [360]
「私が死刑になって何もやらずに死んでいくことは、自分の責任から逃げることになると思う」 — Kによる手記の趣旨、『朝日新聞』名古屋版 (1991) [361]

また、Kは「事件を自分なりにより深く理解する」ため、共犯者の証人尋問を強く希望した[360]。Kの第一次弁護団は、Kらが「バッカン」の企図から予想を超えた殺人という結果に至った心理の過程を、事件経過に即して解明することが必要と考え、そのためには共犯者全員の尋問と情状鑑定が必要不可欠であると主張[360][103]。既に刑が確定していた共犯4人を証人として申請するとともに、その4人を含む犯人6人全員の心理鑑定を行うよう求めた[98]。特に後者は、原判決について「事件の原因となった少年の未熟な人格と集団心理への理解、検討が不十分だった」との理由から請求していたものだった[98]。また、前者については同年10月7日の第9回公判で、「殺害の共謀が成立した時期は原判決の認定より遅く、犯行に計画性はない。そのような点を証明するため、共犯4人を証人として採用することが必要だ」とする意見書を提出している[362]。第一次弁護団はそれらに加え、Kの母親も情状証人請求していた[360]

しかし、K・B両被告人に対する被告人質問を終えた[103]同年10月21日の第10回公判で、本吉裁判長はそれらの請求をいずれも「必要ない」と却下し、それに対する弁護側の異議申立も退けた[98]。その訴訟指揮に反発した弁護側は「裁判官のおざなり姿勢は受け入れられない」と裁判官忌避を申し立てたが、本吉はそれも直ちに却下し、次回第11回公判[1992年(平成4年)1月21日]で最終弁論を行って結審することを決めた[98]。本吉による裁判官忌避申立却下決定に対し、第一次弁護団は同月23日付で、名古屋高裁に異議申立を行ったが[363]、名古屋高裁刑事第1部(柴田孝夫裁判長)は同日25日付で、「第一次弁護団による異議申立には理由がない」[364]「訴訟遅延を目的とするもので、刑事第2部の決定は正当」として、同申立を棄却する決定を出した[365]。なお、第一次弁護団は証拠調べ請求却下決定に対する異議申立棄却決定に対し特別抗告したが、1992年10月14日付で最高裁第一小法廷から棄却決定[事件番号:平成4年(し)第98号]が出されている[131]。主任弁護人の水谷はこのような訴訟指揮に対し、重大事件でありながら被告人質問以外の実質審理が行われていないとして不服の意を示し、「裁判所は最初から結果を決めていたとしか言いようがない」と不満を露わにしていた[98]。また、『日本経済新聞』名古屋版では、第一審で死刑判決を言い渡された被告人の控訴審で、実質審理が殆ど行われないまま結審することは異例と報じられている[366]

第一次弁護団は次善の策として[99]、第11回公判でKの母親に対する証人尋問と[367]、Kの被告人質問を行う方針を出した[99]。名古屋高裁もそれを認め、最終弁論は1992年2月以降に行うことを決めた[99]。しかし1991年12月下旬[46]、Kは白濱に対し、第一次弁護団全員を解任することを連絡し、名古屋高裁に全員の解任届を提出した[100]。解任の連絡を受けた白濱はKに面会し[100]、説得を試みたが、Kは「共犯者を調べるなど、事実調べを尽くしてほしい。こういう状態の裁判では納得できない」と解任の意向を変えなかった[99]

その後、Kは新たな弁護人として、安田好弘第二東京弁護士会)を選任した[101][368]。また、安田以外に新たな弁護人1人が選任され[103]、同年7月28日から控訴審が再開されることが決まった[104]

控訴趣意補充書提出を経て、後述の加藤・赤羽に対する鑑定などの依頼以降には、解任した第一次弁護団に属していた弁護人のうち3人も、それぞれ弁護人として再任され、彼ら5人による第二次弁護団が編成された[103]。控訴趣意書補充書を執筆したのは、第一次弁護団に属していた水谷と、舟木友比古・安田の両名である[354]。第一次弁護団から再任されたメンバーの1人である多田元は[102]、『法律時報』1993年2月号で取り扱われた「少年事件研究会レポート」として、控訴審の中間報告を寄稿している(#参考文献)。第二次弁護団の一員だった安田は、Kが控訴審の時間をかけた審理を通じ、自身の犯した罪の重さや、被害者遺族に大きな悲しみを味わわせたことに気づいたと述べている[369]

加藤鑑定

名古屋高裁は情状鑑定に消極的だったため、第二次弁護団は元家裁調査官の加藤幸雄日本福祉大学助教授)に対し、私的鑑定として非行臨床心理学の立場から行った犯罪心理鑑定を依頼し、その鑑定書(以下「加藤鑑定」)に基づいた控訴趣意補充書を提出した[103]。鑑定人である加藤は、この「加藤鑑定」の目的については「共犯者各人の人格理解を基礎に、共犯者相互の人間関係を明らかにし、本件及びそれに関連する事案に至る犯行の心理機制について、主として、非行臨床心理学の立場から解明するよう努めた」と説明している[370]。その上で、鑑定結果については以下のように述べている。

各人は殺害の意思がないのに、互いの関係が希薄なことから、「投影的同一視」によって、互いが虚勢を張り合い(強気の論理)、主犯格とされた少年が、その強迫的な心理特性ゆえに殺害の方法に追い詰められていったことがわかった。 — 加藤幸雄、加藤幸雄『非行臨床と司法福祉』 (2003) [371]

また、Dは「加藤鑑定」の際に事件当時の心境を振り返り、当時は周囲に迎合していたことや、自分に都合の良い考えしかしておらず、他人の行動まで考えていなかったことに加えて、以下のようなことも述べている[372]

「世間でさんざん馬鹿にされてきたのに、(非行の)グループでまた馬鹿にされたのでは浮かばれない。馬鹿にされるくらいなら、殺しに加わる方がずっとましだ」 — 当時17歳の女子少年、加藤幸雄 (2003) [373]

第二次弁護団は「加藤鑑定」に加え、同じく元家裁調査官である赤羽忠之(東洋英和女学院大学教授)に対し、Kの矯正可能性に関する情状鑑定書の作成を依頼し、証拠請求した[103]。加えて法医学の観点から、Kらの捜査段階における殺害状況に関する供述と、被害者の遺体の状況との矛盾の有無などを追求すべく、内藤道興(藤田保健衛生大学教授)に鑑定を依頼した[103]。一方、「加藤鑑定」の取り調べに検察官が同意しなかったため、同書の作成の真正を立証するため、1992年12月からは加藤の証人尋問が開始されていた[360]

また、「計画性はなく、未成熟な少年少女たちが集団心理の中で起こした事件である」という主張を立証すべく、先に有罪が確定した共犯4人全員を証人申請するとともに、Kらの心理鑑定を実施するよう求めた[374]。加藤・赤羽の両名に対する証人尋問に続き、共犯3人 (D・C・A) に対する尋問が行われた[103]。彼ら3人は「加藤鑑定」の結果を知らなかったが、後述の第三次弁護団は、彼らの証言内容と加藤鑑定の内容が一致していたことや、彼らは刑に服しながらも「オートステーション」における共謀認定に納得していないことや、捜査段階から第一審段階を通じて真相を述べることが困難だったことなどを証言した、という旨を述べている[375]

Dは当時の取り調べや裁判の状況について、取り調べ開始当時は自分の言い分を黙って聞いていた担当刑事が、上司から耳打ちされて次第に自分の主張を信じなくなったり、怒鳴り声を上げたりするようになったため、「もう何を言っても一緒だ」という諦めの気持ちを抱き、裁判でもそのような心境が続いていたことや、弁護士を含めて大人たちへの不信感があったことから、刑事に誘導されたように証言すれば「みんな納得してどならないで済むのかな」と思いながら証言していたと述べている[376]。また、Cは取り調べで「違うだろう」「本当はこうだろう」と言われると言い返したり、自分の意思をそのまま言い続けたりすることができず、自暴自棄にあって捜査機関側に迎合した供述をしていたことや、裁判でも取り調べでうまく説明できなかったことや、「やってしまったことに対する責任は取らなければ」という意識から、「裁判でどうなろうとそれに従おう」と思い、事実関係について争わなかったが、当時のように周囲に流されるのではなく、自分の事件に対し向き合うため、誠実に証言しようと思ったと述べている[377]

一方で残る1人 (E) の尋問と心理鑑定は却下されたが、弁護団はそれらの訴訟指揮を受け入れた[374]。「加藤鑑定」は私的鑑定であるため、それに伴う制約を免れるため、第二次弁護団は再三にわたって名古屋高裁に鑑定の申請を行っていたが、同高裁は「鑑定申請を採用しても、『加藤鑑定』以上のものは期待できない」との理由から、申請を却下した[375]

Kが再び弁護団を解任

1994年(平成6年)5月に第21回公判が開かれ[106]、同年度中の結審が見込まれていたが、Kは訴訟指揮に反発[374]。同年末、弁護団に対し「審理不十分」を訴える手紙を出し[374]、同年12月21日付で[105]、弁護団全員(5人)を解任した[46]。このため、審理は再び中断することとなったが、Kは当時『FRIDAY』編集部宛に送った手紙で「納得のいく裁判をやってもらって私たち6人が起こしてしまった今回の事件を本当に理解してもらう事が出来ればたとえどんな判決がでても刑罰に対しては一切文句を言わない」と訴えていた[378]。一方でYの父親は当時、Kが弁護団を解任したことによってなかなか結審しなかった公判の経過に対し「時間を稼いでいけば死刑廃止の風潮になっていき、無期懲役にしてもらえるという考えがあるのでは」と苛立っていた[379]。1995年(平成7年)3月30日、内河恵一[注 62]・村田武茂の両弁護士が、それぞれKの国選弁護人として選任された[105]。内河は当時、刑事訴訟の経験が少なく「無理だ」と感じたことから、いったんは依頼を辞退したが、親しい関係にあった村田からも声をかけられ、弁護を引き受けることを決意した[22]。さらに同年7月5日、雑賀正浩が3人目の国選弁護人に就任し[105]、同月19日の第22回公判から審理が再開された[106]

内河・村田・雑賀の3人からなる第三次弁護団は、基本的に第二次弁護団による弁護方針を踏襲し、彼らができなかった「最後の仕上げ」を行った[105]。第21回公判から同日までの間に、第三次弁護団は第二次弁護団の申請に基づいてなされた共犯3人に対する尋問の結果に基づき、改めて計画性のない場当たり的な犯行であることを強調した[106]。その後、結審までに公判手続更新の際の意見陳述や、内藤・加藤[注 63]・Kの母親らへの各証人尋問、K・B両被告人に対する被告人質問を行った[103]。また、雑賀はKに対し「自分の命が奪われることになって、初めて他人の命というものに向き合ったんだろう」という印象を抱き、たびたび「生きて償いたい」と述べていたKに対しては「君の言う償うとは具体的に何をすることなのか」「その答えを深めないと、死にたくないというだけに聞こえる」と諭している[381]

最終弁論

1996年(平成8年)9月26日(第33回公判)から27日(第34回公判)にわたり[107]、両被告人側と検察側による最終弁論が行われ、控訴審は結審した[107][108][109]

まず、Bの弁護側は260ページにおよぶ最終弁論要旨で、殺害など一連の犯行の共謀は、Bも居合わせた「オートステーション」ではなく、Bのいなかった「すかいらーく」で成立したことや、被害者2人を連行したのは拉致監禁のためではなく、襲撃の際に壊れたグロリアの修理の話をつけるためである旨などを主張した[107]。また、殺害の計画性も否定し、グロリアの修理代金を捻出するため「男は殺す」「女は売る」などと当初冗談で出た話が、2人を連れ回すうちに集団の中で少年たちが虚勢を張り合う微妙な心理状態に追い込まれた末に、急に2人を殺すことに決まったという旨を主張した[108]

次いでKの第三次弁護団も、殺害の共謀は「すかいらーく」で成立した旨を主張した上で、本事件は共犯6人のうち5人が少年であることから、少年事件として捉えるべきだと主張[108]。共犯の少年らが希薄な人間関係の中で弱みを見せまいと虚勢を張り続けた結果、当初は冗談で口にした2人の殺害を実行するまでに追い込まれたことを主張し、殺害の計画性を否定した[109]。また、第一審における弁護活動(事実関係はほとんど争わず、情状面を重視)には反省点があったことを認めた上で[108]、「少年に対する死刑は極力避けるべき」という「基本的な量刑思想」を念頭に置く必要があると主張し[382]、原判決は殺害に至った経緯や事実認定などを洞察しておらず、量刑も不当であることを主張した[109]。Kは人間的に成長しており、矯正可能性が認められることも訴え、原判決破棄と寛大な判決を求めた[109]

一方で検察官は、「まれにみる凶悪・重大な犯行で、Kは事件の首謀者であり、冷酷無比な言動に生来的な性格の一面を認められる」と主張し、控訴棄却を求めた[382]。特に検察官は、Xの父親が事件のショックで生きる気力を失い、事件から3年後(第一審判決後)に死亡したこと(後述)などを挙げ、「その哀れさは両被告人の量刑に反映されなければならない」と主張した[383]。また、Bについても原判決を破棄し、無期懲役とするよう求めた[382]

控訴審判決

1996年12月16日、名古屋高裁刑事第2部で控訴審判決公判が開かれた[48]。同高裁は被告人Kを死刑、被告人Bを懲役17年(X殺害は有罪)とした原判決を破棄自判し、被告人Kを無期懲役、被告人Bを懲役13年(X殺害は無罪)とする判決を言い渡した[48]。公判に立ち会った検察官は河野芳雄である[125]

宮坂果麻理 (2002) は名古屋高裁 (1996) の判決理由を分析し、Kへの死刑が回避された理由について、「永山判決」で示された因子のうち「前科(Kには粗暴犯の前科がないこと)」「犯行後の情状(Kは事件後に反省の態度を深めており、矯正可能性が残されていること)」や、同判決以降の少年に対する死刑求刑事件で重要視されている「犯行の計画性」の不存在といった点が重視されたと考察している[384]

量刑理由

名古屋高裁 (1996) は、Bの弁護側による事実誤認の主張について検討し、原判決で被害者2人殺害などの共謀が成立したとされていた「オートステーション」での謀議より後に、「すかいらーく」でKらが真意に基づいてXらを解放していた事実などに照らし、「オートステーション」における共謀成立に合理的な疑いが残ることを指摘。殺害の共謀はB不在の「すかいらーく」で成立したことを認定し、Bが立ち会っていないXの殺害については無罪と認定した(前述[45]

その上で、量刑理由については以下のように両被告人にとって不利な事情を列挙した[200]

犯行動機
遊興費や刺激欲しさに「バッカン」を企て、他人の痛みや生命すらも意に介さず一連の犯行を敢行しており、斟酌すべき事情はない。
犯行態様
一連のアベック襲撃は計画的なものであり、犯行態様は目に余るほど悪質・危険かつ無軌道なものである。大高緑地事件では負傷した被害者2人を長時間に渡って連れ回した挙句、犯行発覚を恐れて殺害しており、殺害方法も残虐というほかない。
結果の重大性
大高緑地事件では社会一般の通常人の感覚ではとうてい理解できない暴挙により、何の落ち度もない年若い2人(Bについては1人)の尊い生命が奪われた。その結果の重大性は、本件の量刑にあたり重視されるべきものである。金城埠頭事件でも2組のアベックに対し、物心両面におよぶ看過し得ない被害を与えた。
被害感情・社会的影響
殺害された被害者2人の精神的・肉体的苦痛の激しさや無念さには言うべき言葉もない。双方の親族も捜査段階から現在に至るまで、Kへの死刑など厳罰を強く望んでおり、事件が地域社会におよぼした衝撃的な不安・影響の強さも無視できない。

しかしその一方で、一連の犯行は原判決でも指摘されたように、被害者らに与える損害や重大性を必ずしも十分に認識していない精神的に未成熟な少年らが集団を形成し、相互に影響・刺激・同調しあって起こしたものであることを「被告人らに共通の、斟酌すべき情状の主要点」として挙げた[385]。その上で、被告人らはいずれも不遇な環境で生育し、他人の痛み・苦しみへの認識・理解に欠けるすさんだ生活体験を経ていたことから、集団を形成すると冗談と本気が無造作に飛び交い、実行に突っ走る危険性を秘めていたことを指摘。一連のアベック襲撃は計画的なものであった一方、X・Yの殺害などの犯行は「当初の予測を超え、エスカレートして行われたもので、稀にみる残酷で重大な結果をもたらした事件」ではあるが、別個の機会に犯意を新たにしながら殺人を反復した事案とは異なり、「バッカン」を起因とした約45時間にわたる軟禁の継続中に順次敢行された一連の流れに属する犯罪であることや、当時17 - 20歳の被告人たちが被害者らを拉致して連れ回すうちに、自らが引き起こした事態の適切な解決方法を選択できないまま、次第に自縄自縛の状態に陥っていった末に起こした犯行であるとも言えることから、「社会的に未成熟な青少年らの、短絡的な発想からの、無軌道で、思慮に乏しい犯行といえる性格を帯びており、綿密な計画に基づいて周到な準備を行い、これを冷徹に遂行した犯罪と評価すべき側面は見出しがたい。」と評価した[386]

そして、Bについては積極的に「バッカン」に加担したことを「強く責められるべき」と断じ、Y殺害の際にK・Aの2人による殺害行為を手助けしたことや、彼らとともに被害者2人の死体遺棄を実行した点については「共謀の加担のみにとどめ、実行行為への参加を意識的に回避した〔C〕に比べ、〔B〕の、殺人という重大事件への自己規制の弱さ、情性の鈍さを示すものにほかならず、その刑責は重いといわなければならない。」と非難した。しかしその一方で、Kに追従的だったことやX殺害の共謀に加担していないこと、Y殺害の実行行為の分担を暗黙裡に拒んだこと、不遇な生い立ちを抱えながら自立を目指して努力していた時期もあったこと、犯行後から判決時点までに反省の度を深めていることなど、斟酌すべき諸事情も総合し、懲役13年の量刑が妥当であると結論づけた[386]

Kの死刑回避の理由

続いて、名古屋高裁 (1996) はKに対する量刑を検討した。まず、Kは「バッカン」を最初に提案して事件の契機を作り、各犯行では集団の動きを事実上リードしており、他の者たちもKの行動を受容・追従していたことを挙げ、「〔K〕が首謀者的地位にあったことは明らか」と認定した。その上で、BやCが殺人の実行行為の分担を嫌がったとはいえ、自ら年下のAと共に被害者2人の殺害行為を実行したことについては「人間性に欠ける、残酷な行為を積極的に重ねた責任は重く、前記のような、犯行の動機、態様、重大な被害結果及び遺族の被害感情の厳しさ等を考慮すれば、〔K〕に対しては、極刑をもってその罪の償いをさせるべきであるとの見解に、相当の根拠があることは否定できない。」と判示した[386]

弁護人による死刑違憲論の主張については、累次判例を理由に退けたほか、「犯行時、年長少年であった者について、矯正可能性が十分に認められる場合には、死刑を適用することは許されない」といった主張についても検討した[386]。名古屋高裁 (1996) は、それぞれKと同じ19歳の少年が犯した凶悪犯罪である永山事件の第一次上告審判決(いわゆる「永山判決」:1983年7月8日)や、市川一家4人殺害事件の第一審・控訴審判決(後述)について言及した上で、前者判決が「罪責が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許される」という基準を示し、被告人の生育歴や精神的未成熟などを考慮して無期懲役とした控訴審判決を破棄差戻していることや、後者事件の各判決も被告人の矯正可能性までは否定しなかったものの、犯行の残虐さや身勝手な動機、結果の重大性などから被告人への極刑を許容していることを挙げ、「矯正可能性の有無」については「年長少年についても、罪刑の均衡を検討する際の、行為者側の主観的量刑因子のひとつに止まるものとみるべきである。」と判示した[387]。また、弁護人の「〔遺族の〕極刑を望むという個人的応報感情を、死刑選択の積極的な理由にすることは、不当である」という旨の主張については、「永山判決」で死刑選択の基準の重要な量刑因子として「遺族の被害感情」が挙げられていることを理由に退けた[234]

しかしその一方で、事件当時は暴力団を脱退して鳶職として働いており、粗暴犯の前科前歴がないことや、鑑別結果でも凶悪犯罪への危険性を窺わせる著しい性格偏奇は指摘されていないことを挙げ、一連の犯行の悪質性などを踏まえても、原判決が判示したように「犯罪性が根深い」と断定することには疑問が残ることを指摘した上で、Kには矯正可能性が残されていることを肯定した[234]。また、本事件は「精神的に未成熟な青少年の、無軌道で、場当たり的な、一連の集団犯罪」であることを踏まえ、Kは当初から被害者2人を殺害することを確定的に決意していたわけではなく、Cの出方次第では2人に口止めをした上で解放することを考えていたことや、実際に一時的とはいえ自らの真意に基づいて2人を解放したことを「斟酌できる情状のひとつ」と認めた[234]

また、KがCに殺害への加担を要請したものの協力を得られず、Aと2人だけで被害者2人を殺害して埋めることを決意して弘道会の墓地に赴いたにもかかわらず、Xを殺害した際に不安・恐怖に駆られ、死体を車のトランクに入れて現場から逃げ出し、あちこち車で回った後、Cのアパートに立ち寄ったり、Bを呼び出してY殺害への加勢を求めていたことなどを「〔K〕が、殺人という行為の重大性を強く感じていたことをうかがわせるもの」と指摘し、「人の生命に対する畏敬の念を持たず、平然と殺人の実行行為を重ねたものと評価することには、若干の疑義を入れざるを得ない。」という見解を示している。そして、犯行後に反省の態度が芽生えており、6年余りにおよんだ控訴審の公判過程でも人の生命の尊さ、本件の重大性や一審判決の重みを再認識し、反省の度を深めていることも指摘した[234]

名古屋高裁 (1996) は以上の諸事情を総合した上で、死刑は「究極の刑罰」であり、各裁判所が最高裁の「永山判決」で示された死刑適用基準を踏まえ、重大事犯について「死刑の適用をきわめて情状が悪い場合に限定し、その是非を厳正かつ慎重に検討している現況」に鑑みれば、Kに対しては「無期懲役をもって、矯正による罪の償いを長期にわたり続けさせる余地がある」と結論づけた[234]

判決への反響

同日夕方に同判決を報じるニュースが、当時Kが収監されていた名古屋拘置所内のラジオで流れた際、Kが収監されていた階とは別の階にあった複数の独房から立て続けに拍手が起きた[388]。拍手をした者たちはいずれも、死刑囚(死刑確定前の被告人を含む)だった[注 64][396][388]。拘置所内では私語に限らず、自分の房の中を自由に歩くことも禁止されており、拍手は懲罰対象となりうる行動だった[345]。Kはこの出来事を後日、刑務官などを通じて知ったが、以下のように述べている。

「生きたいと願いながらも生きることが許されない状況にある方々が、いったいどんな思いでこの拍手をしてくださったのかを考えると、本当に私は今でも胸が詰まる思いです」 — 犯人K(2006年7月2日付の手紙)、佐藤大介 (2021) [388]

一方、内河は「〔Kは〕無期懲役で、ずっと荷物を背負う責任を負うことになった」と、厳粛な心境で判決を受け止めていた[397]。また、判決後には高裁や後述のように最高裁判所への上告を見送った名古屋高検には抗議の声が相次ぎ、「少年なら何でも許される風潮を生みかねない」と判決を疑問視する声も多く上がった[注 65][399]

なお、同判決の約5か月前(同年7月2日)には東京高裁第2刑事部が、Kと同じく19歳で殺人を犯した市川一家4人殺害事件(強盗殺人の被害者3人、殺人の被害者1人、その他にも傷害・強姦・強姦致傷・強盗強姦などの余罪あり)の被告人である男Sに対し、死刑を言い渡した第一審判決(千葉地裁:1994年8月8日宣告)[注 66]を支持し、原判決に対するSの控訴を棄却する判決を宣告していた[387]。名古屋高裁は、この東京高裁判決や「永山判決」について言及した上で、「重大事犯につき、死刑の適用をきわめて情状が悪い場合に限定し、その是非を厳正かつ慎重に検討している現況にかんがみれば」という表現をしている[387]。その点について言及した『判例時報』 (1997) は、市川一家4人殺害事件(被殺者4人)と本事件(被殺者2人)の被害者数の違いも踏まえた上で、「本判決も、右東京高判の事案については死刑選択もやむを得ないほど重大であると考えており、本件の事案にはこれとは区別すべきものと考えているのであろうか」と考察している[125]

  • 宮澤浩一中央大学教授)も、本事件と市川一家4人殺害事件で死刑適用の可否が割れた要因は被殺者数の違いである可能性を指摘している[19]
  • また、伊藤博道(『中日新聞社会部記者)や久保田正(『朝日新聞』)は「永山判決」や市川一家4人殺害事件の控訴審判決で、年長少年(18歳・19歳)への死刑適用を容認する動きがあったことを指摘した上で、今回の判決がそれに一定の歯止めをかけたと評している[46][402]
  • 『読売新聞』中部本社社会部記者の三戸慶太は、本事件と市川一家4人殺害事件の控訴審で死刑適用可否の判断が分かれた理由を考察し、裁判所が「永山判決」で示された死刑適用基準(永山基準)のどの項目を重視するか次第で判断が異なってくることを指摘している[403]

Sはその後、2001年(平成13年)12月に最高裁で上告棄却の判決を言い渡されて死刑が確定、それから16年後の2017年(平成29年)12月19日に東京拘置所で死刑を執行されている[404]。犯行時少年の死刑確定・執行は、いずれもSが永山以来である[404]

判決確定

判決後、名古屋高検次席検事の吉川亘はKについて「犯行当時少年であった点を考慮しても、犯行の残虐性などからすれば死刑相当事案」とした上で[405]、「犯行の悪質さや結果の重大性、遺族の感情を思うと、裁判所の判断に疑問を感じる」とコメントしていた[406]。名古屋高検は最高検と上告について協議したが、上告理由は憲法違反判例違反、法律解釈の誤りなどに限定されている一方[407]、同判決に関する不服点は事実認定上の問題であることから、同高検は同月26日に上告断念を決めた[110]

検察官・両被告人側の双方とも、上告期限の1997年(平成9年)1月6日までに最高裁へ上告しなかったため、Kは無期懲役、Bは懲役13年の刑がそれぞれ確定した[50]。確定日付は、同月7日付である[111]

確定後の量刑傾向

本判決に前後して、東京高裁でも甲府信金OL誘拐殺人事件(1996年4月)・つくば妻子殺害事件(1997年1月)と[注 67]、それぞれ死刑を求刑されていた被告人に無期懲役判決が言い渡されていたが、いずれも検察官の上告はなされていなかった[408]。石塚伸一は、当時は本事件のように死刑求刑事件で無期懲役刑が言い渡されても検察官が上訴しなかったり、検察官が死刑求刑に謙抑的になったりしていたことを述べ[411]、その背景として1980年代に死刑再審無罪が4件(免田財田川松山島田)続いたことや、1980年代末から1990年代初めにかけて3年4か月間にわたり死刑執行がなく、死刑廃止の潮流があったという時代背景を挙げている[412]。また土本武司も、裁判所で無期懲役が言い渡された死刑求刑事件の場合、検察官は仮に上告してもその成果が実る確率が乏しいため、上告を差し控えることが多かったと評している[413]。当時、最高検察庁刑事部長を務めていた堀口勝正も、当時は死刑をなるべく回避する裁判傾向があり、それに対し検察内部で諦めの空気が漂っていたという旨を述べている[414][410]

しかし1997年2月、福山市独居老婦人殺害事件で強盗殺人罪に問われた被告人(過去に強盗殺人を犯して無期懲役に処され、仮釈放中に再犯)に対し、広島高裁が「反省悔悟の情が認められる」と再び無期懲役の控訴審判決を宣告したことを受け、堀口は「国民が納得できない」と上長の土肥孝治検事総長)に上告を進言、無期懲役の量刑を不服とする永山以来戦後2件目の上告がなされた[415][410]。検察はこれを皮切りに、1998年(平成10年)1月までに控訴審で無期懲役を言い渡された死刑求刑事件5件を対象に「連続上告」を行ったが[410]、この「連続上告」を境に、殺人事件の全判決数に対する死刑判決の件数が上昇したことが判明している[注 68][416]。「連続上告」の対象となった国立市主婦殺害事件の上告審判決(1999年11月29日)で、最高裁第二小法廷は無期懲役を言い渡した原判決を支持して検察官の上告を棄却したものの、同判決が死刑回避の理由として挙げた被告人の人間性(事件後に良心に苛まれて自殺を考えたことなど)、劣悪な生育環境、被害者への謝罪の意思などといった「主観的事情」については、被告人に有利なものであっても過度に重視すべきではないという判断を示している[417]。安田は一連の「連続上告」について、国立事件と同じく第一審の死刑判決が控訴審で無期懲役になった本事件が上告対象になっていない点を挙げ、検察当局の意図に疑問を呈している[418]

また2004年 - 2005年にかけては、従前ならば死刑が回避されていたとされる被害者1人の殺人事件(群馬女子高生誘拐殺人事件三島女子短大生焼殺事件)でも、控訴審で逆転死刑判決(第一審の無期懲役判決を破棄)が言い渡されており、これらの判決が「厳罰化」の象徴として取り上げられていた[410]。このような流れの要因について、村上満宏は厳罰を求める被害者遺族の活動が活発化した影響を指摘しており、安田は「裁判官の意識が『迷った時は無期』ではなく『死刑』に変わってきた」と指摘している[416]

少年事件の死刑適用可否に対する控訴審判決の影響

1999年4月に発生した光市母子殺害事件の第一審で、山口地裁(渡邉了造裁判長)は2000年(平成12年)3月22日、事件当時18歳の少年だった被告人の男Fに対する検察官の死刑求刑を退け、Fに無期懲役の判決を言い渡した[419][420]。同判決中で山口地裁は量刑を検討するため、「永山判決」以降で「殺害された被害者が二名以上で、年長少年に対する死刑の適否が問題となった裁判例」として、市川一家4人殺害事件の第一審・控訴審判決や、本事件の控訴審判決を挙げた上で、それぞれ以下のように言及している。

〔市川一家4人殺害事件について〕結果の重大性及び被告人の犯罪的傾向の点において本件とは著しい差異があるものと認められる。(中略)

……〔本事件について〕共犯事件であり、集団心理が働いた点及び罪責の点において本件と事案を異にするが、結果の重大性及び被告人の犯罪的傾向の点において本件よりも深刻であると認められる。

— (量刑の理由)、山口地裁 (2000) [111]

検察官は同判決を不服として控訴したが、広島高裁(重吉孝一郎裁判長)は2002年(平成14年)3月14日に控訴棄却の判決を宣告した[421]。しかし同判決を不服とした検察官が上告したところ、最高裁第三小法廷(濱田邦夫裁判長)は2006年(平成18年)6月20日、控訴審判決を破棄して審理を広島高裁に差し戻す判決(第一次上告審判決:以下「濱田判決」)を言い渡した[422]。最高裁は同判決で、「永山判決」で示された死刑選択基準を引用した上で、同事件については被害者2人の生命が奪われた結果の重大性、犯行動機の悪質さ、犯行態様が冷酷・残虐であること、遺族の被害感情、社会的影響などといった観点から「被告人の罪責は誠に重大であって、特に酌量すべき事情がない限り、死刑の選択をするほかないものといわざるを得ない。」と判示している[423]。その上で「特に酌量すべき事情」の有無について検討し、原判決および第一審判決が酌量すべき事情として掲げた事情については[424]、それぞれ以下のように判示している。

「殺害について計画性がないという点」について
被告人は、強姦という凶悪事犯を計画し、その実行に際し、反抗抑圧の手段ないし犯行発覚防止のために被害者らの殺害を決意して次々と実行し、それぞれ所期の目的も達しているのであり、各殺害が偶発的なものといえないことはもとより、冷徹にこれを利用したものであることが明らかである。(中略)
……本件において殺害についての計画性がないことは、死刑回避を相当とするような特に有利に酌むべき事情と評価するには足りないものというべきである。 — 判決理由、最高裁第三小法廷 (2006) [425]
Fが事件当時18歳30日の少年であることなどについて
少年法51条(平成12年法律第142号による改正前のもの)は、犯行時18歳未満の少年の行為については死刑を科さないものとしており[注 1]、その趣旨に徴すれば、被告人が犯行時18歳になって間もない少年であったことは、死刑を選択するかどうかの判断に当たって相応の考慮を払うべき事情ではあるが、死刑を回避すべき決定的な事情であるとまではいえず、本件犯行の罪質、動機、態様、結果の重大性及び遺族の被害感情等と対比・総合して判断する上で考慮すべき一事情にとどまるというべきである。 — 判決理由、最高裁第三小法廷 (2006) [426]

その後、差戻控訴審では2008年4月22日に死刑判決(第一審判決を破棄自判)が言い渡され[427]、同判決に対しF側が上告したが、2012年2月20日に最高裁第一小法廷(金築誠志裁判長)が上告棄却の判決(第二次上告審判決)を宣告[428]。同判決に対する訂正申立も同年3月に棄却されたため、死刑が確定している[429]。「永山判決」(1983年)からこの第二次上告審判決までの間に、死刑を求刑された少年事件では、殺害された被害者数が4人の3事件で計5人(永山事件・市川一家4人殺害事件の各被告人と、木曽川・長良川連続リンチ殺人事件の被告人3人)の死刑が確定していたが、2人を殺害した少年に対する死刑確定は、光市事件が初めてだった[428]

  • 日本経済新聞』は第二次上告審判決や、前年の2011年(平成23年)3月に言い渡された木曽川・長良川連続リンチ殺人事件の上告審判決(当時18歳・19歳だった被告人3人の死刑が確定)の結果を踏まえ、裁判所がそれまでの裁判傾向とは違い、犯行時少年の被告人に対する死刑適用可否の判断にあたっては被告人の年齢をことさら重視しない姿勢を取るようになったと評している[430]
  • また、2016年(平成28年)には、光市事件と同じく18歳で2人を殺害した石巻3人殺傷事件(2010年発生)の被告人に対し、最高裁が一・二審の死刑判決を支持して被告人側の上告を棄却する判決を宣告したが、『中日新聞』 (2016) は同判決も濱田判決に沿った判断を示したと評している[431]
裁判傾向の変化に対する評価

永田憲史は光市事件について、それまでの判例が死刑選択の判断の際に重視してきた「殺害の計画性」が見られないことから、従来の基準からすれば死刑よりも無期懲役が科されやすい事件であった旨を指摘している[432]。また、差戻控訴審で死刑が言い渡された際には、光市事件よりも本事件の方が悪質と言える部分もあることを指摘した一方、それにもかかわらずFに死刑が言い渡された背景として、判決で指摘されたFの反省心の欠如に加え、「犯罪被害者への関心の高まり」「少年事件や性犯罪に対する厳罰化の流れ」の存在を指摘している[433]

濱田判決の判断について、土本は「永山基準」で示された従来の枠組み(誰が考えても死刑以外に選択肢がない場合のみ死刑を適用できる、とする考え方)とは異なり[413]、犯罪の客観的側面が悪質な場合は原則として死刑を適用すべきであり、特に酌量すべき事情がある場合に限って死刑を回避するという考えを示したものと評している[434]。『読売新聞』の記者から取材を受けたある刑事裁判官は、被害者2人の少年事件については「従来の基準で言えば、無期懲役相当というのが裁判官の一般的な感覚だった」と述べているが、濱田判決はその従来の量刑判断とは異なるものであり、前田雅英首都大学東京法科大学院教授:刑事法)はこのような判断が下された背景にあった事情として「強姦など女性に対する犯罪への重罰化の流れ」「死刑適用拡大の流れ」「少年事件に対する世論の厳しさ」「犯罪被害者に対する世論の高まり」を挙げている[435]。諏訪雅顕は死刑が回避された本事件を例示した上で、少年事件に対する死刑適用の可否の判断に当たっては、被告人の可塑性に伴う矯正可能性が極めて重視されており、本事件のように「通常の成人事件と比較して、犯行態様の悪質性や複数殺人により結果が重大」な事件でも死刑を回避する場合が多いことを指摘[436]。その上で、濱田判決については従前の判例の基準に比して厳しい判断であることを指摘している[437]

『中日新聞』は2011年、濱田判決を「死刑求刑された少年事件で、最高裁の判断の分岐点となった判決」と評しているほか[438]、2016年にも「永山判決」で「犯人の年齢」が死刑適用判断に当たって考慮すべき要素の1つとして挙げられて以来、法曹界には「犯行時未成年の被告〔人〕に対し、死刑適用を抑制する流れ」が存在していたが、「年齢は死刑を回避すべき決定的な事情とはならない」とした濱田判決がその流れを変え、それ以降は少年に対する死刑求刑事件でも犯行の悪質性を重視する裁判傾向に変わってきたと評している[431]


  1. ^ a b c d e f 少年法第51条:罪を犯すとき十八歳に満たない者に対しては、死刑をもつて処断すべきときは、無期刑を科する。この規定を適用されて無期懲役刑が確定した事例は、1966年から2007年2月までの間で、最高裁が把握している限りではAの事例を含めて3例ある[38]。A以外に同条文が適用された主な判決には、混血少年連続殺人事件広域重要指定106号事件)の犯人(事件当時16歳)に対し千葉地裁松戸支部(浅野豊秀裁判長)が1971年9月9日に宣告した判決[39][40]金沢市夫婦強盗殺人事件の犯人(事件当時17歳)に対し金沢地裁(堀内満裁判長)が2006年12月18日に宣告した判決[41](2007年2月13日付で確定[42])がある[38]
  2. ^ a b c d e f g h 事件当時Kが住んでいた「政和荘」は、名古屋市港区辰巳町11番地26(座標)に所在していた[174](現在の辰巳町11番地26の1)[175]。犯行途中、Kは「政和荘」近くのパーキングに駐車して「政和荘」に戻っているが、その時に駐車したパーキングも港区辰巳町である[73]
  3. ^ 「市営汐止住宅」とする報道もある[116]。同住宅は、現在の市営みなと荘7棟駐車場付近に位置していた[117]
  4. ^ 1983年(昭和58年)10月に家賃滞納問題が発生したとする報道もある[84]
  5. ^ 事件発生時点で約5年間分の家賃が滞納されていた[122]
  6. ^ 10歳代の少年[122]
  7. ^ a b 『週刊文春』 (1988) はKの父親について、Kの同僚が「市バスの運転手」と述べていることを報じている[139]
  8. ^ 「死刑廃止の会」がまとめた死刑事件の被告人一覧(1991年7月10日時点)や、『年報・死刑廃止』の1996年・1997年版、および集刑 (1992) には、犯人Kの実の姓名(イニシャルは「K・S」)が掲載されている[128][129][130][131]。また『高等裁判所刑事裁判速報集』に収録された判決文にも、Kの姓(イニシャル「K」)が掲載されている[132]
  9. ^ その他の仮名表記は、『オール讀物』 (1989) では「富村久仁雄」[133]、『週刊新潮』では「藤原和彦」[134]真神博 (1990) では「島田芳夫」[135][96]、中尾幸司 (2004) では「石田滋」[112]、佐藤大介 (2021) では「中川政和」[136]
  10. ^ ただし、同年9月13日に名古屋家裁で審判不開始となった[54]
  11. ^ 小笠原和彦 (1988) によれば、Kにこの職場を紹介した人物はKの父親の知人である[148]
  12. ^ 中尾 (2004) によれば、侵入した先は友人宅である[150]
  13. ^ その前日(7月20日)付で名古屋家裁により、別件保護中との理由から不処分となっており、処分決定後も継続して勤務することが決まっていた[55]
  14. ^ 、『オール讀物』 (1989) では「古河克彦」[156]、『週刊新潮』では「犬丸公一」[134]、真神博 (1990) では「徳岡伸雄」[96]、中尾幸司 (2004) では「西山照久」[112]
  15. ^ Aの父親は近隣住民によれば暴力団関係者で、息子に対し「将来、ヤクザにでもなれ」と言っていたという[158]。息子Aが事件を起こした当時はトラック運転手として働いていたが、『週刊文春』の取材を受けた際、息子が逮捕されたことを聞いても動ずる様子もなく「勘当したから今は何をしているかまったく知らない」と述べている[139]
  16. ^ 多田はAの父親が酒浸りになる前、家業の不振に加え、彼の娘(Aの妹)が突然死するという不幸に見舞われていたことを述べている[159]
  17. ^ 『オール讀物』 (1989) では「田家哲介」[162]、真神博 (1990) では「高田伸一」[96]
  18. ^ 運輸会社就職後の1987年5月7日付で、名古屋家裁から保護観察処分に付されている[54]
  19. ^ 『オール讀物』 (1989) では「舟橋定弘」[133]、『週刊新潮』では「佐竹安雄」[134]、真神博 (1990) では「伊藤竜一」[96]、中尾幸司 (2004) では「菅原義夫」[163]
  20. ^ この事件については1984年1月19日、名古屋家裁で不処分になっている[56]
  21. ^ 『オール讀物』 (1989) では「倉山スミ子」[156]、『週刊新潮』では「横寺恵美」[134]、真神博 (1990) では「寺田理花」[96]、中尾幸司 (2004) では「寺前恵美」[164]
  22. ^ 『オール讀物』 (1989) では「大林明美」[166]、『週刊新潮』では「筒見英子」[134]、真神博 (1990) では「井上好子」[96]、中尾幸司 (2004) では「井田由紀」[167]
  23. ^ なお、鮎川潤 (1992) は『法廷での態度から判断するとF子〔=E〕は父親に対しては悪い感情は抱いてないようである」と述べている[168]
  24. ^ Cが犯行に用いたグロリア(C車両)は、名古屋市南区の山口組系暴力団組長が1986年11月に購入したものだったことが報じられている[172]
  25. ^ 金城埠頭は当時、夜間は人が少なく、公衆電話も埠頭内に計5か所しかなかった[185]
  26. ^ a b 2022年現在は19時閉門(翌7時開門)となっている[190]
  27. ^ 冒頭陳述によれば、この時にはAもYへの暴行に加わっていた[194]
  28. ^ 中尾幸司 (2004) は冒頭陳述書からの引用として、AはCがYを姦淫している間、その様子を見ながらYの口に自己の陰茎を含ませていた[195]
  29. ^ チェイサーに取り付けてあったもの[59]
  30. ^ この車の運転手は早朝トレーニングのため、大高緑地公園に来ていた[193]。2人はその人物に対し、「車を当てられたんだけど、証人になってもらえますか」と言っていた[59]
  31. ^ 「オートステーション」は、名四バイパス国道23号)沿いの海部郡弥富町中原ろの割(現:弥富市富島2丁目9番地)に所在していた(座標[203]。同所は現在、「出光(株)西日本宇佐美東海支店 2号名四弥富SS」が所在している[204]
  32. ^ KたちがCの上役にどう説明するかを相談していた際、Dは話の途中で「(朝食を)食べたから出る」と言って退店しており、次いでEも「眠いから」との理由で、途中から入店してきたBとともに退店している[206]
  33. ^ Kは第一審でBの公判に出廷した際も、同店における謀議は本気ではなかったことを証言している[205]
  34. ^ 「ホテルロペ39 ロペ39中部観光(有)」は、中村区城屋敷町1丁目15番地に所在しており(座標[214]、2021年時点でも同地で「ホテルロペ39」として営業している[215]
  35. ^ 喫茶店「まいか」[61]。名古屋市熱田区西野町一丁目32番地(座標)に「メゾン西野」があり[218]、同ビル1階に「喫茶まいか」が入居していた[219]
  36. ^ a b Kたちが犯跡隠滅のために利用した洗車場は、「コイン洗車大高」[207](名古屋市緑区大高町字丸ノ内:座標[220]。2022年現在は「(株)ピットストップモーターズ」が所在している[221]
  37. ^ 喫茶店「TOTO」[61]。名古屋市港区入場一丁目312番地に「ハイツ幹」(座標)が所在しており、同ビル1階に「コーヒーTOTO」[222](「喫茶とと」とも)が入居していた[223]
  38. ^ 同地点(熱田区一番1丁目21番18号)には、2022年時点で「ガスト 熱田一番店」がある[225][226]
  39. ^ 名古屋市中村区本陣通6丁目(座標)には1988年当時、「喫茶店ぴーく」があり、その西側には名古屋競輪場駐車場があった[236]。後者の駐車場は2022年現在、かつや名古屋本陣通店(本陣通6丁目35番地の1)に、「喫茶店ぴーく」の所在地は同店の駐車場になっている[237][238]
  40. ^ 判決文では「奥那須原」と表記されているが、三重県公式サイトでは「奥那須原」の表記と[239]、「奥那須原」の表記が混在している[240]。伊賀市上阿波奥那須ケ原地区の位置図:参考[240][241]
  41. ^ 名古屋地裁 (1989) 、名古屋高裁 (1996) の認定より[76][69]。検察官の冒頭陳述書では、KとAが立っていた位置が正反対(KはYの左側、Aは右側)になっている[247]
  42. ^ 冒頭陳述書によればこの際、Yがうつ伏せに倒れ、彼女の脈を診たBも「脈がない」と言ったが、Kは念のため、Xの両手を縛っていた洗濯用ロープで改めてYの首を絞めることにしている[248]
  43. ^ 当時の大高緑地 - 金城埠頭間の道路における主な経路は、国道23号・国道1号を経由するもので[78]、経路の総距離は約15 - 16 kmである[189]
  44. ^ Cは毎週木曜日の夜、実家に電話で近況報告することを習慣としていた[177]
  45. ^ a b 少年鑑別所では、留置された被疑者に附添人をつけることが認められている。通常は弁護士が附添人になるが、願い出れば保護者が附添人になることも可能である[262]
  46. ^ 法律扶助協会は、身寄りや金銭的余裕がない人物に弁護士などを斡旋する機関で、ここからの紹介でついた附添人は一般刑事事件における国選弁護人に相当する[262]
  47. ^ 中学校の英語の教科書[269]
  48. ^ 同日付で、5人は少年鑑別所を退所した[183]
  49. ^ 内訳は、無期懲役の仮釈放中に殺人を再犯した事例(3件)と、少年時代に殺人・死体遺棄・強姦致傷などの前歴を有するほか、住居侵入・準強盗未遂で懲役刑に処され、その刑期満了直後に殺人を犯した事例(1件:「事件一覧表」における整理番号12番)[281]。前者の主な例には、整理番号244番[280]豊中市2人殺害事件[282])がある。
  50. ^ 1件のみ。「事件一覧表」における整理番号:158番[283]富山・長野連続女性誘拐殺人事件[284])。
  51. ^ 全10件。例:「事件一覧表」における整理番号266番[283]本庄保険金殺人事件[285])、274番[283]長崎・佐賀連続保険金殺人事件[286])。
  52. ^ 例:「事件一覧表」における整理番号211番[287]飯塚事件[288])。
  53. ^ 「事件一覧表」における整理番号246番[287]池袋通り魔殺人事件[282])。
  54. ^ 例:「事件一覧表」における整理番号80番[287]市原両親殺害事件[290])。その他の事例には、生きたまま浴槽内に頭部を沈めて殺害した事案(整理番号111番)、知人を自己の加虐的暴力的嗜好の対象とし、数々の虐待を重ねてついに殺害した事案(同245番)がある[291]
  55. ^ その他の事例は、整理番号314番[293]いわき2人射殺事件[294])、同341番[293]秋田児童連続殺害事件[295])など。
  56. ^ 刑集 (1983) より[300]。『中日新聞』の報道では、同年1月の記事で「38件」[299]、同年6月の記事で「40件」(法務省などの調べ)となっている[301]
  57. ^ 後述の28件を上告棄却の年代別に見ると、昭和20年代が12件(前半5件・後半7件)、昭和30年代が11件(前半6件・後半5件)、昭和40年代前半が2件である[302]
  58. ^ 後述の28件のうち、昭和40年代後半、昭和50年代前半の各2件[302]
  59. ^ この9件のうち1件は、後に再審で元死刑囚の無罪が確定した財田川事件(1957年1月22日に最高裁で上告棄却判決)である[303]
  60. ^ 分離公判では、個別に被告人質問が行われた[315]
  61. ^ 当初は同年3月14日に開廷される予定だったが[356]、延期された。
  62. ^ 愛知県弁護士会所属[22]
  63. ^ 加藤は1995年秋、共犯者2人の証人尋問における供述を基に弁護団に対し、「犯罪心理鑑定書」を補充し、共犯者全員の鑑定もしくは証人尋問を求める意見を述べた[380]
  64. ^ 1996年3月末時点で[389]、名古屋拘置所に収監されていた死刑囚は、名張毒ぶどう酒事件の奥西勝[390]半田保険金殺人事件のIおよびH(旧姓T)[390][391]、日建土木事件の死刑囚N、勝田清孝、先妻家族3人殺害事件の死刑囚Mの計6人がいたが[392]、奥西以外は2012年以前にいずれも死刑を執行されており、奥西も2015年に八王子医療刑務所で病死している。また当時、最高裁上告中の死刑事件被告人が1人(富山・長野連続女性誘拐殺人事件女性死刑囚M)[393]、高裁控訴中の被告人1人がそれぞれ同拘置所に収監されていたが[129]、前者(1998年に死刑確定)は2022年時点でも存命である一方[394]、後者[同年7月2日に名古屋高裁(松本光雄裁判長)で控訴棄却判決、2001年に死刑確定]は死刑確定後の2003年に獄中死している[395]
  65. ^ a b 『朝日新聞』声の欄(1996年12月23日、および26日)にはそれぞれ、被害者の立場や結果の重大性などの観点から、控訴審判決を非難する投書が掲載されている[398]
  66. ^ このSに対する死刑求刑や死刑判決の宣告は、ともに少年事件としては本事件のKが受けて以来、約5年ぶりである[400][401]
  67. ^ これら2判決はいずれも第一審の無期懲役判決を不服とした検察官が控訴して死刑を求めていたが、いずれも棄却されたものである[408]。甲府信金OL誘拐殺人事件の判決理由で、東京高裁は「近年の死刑の適用傾向を見ると、殺害された者が1名の事案については、やや控えめな傾向がうかがえる」として「死刑には、躊躇を覚えざるを得ない」と結論づけていた[409][410]
  68. ^ 殺人事件で第一審判決を宣告された被告人の人数は、1996年が567人だった一方、2004年は795人で、この間の増加割合は約1.4倍である[416]。一方、第一審から上告審までのいずれかの審級で死刑判決を受けた被告人の人数は、1996年は8人だったが、「連続上告」がなされた1997年 - 1998年を境に急増し(1997年は9人、1998年は19人)、2004年は42人(1996年の5倍強)となっている[416]
  69. ^ 犯罪被害者等給付金支給法第8条1項[271]:「犯罪被害を原因として犯罪被害者又はその遺族が損害賠償を受けたときは、その価額の限度において、犯罪被害者等給付金を支給しない。」[450]の規定により、被害者遺族が給付金額を上回る損害賠償を受けた場合、給付金は支給されない[271]
  70. ^ 内訳は逸失利益・死亡慰謝料・近親者慰謝料・葬儀費で、Xの逸失利益は2,326万3,459円、Yの逸失利益は2,618万3,026円[451]。また、両者ともに死亡慰謝料は2,000万円、近親者慰謝料は500万円、葬儀費は100万円である[451]
  71. ^ 岡山刑務所の受刑者数は2015年末時点で585人であり、その約3分の1(約200人)が無期懲役囚である[462]。同刑務所では社会復帰に向けて受刑者を努力させるため、服役態度などによって受刑者を1 - 5類に分類し、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などを決めているが、「1類」の受刑者は約30人である[31]。Kは2022年時点で19年間、模範囚(規則違反なし)であり[463]、通常は30分程度まで認められている面会時間を60分まで延長されたり、独房内でヘッドフォンを用いてCDの音楽を聴いたり[464]、通常は21時までとなっている消灯時間を22時まで延長して作業を行ったりすることが許可されている[31]
  72. ^ 佐藤大介はKへの取材を通じて文通を重ね、2007年(平成19年)からは知人として面会を続けていた[461]
  73. ^ 無期懲役囚の仮釈放に当たっては、住居や仕事の確保が審査対象となっているため、家族や有事から見放された無期懲役囚にとっては負担が大きく、また収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある[470]。佐藤もある元刑務官の「40歳代以降に無期懲役になった受刑者は仮釈放されず、獄死するケースが多い。無期懲役は実質的に終身刑になっている」という声を取り上げている[470]。2005年(平成17年)から2014年(平成26年)までの間に仮釈放された無期懲役囚は54人である一方、その間に獄死した無期懲役囚はその3倍近くに当たる154人に達している[471]
  74. ^ これは2005年(平成17年)の改正刑法成立により、有期刑の上限が30年になったことに伴う措置である[472]。2014年に仮釈放された無期懲役囚は6人で、平均収容期間は31年4か月である[471]
  75. ^ 『朝日新聞』 (2002) によれば、その運用を指示した1998年6月の通達は「終身か、それに近い期間、服役すべき受刑者がいると考えられる」と明記した上で、指定事件については管轄の地検・高検が最高検と協議した上で、判決確定直後に刑務所側へ「安易に仮釈放を認めるべきではなく、仮釈放申請時は特に慎重に検討してほしい」「(将来)申請する際は、事前に必ず検察官の意見を求めてほしい」と文書で伝えた上で関連資料を保管し、刑務所や地方更生委員会から仮釈放について意見照会があった場合、そのような経緯や保管資料などを踏まえ、地検が意見書を作成するよう指示している[474]
  76. ^ 「作業報奨金」は2006年までは「作業賞与金」と呼ばれていた[479]。これは刑務作業の給与のことで、時給10円から数十円程度である[53]
  77. ^ 彼はこの手紙を書いた2010年当時、一・二審で死刑判決を受けて上告中だった[482]
  78. ^ Fは2007年3月以降、広島拘置所内で1日6時間の労務作業を行い、初めて得た1か月分の報奨金約900円を供養代として、初めてFに妻子を殺害された被害者遺族の男性に送金しているが、Fの関係者はFがそのような行動を取るようになった要因の1つとして、FがKと文通を始めたことを挙げている[485]
  79. ^ 1984年4月25日に横浜地裁川崎支部で宣告された判決[532]
  80. ^ 永山事件の審理で第一審:死刑→控訴審:無期(原判決破棄)→上告審:破棄差戻し→差戻控訴審:死刑(控訴棄却)と量刑が揺れ動いていたことや、日本では死刑存置論が優勢だった一方、西欧先進国では成人を含めて死刑廃止が大勢になっていたことなど[535]
  81. ^ a b 第三章 少年の刑事事件 > 第二節 手続
    第五十条(審理の方針) 少年に対する刑事事件の審理は、第九条の趣旨に従つて、これを行わなければならない。
  82. ^ a b 第二章 少年の保護事件 > 第三節 調査及び審判
    第八条(事件の調査) 家庭裁判所は、第六条第一項の通告又は前条第一項の報告により、審判に付すべき少年があると思料するときは、事件について調査しなければならない。検察官、司法警察員、警察官、都道府県知事又は児童相談所長から家庭裁判所の審判に付すべき少年事件の送致を受けたときも、同様とする。
    2 家庭裁判所は、家庭裁判所調査官に命じて、少年、保護者又は参考人の取調その他の必要な調査を行わせることができる。
    第九条(調査の方針) 前条の調査は、なるべく、少年、保護者又は関係人の行状、経歴、素質、環境等について、医学、心理学、教育学、社会学その他の専門的智識特に少年鑑別所の鑑別の結果を活用して、これを行うように努めなければならない。
  83. ^ 清水は1964年に検事任官され、1987年に東京地検刑事部副部長から名古屋地検公判部長に転出、1989年に札幌高検刑事部長へ転出するまで同職を務めた[544]。1995年に退職するまでに本事件の公判指揮のほか、千葉大チフス菌事件・ロッキード事件フライデー襲撃事件戸塚ヨットスクール事件あさま山荘事件埼玉愛犬家連続殺人事件など、様々な事件の捜査・公判を担当したが[544]、彼が関与した死刑の論告は本事件のみである[21]
  84. ^ 同規則2.2 (a) で「少年」 (juvenile) とは、「各国の法制度の下で犯罪のゆえに成人とは異なる仕方で扱われることのある児童 (child) もしくは青少年 (young person) 」と定義されている[549]
  85. ^ 同事件では暴力団員6人(20歳代の成人2人と、18歳および19歳の少年計4人)が、強盗や婦女暴行罪で起訴、家裁送致となっている[556]
  86. ^ 犯行動機は主に上納金などの金欲しさで、一夜に3組を襲撃したこともあった[556]。また、女性への乱暴は口封じの狙いもあった[556]
  87. ^ 最高裁は1992年の通達で、特別保存の対象を「全国的に社会の耳目を集めた事件」などと規定した[573]。2019年に東京地裁で重要な憲法解釈を含む訴訟記録の廃棄が判明したことを機に、名古屋家裁は2020年7月、最高裁の呼びかけに応じて運用要領を作成し、「主要日刊紙2紙以上に終局に関する記事が掲載された事件」などといった具体的な基準を策定した[573]
  88. ^ これらの事件のうち、木曽川・長良川連続リンチ殺人事件と西尾ストーカー殺人事件は名古屋地検に逆送致された事件である[573]






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「名古屋アベック殺人事件」の関連用語

名古屋アベック殺人事件のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



名古屋アベック殺人事件のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの名古屋アベック殺人事件 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS