名古屋アベック殺人事件 概要

名古屋アベック殺人事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/09 04:38 UTC 版)

概要

少年グループが被害者2人の命を弄び、長時間にわたる暴行の挙句、犯罪の発覚を恐れて殺害するという犯行の残虐さが日本社会に衝撃を与えた事件である[32]。また、本事件や翌1989年平成元年)に発覚した東京の女子高生コンクリート詰め殺人事件など、少年による凶悪犯罪が続いたことが大きな社会問題に発展し、少年法の見直しなどと絡め、少年犯罪への対応のあり方がクローズアップされた[32]。中尾幸司 (2004) は本事件とコンクリート事件を「凶悪少年事犯の“双璧”」に喩えられ、その後の少年法改正に多大な影響を与えた事件と評している[37]名古屋テレビ放送(通称・メ〜テレ)が2012年(平成24年)1月9日、開局50周年記念番組『ドデスカ!UP!増刊号』の番組内で、東海地方の「心に残るニュース50選」を放送するため、「事件&事故」部門でアンケートを集計したところ、本事件は20位に入っている[1]

名古屋地裁1989年平成元年)6月28日の判決公判で、主犯格の少年Kを死刑、Kとともに2人殺害の実行犯であった少年Aを無期懲役(死刑選択の上、事件当時17歳だったため少年法第51条[注 1]の規定により無期懲役を適用)[43]、その他の共犯4人を有期懲役(男Bは懲役17年、少年Cは懲役13年、少女2人は懲役5年以上10年以下の不定期刑)とする第一審判決を宣告した[35]。第一審で犯行当時少年だった被告人に死刑判決が言い渡された事例は、1979年(昭和54年)に東京地裁がいわゆる永山事件で被告人・永山則夫に死刑を言い渡して以来、10年ぶりだった[35]。また、事件発生時点で見れば、犯行時少年に死刑判決が言い渡された事件の発生は、正寿ちゃん誘拐殺人事件(1969年発生)以来19年ぶりということになる[44]。同判決に対し、KとBが控訴した一方[35]、検察官もBについては無期懲役が相当として控訴[45]。Aら4人は控訴せず、無期懲役および有期懲役が確定した[46][47]

控訴審は名古屋高裁1990年(平成2年)9月から開かれたが、被告人Kが裁判所の訴訟指揮に反発し、弁護団を二度にわたって解任したことなどから、1996年(平成8年)9月の結審までに6年を要した[46]。同年12月16日の控訴審判決公判で、名古屋高裁はKを死刑、Bを懲役17年とした原判決を破棄自判し、Kには無期懲役を言い渡した[48]。また、BについてもXの殺害については無罪認定[45]、懲役13年の刑を言い渡した[49]。検察官が上告しなかったため、1997年(平成9年)1月に2被告人の判決は確定[50]受刑者となったKは岡山刑務所に収監された[51][52][53]

略年表

事件前の経緯
事件前
段階 月日 出来事
事件前 1986年(昭和61年) 11月ごろ Kが山口組系弘道会内の暴力団「薗田組」の構成員になる[54]
12月ごろ セントラルパークでシンナー遊びなどをしていたBとCが知り合う[54]
1987年(昭和62年) 7月ごろ Bが「薗田組」の構成員になり、Kと知り合う[54]
8月ごろ Aが「薗田組」の構成員になり、K・Bと知り合う[55]。また、BはEと知り合う[54]
KとEも、セントラルパーク付近でCと知り合う。
10月8日 Dが家出してセントラルパーク付近でシンナーを吸うようになり、Cと出会う[55]
1988年(昭和63年) 1月 KとAが相次いで「薗田組」を離脱して鳶職として働くようになり、Aは同月25日から名古屋市港区の「政和荘」[注 2]に居住する[56]
このころ、Cも弘道会内「高山組」の若衆になる[56]
2月上旬 K・A・Eの3人が「政和荘」で暮らすようになる[56]
2月18日 Cが「高山組」の幹部に命じられ、「南汐止荘」に入居する[56]
2月20日 K・EとC・Dが互いにセントラルパークで知り合う[56]
2月22日 DがKから、A・Bの2人を紹介される[56]
その後、Kの提案で「バッカン」(アベックの乗った車を襲撃して金品を奪うこと)を行うことになり、6人で金城埠頭に向かう[34]
事件発生から起訴まで
金城埠頭事件
段階 月日 時刻 出来事
第1事件 1988年 2月23日 2時30分ごろ 6人は金城埠頭の岸壁でアベックの乗っていた車(日産・パルサー)を襲撃したが逃げられ、金品を奪えずに終わる[34]
第2事件 3時30分ごろ 6人は再び金城埠頭の岸壁で、アベックの乗った車(トヨタ・カムリ)を襲撃。男女2人に集団暴行を加えて負傷させ、現金86,000円や腕時計などを奪う[34]
大高緑地事件
襲撃 1988年 2月23日 未明 金城埠頭事件であまり金を得られなかったため、6人は新たな「バッカン」を大高緑地公園で行うことを決め、4時30分ごろに同公園第一駐車場に到着[57]
早朝 男性X(当時19歳)と女性Y(当時20歳)の乗っていたトヨタ・チェイサーを襲撃し、集団リンチを行って金品を奪う。また、K以外の男3人 (A・B・C) はYを集団強姦する[58]
拉致 午前 6人は被害者2人の怪我が酷かったことから、警察への通報を恐れて2人を連行し[59]、「オートステーション」で今後の行動について話し合う(参照[60]
その後、Bは一行から離脱して帰宅[61]。残る5人は2人を連れて「ホテルロペ」に投宿するが、Cは被害者2人を襲撃した際に組の親分の車を壊したことから、その報告のために一行から離脱する[62]
夕方 Kら4人は17時ごろに「ホテルロペ」を発つ。その後、洗車場で犯跡を隠滅するため、犯行に使ったグロリアを洗車する[63]
23時ごろ K一行とCがいったん合流するが、Cは翌24日2時ごろに「すかいらーく熱田一番店」で会う約束をし、Dを連れて帰宅する[64]
殺害の謀議 2月24日 2時前後 K・A・Eの3人は被害者2人を連れて「すかいらーく」に入店し、2時30分ごろまでにCやDと落ち合う[65]
2時30分ごろ KとCは被害者2人をどうするか話し合い、「よく口止めして帰す」と決めて2人を解放する[61]。しかしその直後、事情を知らなかったDから「誰が帰したの」と聞かれ、Kらは再び2人を連れ戻す[66][67][68]
その後、KはA・C・D・Eの4人に対し、口封じのために被害者2人の殺害を提案し、4人もそれに賛同する[69]
Cは連れの知人たちを帰すため、2人の殺害・死体遺棄をKたちに任せ、再び一行を離脱する[70]
殺害・死体遺棄 4時30分ごろ X殺害: KとAが「卯塚公園墓地」(長久手町)にある弘道会本家の墓前でXを絞殺し[69][71]、死体をトランクに積み込む。
その後、K一行はBと同日22時に落ち合うことを約束する[72]
14時ごろ 一行はK・A・Eが3人で暮らしていた「政和荘」に滞在[73]。この間、Aが再びYを強姦する[74]
22時40分ごろ 一行はBと合流し、Xの死体を確認させた上で、Yもこれから殺害して2人の死体を山中に遺棄することを決める[73]
2月25日 2時ごろ 一行は三重県大山田村の山中に到着し、K・A・Bの3人で、被害者2人の死体を埋めるための穴を掘る[75]
3時ごろ Y殺害: KとAの2人がYを絞殺[69]。その後、Bも加えた3人で被害者2人の死体を穴に埋めて現場を去る[76]
名古屋に戻ってBを下車させた後、Kらは被害者2人の遺品を捨てるなど犯跡隠滅を図る。
捜査
段階 月日 出来事
初動捜査 1988年 2月23日 名古屋水上警察署が強盗致傷事件として、金城埠頭事件の捜査を開始する[77]
また、大高緑地公園で著しく損壊されたチェイサーを通行人が発見、通報を受けた緑警察署が捜査を開始する[78][79]
2月24日 大高緑地事件の被害者2人 (X・Y) それぞれの家族から捜索願が出され、愛知県警(捜査一課・緑署)は捜査本部を設置して捜査を開始[78]
2月25日 大高緑地事件捜査本部は金城埠頭事件も同一犯と断定し、名古屋水上署も加えた合同捜査本部に体制を切り替える[80]
逮捕・送検 2月26日 港区野跡三丁目の路上で、著しく壊れたグロリア(Kの車)が発見される[81]
同日14時ごろ、捜査員が「南汐止荘」にいたB以外の5人 (K・A・C・D・E) に任意同行を求める[29]
2月27日 5人が一連のアベック襲撃事件について、X・Yの殺害・死体遺棄も含めて犯行を自供。県警は5人を強盗致傷・殺人・死体遺棄の容疑で逮捕し、捜査本部を特別捜査本部に切り替える[29]
同日、大山田村の山中で2人の遺体が発見・発掘される[29][82]
2月28日 Bも殺人などの容疑で逮捕される[82]。同日、Kら5人が名古屋地検送検される[83]
2月29日 Bが名古屋地検へ送検される[84]
起訴 3月19日 名古屋地検、Bを殺人などの罪で起訴。また、Kら少年少女5人を殺人などの容疑で名古屋家裁送致する[85]
4月14日 名古屋家裁は少年審判で、Kら5人を名古屋地検に逆送致することを決定[86]
4月22日 名古屋地裁、Kら5人を殺人・死体遺棄などの罪で名古屋地裁に起訴[87]
刑事裁判の経緯
審級裁判所 月日 出来事
第一審
名古屋地裁
1988年 7月18日 初公判: 名古屋地裁刑事第4部(小島裕史裁判長)で、6被告人の第一審初公判が開かれる。BはX殺害について無罪を主張したが、ほか5被告人は起訴事実を大筋で認める[88]
その後、論告求刑までに全14回の公判が開かれる(詳細[89][90]
1989年(平成元年) 1月30日 論告求刑公判: 第15回公判で検察官が論告を行い[90]、Kに死刑、A・Bに無期懲役、C・D・Eに懲役5 - 10年の不定期刑(Cは判決時までに成年する場合、懲役15年)をそれぞれ求刑する[91]
3月3日 最終弁論: Kの弁護側が最終弁論で有期懲役刑を求める[92]
3月22日 最終弁論: Bの弁護側による最終弁論が行われ、第一審の公判は結審する[93]
6月28日 判決公判: 刑事第4部(小島裕史裁判長)はKを死刑、Aを無期懲役、Bを懲役17年(X殺害も有罪)、Cを懲役13年、D・Eをそれぞれ懲役5 - 10年の不定期刑に処する判決を言い渡した[32]
7月12日 この日までに、KとBは判決を不服として名古屋高裁へ控訴[94][95]。A・C・D・Eの4被告人は控訴せず、翌13日付で刑が確定[46]
名古屋地検もBに対する量刑を不当として控訴した[46]
控訴審
名古屋高裁
1990年(平成2年) 6月15日 Kの第一次弁護団が控訴趣意書を提出[96]
9月12日 初公判: 名古屋高裁刑事第2部(本吉邦夫裁判長)で、KとBの控訴審初公判が開かれる[97]
1991年(平成3年) 10月21日 第10回公判で、名古屋高裁はKの第一次弁護団からなされた証拠調べの請求を却下し、次回第11回公判(1992年1月21日)で最終弁論を行って結審することを決める[98]
しかしその後、第一次弁護団との交渉を経てK本人や、彼の母親に対する尋問を行うことを決める[99]
12月下旬[46] 名古屋高裁の訴訟指揮を不満としたKが、第一次弁護団全員を解任する(詳細[100]
その後、新たな弁護人として安田好弘第二東京弁護士会)や多田元(第一次弁護団より再任)らが選任され[101][102]、5人による第二次弁護団が編成される[103]
1992年(平成4年) 7月28日 控訴審の公判が再開される[104]
1994年(平成6年) 12月21日 Kは再び訴訟指揮に反発し、第二次弁護団を解任する(詳細)。その後、内河恵一・村田武茂・雑賀正浩の3人からなる第三次弁護団が結成される[105]
1995年(平成7年) 7月19日 同日の第22回公判から公判が再開される[106]
1996年(平成8年) 9月26日 最終弁論: 第33回公判で、Bの弁護人による最終弁論が行われる。その後、Kの第三次弁護団が最終弁論を行う[107][108]
9月27日 最終弁論: 第34回公判[107]。前日に続いてKの第三次弁護団による最終弁論と、検察官の最終弁論が行われ、控訴審は結審[109]
12月16日 判決公判: 名古屋高裁(松本光雄裁判長)は原判決をいずれも破棄自判し、Kを無期懲役、Bにも懲役13年(X殺害は無罪)とする判決を宣告[48]
12月26日 名古屋高検が判決について上告断念を決める[110]
1997年(平成9年) 1月7日[111] 判決確定: 上告期限(同月6日)までに上告がなされなかったため、同日付でKの無期懲役刑と、Bの懲役13年の刑がそれぞれ確定[50]
その後、Kは岡山刑務所に下獄した。

  1. ^ a b c d e f 少年法第51条:罪を犯すとき十八歳に満たない者に対しては、死刑をもつて処断すべきときは、無期刑を科する。この規定を適用されて無期懲役刑が確定した事例は、1966年から2007年2月までの間で、最高裁が把握している限りではAの事例を含めて3例ある[38]。A以外に同条文が適用された主な判決には、混血少年連続殺人事件広域重要指定106号事件)の犯人(事件当時16歳)に対し千葉地裁松戸支部(浅野豊秀裁判長)が1971年9月9日に宣告した判決[39][40]金沢市夫婦強盗殺人事件の犯人(事件当時17歳)に対し金沢地裁(堀内満裁判長)が2006年12月18日に宣告した判決[41](2007年2月13日付で確定[42])がある[38]
  2. ^ a b c d e f g h 事件当時Kが住んでいた「政和荘」は、名古屋市港区辰巳町11番地26(座標)に所在していた[174](現在の辰巳町11番地26の1)[175]。犯行途中、Kは「政和荘」近くのパーキングに駐車して「政和荘」に戻っているが、その時に駐車したパーキングも港区辰巳町である[73]
  3. ^ 「市営汐止住宅」とする報道もある[116]。同住宅は、現在の市営みなと荘7棟駐車場付近に位置していた[117]
  4. ^ 1983年(昭和58年)10月に家賃滞納問題が発生したとする報道もある[84]
  5. ^ 事件発生時点で約5年間分の家賃が滞納されていた[122]
  6. ^ 10歳代の少年[122]
  7. ^ a b 『週刊文春』 (1988) はKの父親について、Kの同僚が「市バスの運転手」と述べていることを報じている[139]
  8. ^ 「死刑廃止の会」がまとめた死刑事件の被告人一覧(1991年7月10日時点)や、『年報・死刑廃止』の1996年・1997年版、および集刑 (1992) には、犯人Kの実の姓名(イニシャルは「K・S」)が掲載されている[128][129][130][131]。また『高等裁判所刑事裁判速報集』に収録された判決文にも、Kの姓(イニシャル「K」)が掲載されている[132]
  9. ^ その他の仮名表記は、『オール讀物』 (1989) では「富村久仁雄」[133]、『週刊新潮』では「藤原和彦」[134]真神博 (1990) では「島田芳夫」[135][96]、中尾幸司 (2004) では「石田滋」[112]、佐藤大介 (2021) では「中川政和」[136]
  10. ^ ただし、同年9月13日に名古屋家裁で審判不開始となった[54]
  11. ^ 小笠原和彦 (1988) によれば、Kにこの職場を紹介した人物はKの父親の知人である[148]
  12. ^ 中尾 (2004) によれば、侵入した先は友人宅である[150]
  13. ^ その前日(7月20日)付で名古屋家裁により、別件保護中との理由から不処分となっており、処分決定後も継続して勤務することが決まっていた[55]
  14. ^ 、『オール讀物』 (1989) では「古河克彦」[156]、『週刊新潮』では「犬丸公一」[134]、真神博 (1990) では「徳岡伸雄」[96]、中尾幸司 (2004) では「西山照久」[112]
  15. ^ Aの父親は近隣住民によれば暴力団関係者で、息子に対し「将来、ヤクザにでもなれ」と言っていたという[158]。息子Aが事件を起こした当時はトラック運転手として働いていたが、『週刊文春』の取材を受けた際、息子が逮捕されたことを聞いても動ずる様子もなく「勘当したから今は何をしているかまったく知らない」と述べている[139]
  16. ^ 多田はAの父親が酒浸りになる前、家業の不振に加え、彼の娘(Aの妹)が突然死するという不幸に見舞われていたことを述べている[159]
  17. ^ 『オール讀物』 (1989) では「田家哲介」[162]、真神博 (1990) では「高田伸一」[96]
  18. ^ 運輸会社就職後の1987年5月7日付で、名古屋家裁から保護観察処分に付されている[54]
  19. ^ 『オール讀物』 (1989) では「舟橋定弘」[133]、『週刊新潮』では「佐竹安雄」[134]、真神博 (1990) では「伊藤竜一」[96]、中尾幸司 (2004) では「菅原義夫」[163]
  20. ^ この事件については1984年1月19日、名古屋家裁で不処分になっている[56]
  21. ^ 『オール讀物』 (1989) では「倉山スミ子」[156]、『週刊新潮』では「横寺恵美」[134]、真神博 (1990) では「寺田理花」[96]、中尾幸司 (2004) では「寺前恵美」[164]
  22. ^ 『オール讀物』 (1989) では「大林明美」[166]、『週刊新潮』では「筒見英子」[134]、真神博 (1990) では「井上好子」[96]、中尾幸司 (2004) では「井田由紀」[167]
  23. ^ なお、鮎川潤 (1992) は『法廷での態度から判断するとF子〔=E〕は父親に対しては悪い感情は抱いてないようである」と述べている[168]
  24. ^ Cが犯行に用いたグロリア(C車両)は、名古屋市南区の山口組系暴力団組長が1986年11月に購入したものだったことが報じられている[172]
  25. ^ 金城埠頭は当時、夜間は人が少なく、公衆電話も埠頭内に計5か所しかなかった[185]
  26. ^ a b 2022年現在は19時閉門(翌7時開門)となっている[190]
  27. ^ 冒頭陳述によれば、この時にはAもYへの暴行に加わっていた[194]
  28. ^ 中尾幸司 (2004) は冒頭陳述書からの引用として、AはCがYを姦淫している間、その様子を見ながらYの口に自己の陰茎を含ませていた[195]
  29. ^ チェイサーに取り付けてあったもの[59]
  30. ^ この車の運転手は早朝トレーニングのため、大高緑地公園に来ていた[193]。2人はその人物に対し、「車を当てられたんだけど、証人になってもらえますか」と言っていた[59]
  31. ^ 「オートステーション」は、名四バイパス国道23号)沿いの海部郡弥富町中原ろの割(現:弥富市富島2丁目9番地)に所在していた(座標[203]。同所は現在、「出光(株)西日本宇佐美東海支店 2号名四弥富SS」が所在している[204]
  32. ^ KたちがCの上役にどう説明するかを相談していた際、Dは話の途中で「(朝食を)食べたから出る」と言って退店しており、次いでEも「眠いから」との理由で、途中から入店してきたBとともに退店している[206]
  33. ^ Kは第一審でBの公判に出廷した際も、同店における謀議は本気ではなかったことを証言している[205]
  34. ^ 「ホテルロペ39 ロペ39中部観光(有)」は、中村区城屋敷町1丁目15番地に所在しており(座標[214]、2021年時点でも同地で「ホテルロペ39」として営業している[215]
  35. ^ 喫茶店「まいか」[61]。名古屋市熱田区西野町一丁目32番地(座標)に「メゾン西野」があり[218]、同ビル1階に「喫茶まいか」が入居していた[219]
  36. ^ a b Kたちが犯跡隠滅のために利用した洗車場は、「コイン洗車大高」[207](名古屋市緑区大高町字丸ノ内:座標[220]。2022年現在は「(株)ピットストップモーターズ」が所在している[221]
  37. ^ 喫茶店「TOTO」[61]。名古屋市港区入場一丁目312番地に「ハイツ幹」(座標)が所在しており、同ビル1階に「コーヒーTOTO」[222](「喫茶とと」とも)が入居していた[223]
  38. ^ 同地点(熱田区一番1丁目21番18号)には、2022年時点で「ガスト 熱田一番店」がある[225][226]
  39. ^ 名古屋市中村区本陣通6丁目(座標)には1988年当時、「喫茶店ぴーく」があり、その西側には名古屋競輪場駐車場があった[236]。後者の駐車場は2022年現在、かつや名古屋本陣通店(本陣通6丁目35番地の1)に、「喫茶店ぴーく」の所在地は同店の駐車場になっている[237][238]
  40. ^ 判決文では「奥那須原」と表記されているが、三重県公式サイトでは「奥那須原」の表記と[239]、「奥那須原」の表記が混在している[240]。伊賀市上阿波奥那須ケ原地区の位置図:参考[240][241]
  41. ^ 名古屋地裁 (1989) 、名古屋高裁 (1996) の認定より[76][69]。検察官の冒頭陳述書では、KとAが立っていた位置が正反対(KはYの左側、Aは右側)になっている[247]
  42. ^ 冒頭陳述書によればこの際、Yがうつ伏せに倒れ、彼女の脈を診たBも「脈がない」と言ったが、Kは念のため、Xの両手を縛っていた洗濯用ロープで改めてYの首を絞めることにしている[248]
  43. ^ 当時の大高緑地 - 金城埠頭間の道路における主な経路は、国道23号・国道1号を経由するもので[78]、経路の総距離は約15 - 16 kmである[189]
  44. ^ Cは毎週木曜日の夜、実家に電話で近況報告することを習慣としていた[177]
  45. ^ a b 少年鑑別所では、留置された被疑者に附添人をつけることが認められている。通常は弁護士が附添人になるが、願い出れば保護者が附添人になることも可能である[262]
  46. ^ 法律扶助協会は、身寄りや金銭的余裕がない人物に弁護士などを斡旋する機関で、ここからの紹介でついた附添人は一般刑事事件における国選弁護人に相当する[262]
  47. ^ 中学校の英語の教科書[269]
  48. ^ 同日付で、5人は少年鑑別所を退所した[183]
  49. ^ 内訳は、無期懲役の仮釈放中に殺人を再犯した事例(3件)と、少年時代に殺人・死体遺棄・強姦致傷などの前歴を有するほか、住居侵入・準強盗未遂で懲役刑に処され、その刑期満了直後に殺人を犯した事例(1件:「事件一覧表」における整理番号12番)[281]。前者の主な例には、整理番号244番[280]豊中市2人殺害事件[282])がある。
  50. ^ 1件のみ。「事件一覧表」における整理番号:158番[283]富山・長野連続女性誘拐殺人事件[284])。
  51. ^ 全10件。例:「事件一覧表」における整理番号266番[283]本庄保険金殺人事件[285])、274番[283]長崎・佐賀連続保険金殺人事件[286])。
  52. ^ 例:「事件一覧表」における整理番号211番[287]飯塚事件[288])。
  53. ^ 「事件一覧表」における整理番号246番[287]池袋通り魔殺人事件[282])。
  54. ^ 例:「事件一覧表」における整理番号80番[287]市原両親殺害事件[290])。その他の事例には、生きたまま浴槽内に頭部を沈めて殺害した事案(整理番号111番)、知人を自己の加虐的暴力的嗜好の対象とし、数々の虐待を重ねてついに殺害した事案(同245番)がある[291]
  55. ^ その他の事例は、整理番号314番[293]いわき2人射殺事件[294])、同341番[293]秋田児童連続殺害事件[295])など。
  56. ^ 刑集 (1983) より[300]。『中日新聞』の報道では、同年1月の記事で「38件」[299]、同年6月の記事で「40件」(法務省などの調べ)となっている[301]
  57. ^ 後述の28件を上告棄却の年代別に見ると、昭和20年代が12件(前半5件・後半7件)、昭和30年代が11件(前半6件・後半5件)、昭和40年代前半が2件である[302]
  58. ^ 後述の28件のうち、昭和40年代後半、昭和50年代前半の各2件[302]
  59. ^ この9件のうち1件は、後に再審で元死刑囚の無罪が確定した財田川事件(1957年1月22日に最高裁で上告棄却判決)である[303]
  60. ^ 分離公判では、個別に被告人質問が行われた[315]
  61. ^ 当初は同年3月14日に開廷される予定だったが[356]、延期された。
  62. ^ 愛知県弁護士会所属[22]
  63. ^ 加藤は1995年秋、共犯者2人の証人尋問における供述を基に弁護団に対し、「犯罪心理鑑定書」を補充し、共犯者全員の鑑定もしくは証人尋問を求める意見を述べた[380]
  64. ^ 1996年3月末時点で[389]、名古屋拘置所に収監されていた死刑囚は、名張毒ぶどう酒事件の奥西勝[390]半田保険金殺人事件のIおよびH(旧姓T)[390][391]、日建土木事件の死刑囚N、勝田清孝、先妻家族3人殺害事件の死刑囚Mの計6人がいたが[392]、奥西以外は2012年以前にいずれも死刑を執行されており、奥西も2015年に八王子医療刑務所で病死している。また当時、最高裁上告中の死刑事件被告人が1人(富山・長野連続女性誘拐殺人事件女性死刑囚M)[393]、高裁控訴中の被告人1人がそれぞれ同拘置所に収監されていたが[129]、前者(1998年に死刑確定)は2022年時点でも存命である一方[394]、後者[同年7月2日に名古屋高裁(松本光雄裁判長)で控訴棄却判決、2001年に死刑確定]は死刑確定後の2003年に獄中死している[395]
  65. ^ a b 『朝日新聞』声の欄(1996年12月23日、および26日)にはそれぞれ、被害者の立場や結果の重大性などの観点から、控訴審判決を非難する投書が掲載されている[398]
  66. ^ このSに対する死刑求刑や死刑判決の宣告は、ともに少年事件としては本事件のKが受けて以来、約5年ぶりである[400][401]
  67. ^ これら2判決はいずれも第一審の無期懲役判決を不服とした検察官が控訴して死刑を求めていたが、いずれも棄却されたものである[408]。甲府信金OL誘拐殺人事件の判決理由で、東京高裁は「近年の死刑の適用傾向を見ると、殺害された者が1名の事案については、やや控えめな傾向がうかがえる」として「死刑には、躊躇を覚えざるを得ない」と結論づけていた[409][410]
  68. ^ 殺人事件で第一審判決を宣告された被告人の人数は、1996年が567人だった一方、2004年は795人で、この間の増加割合は約1.4倍である[416]。一方、第一審から上告審までのいずれかの審級で死刑判決を受けた被告人の人数は、1996年は8人だったが、「連続上告」がなされた1997年 - 1998年を境に急増し(1997年は9人、1998年は19人)、2004年は42人(1996年の5倍強)となっている[416]
  69. ^ 犯罪被害者等給付金支給法第8条1項[271]:「犯罪被害を原因として犯罪被害者又はその遺族が損害賠償を受けたときは、その価額の限度において、犯罪被害者等給付金を支給しない。」[450]の規定により、被害者遺族が給付金額を上回る損害賠償を受けた場合、給付金は支給されない[271]
  70. ^ 内訳は逸失利益・死亡慰謝料・近親者慰謝料・葬儀費で、Xの逸失利益は2,326万3,459円、Yの逸失利益は2,618万3,026円[451]。また、両者ともに死亡慰謝料は2,000万円、近親者慰謝料は500万円、葬儀費は100万円である[451]
  71. ^ 岡山刑務所の受刑者数は2015年末時点で585人であり、その約3分の1(約200人)が無期懲役囚である[462]。同刑務所では社会復帰に向けて受刑者を努力させるため、服役態度などによって受刑者を1 - 5類に分類し、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などを決めているが、「1類」の受刑者は約30人である[31]。Kは2022年時点で19年間、模範囚(規則違反なし)であり[463]、通常は30分程度まで認められている面会時間を60分まで延長されたり、独房内でヘッドフォンを用いてCDの音楽を聴いたり[464]、通常は21時までとなっている消灯時間を22時まで延長して作業を行ったりすることが許可されている[31]
  72. ^ 佐藤大介はKへの取材を通じて文通を重ね、2007年(平成19年)からは知人として面会を続けていた[461]
  73. ^ 無期懲役囚の仮釈放に当たっては、住居や仕事の確保が審査対象となっているため、家族や有事から見放された無期懲役囚にとっては負担が大きく、また収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある[470]。佐藤もある元刑務官の「40歳代以降に無期懲役になった受刑者は仮釈放されず、獄死するケースが多い。無期懲役は実質的に終身刑になっている」という声を取り上げている[470]。2005年(平成17年)から2014年(平成26年)までの間に仮釈放された無期懲役囚は54人である一方、その間に獄死した無期懲役囚はその3倍近くに当たる154人に達している[471]
  74. ^ これは2005年(平成17年)の改正刑法成立により、有期刑の上限が30年になったことに伴う措置である[472]。2014年に仮釈放された無期懲役囚は6人で、平均収容期間は31年4か月である[471]
  75. ^ 『朝日新聞』 (2002) によれば、その運用を指示した1998年6月の通達は「終身か、それに近い期間、服役すべき受刑者がいると考えられる」と明記した上で、指定事件については管轄の地検・高検が最高検と協議した上で、判決確定直後に刑務所側へ「安易に仮釈放を認めるべきではなく、仮釈放申請時は特に慎重に検討してほしい」「(将来)申請する際は、事前に必ず検察官の意見を求めてほしい」と文書で伝えた上で関連資料を保管し、刑務所や地方更生委員会から仮釈放について意見照会があった場合、そのような経緯や保管資料などを踏まえ、地検が意見書を作成するよう指示している[474]
  76. ^ 「作業報奨金」は2006年までは「作業賞与金」と呼ばれていた[479]。これは刑務作業の給与のことで、時給10円から数十円程度である[53]
  77. ^ 彼はこの手紙を書いた2010年当時、一・二審で死刑判決を受けて上告中だった[482]
  78. ^ Fは2007年3月以降、広島拘置所内で1日6時間の労務作業を行い、初めて得た1か月分の報奨金約900円を供養代として、初めてFに妻子を殺害された被害者遺族の男性に送金しているが、Fの関係者はFがそのような行動を取るようになった要因の1つとして、FがKと文通を始めたことを挙げている[485]
  79. ^ 1984年4月25日に横浜地裁川崎支部で宣告された判決[532]
  80. ^ 永山事件の審理で第一審:死刑→控訴審:無期(原判決破棄)→上告審:破棄差戻し→差戻控訴審:死刑(控訴棄却)と量刑が揺れ動いていたことや、日本では死刑存置論が優勢だった一方、西欧先進国では成人を含めて死刑廃止が大勢になっていたことなど[535]
  81. ^ a b 第三章 少年の刑事事件 > 第二節 手続
    第五十条(審理の方針) 少年に対する刑事事件の審理は、第九条の趣旨に従つて、これを行わなければならない。
  82. ^ a b 第二章 少年の保護事件 > 第三節 調査及び審判
    第八条(事件の調査) 家庭裁判所は、第六条第一項の通告又は前条第一項の報告により、審判に付すべき少年があると思料するときは、事件について調査しなければならない。検察官、司法警察員、警察官、都道府県知事又は児童相談所長から家庭裁判所の審判に付すべき少年事件の送致を受けたときも、同様とする。
    2 家庭裁判所は、家庭裁判所調査官に命じて、少年、保護者又は参考人の取調その他の必要な調査を行わせることができる。
    第九条(調査の方針) 前条の調査は、なるべく、少年、保護者又は関係人の行状、経歴、素質、環境等について、医学、心理学、教育学、社会学その他の専門的智識特に少年鑑別所の鑑別の結果を活用して、これを行うように努めなければならない。
  83. ^ 清水は1964年に検事任官され、1987年に東京地検刑事部副部長から名古屋地検公判部長に転出、1989年に札幌高検刑事部長へ転出するまで同職を務めた[544]。1995年に退職するまでに本事件の公判指揮のほか、千葉大チフス菌事件・ロッキード事件フライデー襲撃事件戸塚ヨットスクール事件あさま山荘事件埼玉愛犬家連続殺人事件など、様々な事件の捜査・公判を担当したが[544]、彼が関与した死刑の論告は本事件のみである[21]
  84. ^ 同規則2.2 (a) で「少年」 (juvenile) とは、「各国の法制度の下で犯罪のゆえに成人とは異なる仕方で扱われることのある児童 (child) もしくは青少年 (young person) 」と定義されている[549]
  85. ^ 同事件では暴力団員6人(20歳代の成人2人と、18歳および19歳の少年計4人)が、強盗や婦女暴行罪で起訴、家裁送致となっている[556]
  86. ^ 犯行動機は主に上納金などの金欲しさで、一夜に3組を襲撃したこともあった[556]。また、女性への乱暴は口封じの狙いもあった[556]
  87. ^ 最高裁は1992年の通達で、特別保存の対象を「全国的に社会の耳目を集めた事件」などと規定した[573]。2019年に東京地裁で重要な憲法解釈を含む訴訟記録の廃棄が判明したことを機に、名古屋家裁は2020年7月、最高裁の呼びかけに応じて運用要領を作成し、「主要日刊紙2紙以上に終局に関する記事が掲載された事件」などといった具体的な基準を策定した[573]
  88. ^ これらの事件のうち、木曽川・長良川連続リンチ殺人事件と西尾ストーカー殺人事件は名古屋地検に逆送致された事件である[573]






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