名古屋アベック殺人事件 事件前の経緯

名古屋アベック殺人事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/09 04:38 UTC 版)

事件前の経緯

犯行に用いられた車は、2台の茶色い日産・グロリアだった[166][169]。うち1台(以下「K車両」)はKが所有していた焦げ茶色のグロリア[166](年式は1979年式[81]、排気量は2,000 cc)で[170]、Kは事件の2週間前にこの車を購入したばかりだった[171]。もう1台(以下「C車両」)は、高山組の舎弟頭補が所有する薄茶色のグロリア[注 24][166](排気量は2,800 cc)で[170]、Cが後述の高山組幹部から借りたものだった[56]

K・A・B・C・Eが知り合う

Kは1987年7月に刈谷市の運輸会社を退職して以降、薗田組の組員が集合していた中川区の居宅(甲)に住み着くようになった[55]。一方、Bはセントラルパークで不良集団と交遊し始めて以降、Cと知り合ったが、同年7月ごろには知人の紹介を受けて薗田組の構成員になり、甲に住むようになるとともに、先に組の構成員になっていたKとも知り合っている[54]。また、KとBは同年8月ごろに新たに組に入ったAとも知り合ったほか、Bは組員たちが出入りしていたスナックのホステスだったEとも知り合い、同年10月ごろまで交際していた[54]。EはBとともに薗田組事務所に出入りするようになり、KやAとも知り合った[55]。Eは同年10月ごろ、薗田組幹部の紹介を受けて中川区内のスナックに転職したが、勤務状態が悪かったため、約2週間後に解雇された[55]

KとEは同年8月ごろから、セントラルパーク付近を自動車で暴走するようになり、やがてそこに遊びに来ていたCと知り合う[55]。また、Aら不良仲間たちとともに2、3回にわたり、「バッカン」と称して夜間自動車内で逢瀬を楽しむ男女に暴行を加え、金品を強取した[55]

事件前の6人の動向

Kは同年10月ごろからEと交際するようになり、彼女との共同生活を望んでいたが、薗田組にいる限りは2人での生活を支えるだけの収入を得られないと考えた[55]。そのため同年11月中旬、組を無断で抜け出し、Eを連れて中川区内の実家に帰り、同年12月14日から熱田区の建設会社で鳶職として働くようになった[173]。1988年(昭和63年)1月20日ごろ、KはEとともに名古屋市港区内の団地に転居したが、このころにはAが薗田組の先輩から、Kを探し出して組事務所に連れ戻すよう命じられていた[56]。しかし、その命令を受けたAは薗田組の組員に隠れてKと会っていたところを目撃されてしまい、Kを組に連れ戻すことを躊躇したため、自身も組を離脱し、Kが働いていた建築会社で同様に鳶職として働き出した[56]。名古屋地裁 (1990) ではK・Aの両名とも無断で組を離脱した旨が認定されているが[56]、Kは鳶職になったことを機に両親から勧められたこともあって暴力団の脱退を決意し、刑事立ち会いで母親とともに組幹部に会い、脱退を確認しあったという報道もある[71]。また真神博 (1990) は、KはEと実家で同棲しだしたことを機に、経済的自立のため保護司の助言を受けて警察に組への脱退届を提出したという旨を述べている[152]。なお、Aは1月25日から港区の「政和荘」(座標[注 2]に居住し、2月上旬以降はKとEを加えた3人で同所に居住するようになった[56]。小笠原和彦 (1988) によれば、KがEと同棲していたアパートは鳶職の親方が借りてくれた部屋であった[176]。一方、KはEと同居を開始して以降もたびたび実家に出入りしており、小遣いをもらったり、時には家族とともに夕食を摂ったりしていた[176]

Bが事件当時住んでいた「コーポうちふじ」(名古屋市中村区本陣通五丁目88番)。

同じく1月25日ごろ、Cは自動車学校で知り合った人物(先述)から弘道会内高山組の幹部を紹介され、暴力団組員となれば住居と食事が確保できると考えたことから、その幹部の若衆としてその雑役に従事するようになる[56]。Cは同月ごろ、それまで住み込みで働いていた港区の寿司屋から店主に無断で姿を消し、それ以降は母親らに対し「新舞子(愛知県知多市)の寿司屋に勤めている」と説明していた[177]。同年2月18日ごろ、Cは幹部に命じられて「南汐止荘」に入居し[56]、それ以降は幹部から小遣い銭を貰いつつ、幹部の妻を車で送迎するという生活を送っていた[178]。また、Bも同年1月5日以降、弘道会会長の身辺を護衛する一員となり、中村区の「コーポうちふじ」(中村区本陣通五丁目88番:座標[179][180])に居住するようになった[54]

Dが5人と知り合う

一方、Dは1987年10月8日に家出して以降、セントラルパーク付近に出向いては不良仲間と交遊し、本格的にシンナーを吸うようになったが、このころにCと出会っている[56]。Dは同月17日以降、山口組国領屋下垂一家花井興業の組員・春一と中区内で同棲するようになり、春一との結婚を本気で考え、同年11月下旬には彼を両親に紹介している[56]。また、Dは春一との子供を妊娠したが、事件直前の1988年1月末に流産している[165]

Dは1988年2月20日、春一を名古屋駅まで送り、22時30分ごろにセントラルパークに出向いたところ、Cや彼の自動車学校仲間と出会って交遊していた[56]。そこにKとEが通りかかったため、Cが2人をDに紹介している[56]。Dは同日夜、Cの居宅である「南汐止荘」に泊まり、翌21日夜もCたちとともにセントラルパーク付近で交遊していた[56]。CとDは22日23時ごろ、C車両でセントラルパークに赴いた[56]

一方、Bは同日20時ごろから、弘道会の幹部らとともに中川区内のスナックでウイスキーの水割りを飲み、22時ごろに退店すると、昭和区に住む知人女性に会いに行こうとタクシーに乗ったが、その途中でセントラルパークに行って顔見知りの者と交遊することを考え、同所で下車し、知り合いを見つけて立ち話をしていた[56]

K・A・Eの3人は同日20時ごろ、K車両で出発し、KとAそれぞれの実家に分かれて入浴した[166]。その後、23時ごろにKとEがAの車両に乗車してKの実家を出発し、Aの実家に立ち寄ってAを乗車させたが、Eの提案を受け、セントラルパークに遊びに行くことになった[56]。3人は23時30分ごろにBと出会い、KがBと話をしていたところ、Cの車に乗っていたCとDが通りかかり、KがDに対し、AとBを紹介した[56]。その後、6人はセントラルパークで車を走らせるなどして交遊していたが、その間AとDはシンナーを吸引していた[181]


  1. ^ a b c d e f 少年法第51条:罪を犯すとき十八歳に満たない者に対しては、死刑をもつて処断すべきときは、無期刑を科する。この規定を適用されて無期懲役刑が確定した事例は、1966年から2007年2月までの間で、最高裁が把握している限りではAの事例を含めて3例ある[38]。A以外に同条文が適用された主な判決には、混血少年連続殺人事件広域重要指定106号事件)の犯人(事件当時16歳)に対し千葉地裁松戸支部(浅野豊秀裁判長)が1971年9月9日に宣告した判決[39][40]金沢市夫婦強盗殺人事件の犯人(事件当時17歳)に対し金沢地裁(堀内満裁判長)が2006年12月18日に宣告した判決[41](2007年2月13日付で確定[42])がある[38]
  2. ^ a b c d e f g h 事件当時Kが住んでいた「政和荘」は、名古屋市港区辰巳町11番地26(座標)に所在していた[174](現在の辰巳町11番地26の1)[175]。犯行途中、Kは「政和荘」近くのパーキングに駐車して「政和荘」に戻っているが、その時に駐車したパーキングも港区辰巳町である[73]
  3. ^ 「市営汐止住宅」とする報道もある[116]。同住宅は、現在の市営みなと荘7棟駐車場付近に位置していた[117]
  4. ^ 1983年(昭和58年)10月に家賃滞納問題が発生したとする報道もある[84]
  5. ^ 事件発生時点で約5年間分の家賃が滞納されていた[122]
  6. ^ 10歳代の少年[122]
  7. ^ a b 『週刊文春』 (1988) はKの父親について、Kの同僚が「市バスの運転手」と述べていることを報じている[139]
  8. ^ 「死刑廃止の会」がまとめた死刑事件の被告人一覧(1991年7月10日時点)や、『年報・死刑廃止』の1996年・1997年版、および集刑 (1992) には、犯人Kの実の姓名(イニシャルは「K・S」)が掲載されている[128][129][130][131]。また『高等裁判所刑事裁判速報集』に収録された判決文にも、Kの姓(イニシャル「K」)が掲載されている[132]
  9. ^ その他の仮名表記は、『オール讀物』 (1989) では「富村久仁雄」[133]、『週刊新潮』では「藤原和彦」[134]真神博 (1990) では「島田芳夫」[135][96]、中尾幸司 (2004) では「石田滋」[112]、佐藤大介 (2021) では「中川政和」[136]
  10. ^ ただし、同年9月13日に名古屋家裁で審判不開始となった[54]
  11. ^ 小笠原和彦 (1988) によれば、Kにこの職場を紹介した人物はKの父親の知人である[148]
  12. ^ 中尾 (2004) によれば、侵入した先は友人宅である[150]
  13. ^ その前日(7月20日)付で名古屋家裁により、別件保護中との理由から不処分となっており、処分決定後も継続して勤務することが決まっていた[55]
  14. ^ 、『オール讀物』 (1989) では「古河克彦」[156]、『週刊新潮』では「犬丸公一」[134]、真神博 (1990) では「徳岡伸雄」[96]、中尾幸司 (2004) では「西山照久」[112]
  15. ^ Aの父親は近隣住民によれば暴力団関係者で、息子に対し「将来、ヤクザにでもなれ」と言っていたという[158]。息子Aが事件を起こした当時はトラック運転手として働いていたが、『週刊文春』の取材を受けた際、息子が逮捕されたことを聞いても動ずる様子もなく「勘当したから今は何をしているかまったく知らない」と述べている[139]
  16. ^ 多田はAの父親が酒浸りになる前、家業の不振に加え、彼の娘(Aの妹)が突然死するという不幸に見舞われていたことを述べている[159]
  17. ^ 『オール讀物』 (1989) では「田家哲介」[162]、真神博 (1990) では「高田伸一」[96]
  18. ^ 運輸会社就職後の1987年5月7日付で、名古屋家裁から保護観察処分に付されている[54]
  19. ^ 『オール讀物』 (1989) では「舟橋定弘」[133]、『週刊新潮』では「佐竹安雄」[134]、真神博 (1990) では「伊藤竜一」[96]、中尾幸司 (2004) では「菅原義夫」[163]
  20. ^ この事件については1984年1月19日、名古屋家裁で不処分になっている[56]
  21. ^ 『オール讀物』 (1989) では「倉山スミ子」[156]、『週刊新潮』では「横寺恵美」[134]、真神博 (1990) では「寺田理花」[96]、中尾幸司 (2004) では「寺前恵美」[164]
  22. ^ 『オール讀物』 (1989) では「大林明美」[166]、『週刊新潮』では「筒見英子」[134]、真神博 (1990) では「井上好子」[96]、中尾幸司 (2004) では「井田由紀」[167]
  23. ^ なお、鮎川潤 (1992) は『法廷での態度から判断するとF子〔=E〕は父親に対しては悪い感情は抱いてないようである」と述べている[168]
  24. ^ Cが犯行に用いたグロリア(C車両)は、名古屋市南区の山口組系暴力団組長が1986年11月に購入したものだったことが報じられている[172]
  25. ^ 金城埠頭は当時、夜間は人が少なく、公衆電話も埠頭内に計5か所しかなかった[185]
  26. ^ a b 2022年現在は19時閉門(翌7時開門)となっている[190]
  27. ^ 冒頭陳述によれば、この時にはAもYへの暴行に加わっていた[194]
  28. ^ 中尾幸司 (2004) は冒頭陳述書からの引用として、AはCがYを姦淫している間、その様子を見ながらYの口に自己の陰茎を含ませていた[195]
  29. ^ チェイサーに取り付けてあったもの[59]
  30. ^ この車の運転手は早朝トレーニングのため、大高緑地公園に来ていた[193]。2人はその人物に対し、「車を当てられたんだけど、証人になってもらえますか」と言っていた[59]
  31. ^ 「オートステーション」は、名四バイパス国道23号)沿いの海部郡弥富町中原ろの割(現:弥富市富島2丁目9番地)に所在していた(座標[203]。同所は現在、「出光(株)西日本宇佐美東海支店 2号名四弥富SS」が所在している[204]
  32. ^ KたちがCの上役にどう説明するかを相談していた際、Dは話の途中で「(朝食を)食べたから出る」と言って退店しており、次いでEも「眠いから」との理由で、途中から入店してきたBとともに退店している[206]
  33. ^ Kは第一審でBの公判に出廷した際も、同店における謀議は本気ではなかったことを証言している[205]
  34. ^ 「ホテルロペ39 ロペ39中部観光(有)」は、中村区城屋敷町1丁目15番地に所在しており(座標[214]、2021年時点でも同地で「ホテルロペ39」として営業している[215]
  35. ^ 喫茶店「まいか」[61]。名古屋市熱田区西野町一丁目32番地(座標)に「メゾン西野」があり[218]、同ビル1階に「喫茶まいか」が入居していた[219]
  36. ^ a b Kたちが犯跡隠滅のために利用した洗車場は、「コイン洗車大高」[207](名古屋市緑区大高町字丸ノ内:座標[220]。2022年現在は「(株)ピットストップモーターズ」が所在している[221]
  37. ^ 喫茶店「TOTO」[61]。名古屋市港区入場一丁目312番地に「ハイツ幹」(座標)が所在しており、同ビル1階に「コーヒーTOTO」[222](「喫茶とと」とも)が入居していた[223]
  38. ^ 同地点(熱田区一番1丁目21番18号)には、2022年時点で「ガスト 熱田一番店」がある[225][226]
  39. ^ 名古屋市中村区本陣通6丁目(座標)には1988年当時、「喫茶店ぴーく」があり、その西側には名古屋競輪場駐車場があった[236]。後者の駐車場は2022年現在、かつや名古屋本陣通店(本陣通6丁目35番地の1)に、「喫茶店ぴーく」の所在地は同店の駐車場になっている[237][238]
  40. ^ 判決文では「奥那須原」と表記されているが、三重県公式サイトでは「奥那須原」の表記と[239]、「奥那須原」の表記が混在している[240]。伊賀市上阿波奥那須ケ原地区の位置図:参考[240][241]
  41. ^ 名古屋地裁 (1989) 、名古屋高裁 (1996) の認定より[76][69]。検察官の冒頭陳述書では、KとAが立っていた位置が正反対(KはYの左側、Aは右側)になっている[247]
  42. ^ 冒頭陳述書によればこの際、Yがうつ伏せに倒れ、彼女の脈を診たBも「脈がない」と言ったが、Kは念のため、Xの両手を縛っていた洗濯用ロープで改めてYの首を絞めることにしている[248]
  43. ^ 当時の大高緑地 - 金城埠頭間の道路における主な経路は、国道23号・国道1号を経由するもので[78]、経路の総距離は約15 - 16 kmである[189]
  44. ^ Cは毎週木曜日の夜、実家に電話で近況報告することを習慣としていた[177]
  45. ^ a b 少年鑑別所では、留置された被疑者に附添人をつけることが認められている。通常は弁護士が附添人になるが、願い出れば保護者が附添人になることも可能である[262]
  46. ^ 法律扶助協会は、身寄りや金銭的余裕がない人物に弁護士などを斡旋する機関で、ここからの紹介でついた附添人は一般刑事事件における国選弁護人に相当する[262]
  47. ^ 中学校の英語の教科書[269]
  48. ^ 同日付で、5人は少年鑑別所を退所した[183]
  49. ^ 内訳は、無期懲役の仮釈放中に殺人を再犯した事例(3件)と、少年時代に殺人・死体遺棄・強姦致傷などの前歴を有するほか、住居侵入・準強盗未遂で懲役刑に処され、その刑期満了直後に殺人を犯した事例(1件:「事件一覧表」における整理番号12番)[281]。前者の主な例には、整理番号244番[280]豊中市2人殺害事件[282])がある。
  50. ^ 1件のみ。「事件一覧表」における整理番号:158番[283]富山・長野連続女性誘拐殺人事件[284])。
  51. ^ 全10件。例:「事件一覧表」における整理番号266番[283]本庄保険金殺人事件[285])、274番[283]長崎・佐賀連続保険金殺人事件[286])。
  52. ^ 例:「事件一覧表」における整理番号211番[287]飯塚事件[288])。
  53. ^ 「事件一覧表」における整理番号246番[287]池袋通り魔殺人事件[282])。
  54. ^ 例:「事件一覧表」における整理番号80番[287]市原両親殺害事件[290])。その他の事例には、生きたまま浴槽内に頭部を沈めて殺害した事案(整理番号111番)、知人を自己の加虐的暴力的嗜好の対象とし、数々の虐待を重ねてついに殺害した事案(同245番)がある[291]
  55. ^ その他の事例は、整理番号314番[293]いわき2人射殺事件[294])、同341番[293]秋田児童連続殺害事件[295])など。
  56. ^ 刑集 (1983) より[300]。『中日新聞』の報道では、同年1月の記事で「38件」[299]、同年6月の記事で「40件」(法務省などの調べ)となっている[301]
  57. ^ 後述の28件を上告棄却の年代別に見ると、昭和20年代が12件(前半5件・後半7件)、昭和30年代が11件(前半6件・後半5件)、昭和40年代前半が2件である[302]
  58. ^ 後述の28件のうち、昭和40年代後半、昭和50年代前半の各2件[302]
  59. ^ この9件のうち1件は、後に再審で元死刑囚の無罪が確定した財田川事件(1957年1月22日に最高裁で上告棄却判決)である[303]
  60. ^ 分離公判では、個別に被告人質問が行われた[315]
  61. ^ 当初は同年3月14日に開廷される予定だったが[356]、延期された。
  62. ^ 愛知県弁護士会所属[22]
  63. ^ 加藤は1995年秋、共犯者2人の証人尋問における供述を基に弁護団に対し、「犯罪心理鑑定書」を補充し、共犯者全員の鑑定もしくは証人尋問を求める意見を述べた[380]
  64. ^ 1996年3月末時点で[389]、名古屋拘置所に収監されていた死刑囚は、名張毒ぶどう酒事件の奥西勝[390]半田保険金殺人事件のIおよびH(旧姓T)[390][391]、日建土木事件の死刑囚N、勝田清孝、先妻家族3人殺害事件の死刑囚Mの計6人がいたが[392]、奥西以外は2012年以前にいずれも死刑を執行されており、奥西も2015年に八王子医療刑務所で病死している。また当時、最高裁上告中の死刑事件被告人が1人(富山・長野連続女性誘拐殺人事件女性死刑囚M)[393]、高裁控訴中の被告人1人がそれぞれ同拘置所に収監されていたが[129]、前者(1998年に死刑確定)は2022年時点でも存命である一方[394]、後者[同年7月2日に名古屋高裁(松本光雄裁判長)で控訴棄却判決、2001年に死刑確定]は死刑確定後の2003年に獄中死している[395]
  65. ^ a b 『朝日新聞』声の欄(1996年12月23日、および26日)にはそれぞれ、被害者の立場や結果の重大性などの観点から、控訴審判決を非難する投書が掲載されている[398]
  66. ^ このSに対する死刑求刑や死刑判決の宣告は、ともに少年事件としては本事件のKが受けて以来、約5年ぶりである[400][401]
  67. ^ これら2判決はいずれも第一審の無期懲役判決を不服とした検察官が控訴して死刑を求めていたが、いずれも棄却されたものである[408]。甲府信金OL誘拐殺人事件の判決理由で、東京高裁は「近年の死刑の適用傾向を見ると、殺害された者が1名の事案については、やや控えめな傾向がうかがえる」として「死刑には、躊躇を覚えざるを得ない」と結論づけていた[409][410]
  68. ^ 殺人事件で第一審判決を宣告された被告人の人数は、1996年が567人だった一方、2004年は795人で、この間の増加割合は約1.4倍である[416]。一方、第一審から上告審までのいずれかの審級で死刑判決を受けた被告人の人数は、1996年は8人だったが、「連続上告」がなされた1997年 - 1998年を境に急増し(1997年は9人、1998年は19人)、2004年は42人(1996年の5倍強)となっている[416]
  69. ^ 犯罪被害者等給付金支給法第8条1項[271]:「犯罪被害を原因として犯罪被害者又はその遺族が損害賠償を受けたときは、その価額の限度において、犯罪被害者等給付金を支給しない。」[450]の規定により、被害者遺族が給付金額を上回る損害賠償を受けた場合、給付金は支給されない[271]
  70. ^ 内訳は逸失利益・死亡慰謝料・近親者慰謝料・葬儀費で、Xの逸失利益は2,326万3,459円、Yの逸失利益は2,618万3,026円[451]。また、両者ともに死亡慰謝料は2,000万円、近親者慰謝料は500万円、葬儀費は100万円である[451]
  71. ^ 岡山刑務所の受刑者数は2015年末時点で585人であり、その約3分の1(約200人)が無期懲役囚である[462]。同刑務所では社会復帰に向けて受刑者を努力させるため、服役態度などによって受刑者を1 - 5類に分類し、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などを決めているが、「1類」の受刑者は約30人である[31]。Kは2022年時点で19年間、模範囚(規則違反なし)であり[463]、通常は30分程度まで認められている面会時間を60分まで延長されたり、独房内でヘッドフォンを用いてCDの音楽を聴いたり[464]、通常は21時までとなっている消灯時間を22時まで延長して作業を行ったりすることが許可されている[31]
  72. ^ 佐藤大介はKへの取材を通じて文通を重ね、2007年(平成19年)からは知人として面会を続けていた[461]
  73. ^ 無期懲役囚の仮釈放に当たっては、住居や仕事の確保が審査対象となっているため、家族や有事から見放された無期懲役囚にとっては負担が大きく、また収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある[470]。佐藤もある元刑務官の「40歳代以降に無期懲役になった受刑者は仮釈放されず、獄死するケースが多い。無期懲役は実質的に終身刑になっている」という声を取り上げている[470]。2005年(平成17年)から2014年(平成26年)までの間に仮釈放された無期懲役囚は54人である一方、その間に獄死した無期懲役囚はその3倍近くに当たる154人に達している[471]
  74. ^ これは2005年(平成17年)の改正刑法成立により、有期刑の上限が30年になったことに伴う措置である[472]。2014年に仮釈放された無期懲役囚は6人で、平均収容期間は31年4か月である[471]
  75. ^ 『朝日新聞』 (2002) によれば、その運用を指示した1998年6月の通達は「終身か、それに近い期間、服役すべき受刑者がいると考えられる」と明記した上で、指定事件については管轄の地検・高検が最高検と協議した上で、判決確定直後に刑務所側へ「安易に仮釈放を認めるべきではなく、仮釈放申請時は特に慎重に検討してほしい」「(将来)申請する際は、事前に必ず検察官の意見を求めてほしい」と文書で伝えた上で関連資料を保管し、刑務所や地方更生委員会から仮釈放について意見照会があった場合、そのような経緯や保管資料などを踏まえ、地検が意見書を作成するよう指示している[474]
  76. ^ 「作業報奨金」は2006年までは「作業賞与金」と呼ばれていた[479]。これは刑務作業の給与のことで、時給10円から数十円程度である[53]
  77. ^ 彼はこの手紙を書いた2010年当時、一・二審で死刑判決を受けて上告中だった[482]
  78. ^ Fは2007年3月以降、広島拘置所内で1日6時間の労務作業を行い、初めて得た1か月分の報奨金約900円を供養代として、初めてFに妻子を殺害された被害者遺族の男性に送金しているが、Fの関係者はFがそのような行動を取るようになった要因の1つとして、FがKと文通を始めたことを挙げている[485]
  79. ^ 1984年4月25日に横浜地裁川崎支部で宣告された判決[532]
  80. ^ 永山事件の審理で第一審:死刑→控訴審:無期(原判決破棄)→上告審:破棄差戻し→差戻控訴審:死刑(控訴棄却)と量刑が揺れ動いていたことや、日本では死刑存置論が優勢だった一方、西欧先進国では成人を含めて死刑廃止が大勢になっていたことなど[535]
  81. ^ a b 第三章 少年の刑事事件 > 第二節 手続
    第五十条(審理の方針) 少年に対する刑事事件の審理は、第九条の趣旨に従つて、これを行わなければならない。
  82. ^ a b 第二章 少年の保護事件 > 第三節 調査及び審判
    第八条(事件の調査) 家庭裁判所は、第六条第一項の通告又は前条第一項の報告により、審判に付すべき少年があると思料するときは、事件について調査しなければならない。検察官、司法警察員、警察官、都道府県知事又は児童相談所長から家庭裁判所の審判に付すべき少年事件の送致を受けたときも、同様とする。
    2 家庭裁判所は、家庭裁判所調査官に命じて、少年、保護者又は参考人の取調その他の必要な調査を行わせることができる。
    第九条(調査の方針) 前条の調査は、なるべく、少年、保護者又は関係人の行状、経歴、素質、環境等について、医学、心理学、教育学、社会学その他の専門的智識特に少年鑑別所の鑑別の結果を活用して、これを行うように努めなければならない。
  83. ^ 清水は1964年に検事任官され、1987年に東京地検刑事部副部長から名古屋地検公判部長に転出、1989年に札幌高検刑事部長へ転出するまで同職を務めた[544]。1995年に退職するまでに本事件の公判指揮のほか、千葉大チフス菌事件・ロッキード事件フライデー襲撃事件戸塚ヨットスクール事件あさま山荘事件埼玉愛犬家連続殺人事件など、様々な事件の捜査・公判を担当したが[544]、彼が関与した死刑の論告は本事件のみである[21]
  84. ^ 同規則2.2 (a) で「少年」 (juvenile) とは、「各国の法制度の下で犯罪のゆえに成人とは異なる仕方で扱われることのある児童 (child) もしくは青少年 (young person) 」と定義されている[549]
  85. ^ 同事件では暴力団員6人(20歳代の成人2人と、18歳および19歳の少年計4人)が、強盗や婦女暴行罪で起訴、家裁送致となっている[556]
  86. ^ 犯行動機は主に上納金などの金欲しさで、一夜に3組を襲撃したこともあった[556]。また、女性への乱暴は口封じの狙いもあった[556]
  87. ^ 最高裁は1992年の通達で、特別保存の対象を「全国的に社会の耳目を集めた事件」などと規定した[573]。2019年に東京地裁で重要な憲法解釈を含む訴訟記録の廃棄が判明したことを機に、名古屋家裁は2020年7月、最高裁の呼びかけに応じて運用要領を作成し、「主要日刊紙2紙以上に終局に関する記事が掲載された事件」などといった具体的な基準を策定した[573]
  88. ^ これらの事件のうち、木曽川・長良川連続リンチ殺人事件と西尾ストーカー殺人事件は名古屋地検に逆送致された事件である[573]






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