名古屋アベック殺人事件 大高緑地事件

名古屋アベック殺人事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/09 04:38 UTC 版)

大高緑地事件

犯行に至る経緯

金城埠頭事件後、6人はいったん栄に戻ったが、犯行で得られた金品が少なかったなどの理由から、新たな犯行に手を染めることとなった[187]。Bは翌日に鳶職の仕事を控えていたため、「終わりにしよう」と言ったが、それに対し直ちに賛同する者はいなかった[188]。一方でCが「もう2、3件やるか」、Dも「大高緑地なら居るかもね」などと言い、それ以外の者も彼らに賛同したため、大高緑地公園での犯行を決行することにした[187]。6人は同日4時ごろ、名古屋市中区丸の内三丁目のガソリンスタンドで、K車両とC車両にそれぞれ給油し、金城埠頭で奪った現金で代金を支払った[187]。K車両はKが運転し、助手席にE、後部座席にCが乗車した一方、C車両はCが運転し、助手席にD、後部座席にAがそれぞれ乗車した上で、K車両が先導する形でガソリンスタンドを出た[187]。そして名四国道共和ICまで)および国道1号を経由し[187]、4時30分ごろに大高緑地公園第一駐車場(名古屋市緑区鳴海町字鴻ノ巣53番地)へ到着した[57]

同駐車場北側の角(座標)には、本事件の被害者である男性X(当時19歳)と女性Y(当時20歳)の2人が乗車したトヨタ・チェイサーが駐車してあった[187]。同公園は事件前から、夜になると暴走族が集団で暴走するような場所になっており、死亡事故も発生していたため、1987年には公園内道路を夜間閉鎖する措置が取られていた[189]。しかし、国道1号沿いにあったこの第一駐車場は当時、夜間でも出入り自由で[注 26]、週末の夜はアベックの車が集まっていた一方、暴走族風の若者たちが出入りする姿も頻繁に目撃されていた[79]

同日4時ごろ、駐車場から約100 m離れたマンションの住人が、現場付近で男3人ほどの「この野郎」などと怒鳴り合う声や、女性の叫び声、鉄板を叩くような音など(約10分間ほど)を聞いていたが、この住人は「暴走族が公園の鉄柱でも叩きながら言い争っていたのだろう」と思い、そのまま寝ていた[79]。また、6時ごろに別の近隣住民が異様な物音に続き、現場で数人の男女が大声で言い争っているのを目撃しており、その際に男の1人が「俺はアベックは嫌いだ」と叫んでいるのを聞いている[78]

X・Yの2人を襲撃

殺害されたアベック (X・Y) がKら犯人グループ6人に襲撃された大高緑地公園第1駐車場。

チェイサーを見つけたCは、小便をするふりをしてチェイサーの様子を見に行き、そのエンジンがかかっている(人が乗車している)ことを確認した上で、その旨をKに知らせた[191]。6人はいったんもと来た道を戻り、駐車場の公園入口ロータリーで、それぞれの車のナンバープレートにガムテープで段ボール紙を貼り付けてナンバーを隠した上で、改めて話し合い、2台の車でチェイサーを逃げられないようにすることや、Aが最初に下車して実行行為を行うことなどを確認し合った[191]。そして彼らはそれぞれ再び車に乗り込んでチェイサーに近づき[191]、チェイサーの右後方と左後方に、それぞれC車両とK車両を停車させて退路を塞いだ[192]

その直後にAが木刀を持って下車し、チェイサーの運転席窓ガラスを叩きながら、運転席にいたXに対し「降りて来い」と怒鳴りつけた[192]。Xは逃げようとしてチェイサーを急に後退させたが、その際に2台のグロリアに衝突した[193]。冒頭陳述によれば、危険を察知したXはチェイサーを後退させたが、K車両に衝突して退路を阻まれ、いったん前進して再度後退することで避難しようとしても、Kがチェイサーの左前方にK車両を前進させ、チェイサーに覆い被せるように停車させることで行く手を阻んだため、チェイサーはC車両に衝突して停車した[191]。Xが下車すると、Aは木刀でXの頭頂部付近を1回、腕および腹部を5、6回殴りつけた[192]。これに続き、K・C・Eが下車し、それに前後してK車両内で仮眠していたBも目を覚まして下車した[192]。Kは鉄パイプを、Bたちもそれぞれ木刀を持っており[191]、Bはチェイサーの運転席付近や右前照灯を叩いたほか、Xを木刀で殴ったり、彼の左足を蹴ったりした[192]。Kは鉄パイプでXの足を、Cも木刀でXの腕や脇腹付近をそれぞれ殴り、Cはチェイサーの運転席窓ガラスを、Aもフロントガラスをそれぞれ破壊した[192]。K・B・C・EはXに対し、「よくも車を壊したな」「金はいくらある」などと因縁をつけており[194]、KはXから現金10,000円を奪った後、チェイサーの屋根に登って鉄パイプで車体を叩いた[192]

Yを輪姦

一方、Eは木刀でチェイサーの助手席窓ガラスを叩き、助手席にいたYに対し「降りろ」と怒鳴りつけた[192]。Dはシンナー入りビニール袋でYの頭を殴りながら「降りろ」と怒鳴りつけ、彼女の髪の毛を掴み、Eと共同で彼女を車外に引きずり出した[192]。冒頭陳述によればこの時、袋が破れてシンナーがYの頭にかかったため、Dはこれに憤慨してYに「シンナーがなくなった」などと因縁をつけている[194]。その上で2人は、木刀でYを多数回殴ったり[注 27][192]、ハイヒールを履いた足でYの体を足蹴にしたりといった暴行を加えた上で、Eが怯えきって無抵抗の状態だったYに対し「裸になれ」と言い、彼女を上半身裸にさせた[194]

暴行が始まってから約30分後の5時ごろ、CがAに対し、Yを輪姦することを持ちかけたところ、EもCに合わせて「やったれ、やったれ」とAをけしかけた[194]。AとCは、抗拒不能状態になっていたYを第一駐車場から北方約50 mにある丘陵地まで連行し、CとAの順にYを相次いで姦淫した[192]。先にCがYを強姦している間、AはYに対し「屈辱的なわいせつ行為」におよんでおり[注 28][196]、Cが姦淫を終えると、次いでAがCの目の前でYを強姦した[194]。当時、現場は気温4 だった[135]。またその際、同所にBがやって来ると、AとCはそれぞれ同様にYを強姦するよう誘い、それに乗ったBもYを強姦した[192]

一方、KはチェイサーからYの所有していた現金11,000円やワイドミラー1個[注 29](時価1,000円相当)を、EもYの櫛1個(時価300円相当)や現金533円、ファッションリングおよびブローチ、ペンダント付きネックレス(それぞれ時価1,000円相当)などを奪った[192]。また、DとEはそれぞれ自身のハイヒールでXの頭を殴ったり、木刀でXの腕や左側頭部を殴ったりといった暴行を加えたほか、チェイサーから現金150円やぬいぐるみ2個(時価合計1,000円相当)などを奪い[192]、C車両の後部座席に移した[59]。そのころ、丘陵地から戻ってきたCが木刀でチェイサーの車体右側を叩き、右後部三角窓ガラスを破壊したほか、Xの顔面を拳で5、6回殴りつけている[192]。それに前後してAも駐車場に戻り、DはAから受け取った木刀で、Xの左腕や側頭部を数十回殴打した[197]

やがて、Yは上半身裸の状態で丘陵地から第一駐車場まで連れ戻された[192]。DとEはYを全裸にし、Kも「やきを入れたれ」と他の者たちをけしかけた[192]。DとEはそれぞれ、たばこの火をYの胸や背中、肩付近に押し付け、Aもそれに加わってたばこの火をYの胸に1回押し付けたほか、右足を押し広げて陰部にシンナーを注ぎかけた[192]。冒頭陳述によればこの時、彼らはYに対し「熱いか、熱いか」と言っていたほか、Yが泣きながら「熱い、やめて」と哀願すると、Eが「馬鹿野郎、ぶりっこするんじゃない」と言いながら背中にたばこの火を押し付けたり、AとEがライターの火でYの髪の毛を焼いたりしていた[197]。また、この間、EがYの髪の毛を掴んで引っ張り仰向けに倒したり、DとEがハイヒールを履いた足で腕を踏みつけたり、A・B・D・Eの4人で殴ったり足蹴にするなどの暴行が加えられていた[198]。なお、この間にKはXから自動車運転免許証1通を奪い取っている[192]

被害者2人を拉致

一連の暴行により、Xは加療2週間ないし3週間の怪我(頭部挫創・左上肢打撲)を、Yも加療約1週間の怪我(背部・胸部への第2度火傷)を負っており[192]、放心状態になっていた[199]。一連の暴行について、名古屋地裁 (1989) は「見境なく被害者らの身体及び自動車を殴打し、…(中略)…、その暴行の程度は〔X〕及び〔Y〕に対して被告人ら自身やり過ぎたと自覚するほど強烈であった」と[196]、名古屋高裁 (1996) も「六名が集団の力を暴発させながら、抵抗力に乏しい若い男女を執拗に狙い、痛めつけ、被害車両を叩き壊し、……」「激しい暴行を加え……」とそれぞれ認定しているが[200]、加藤幸雄 (2003) は大高緑地での暴行が約2時間におよんでおり、被害車両(チェイサー)が著しく破壊されていた一方、被害者2人の怪我は自力歩行できる程度には軽かった(仮に用意した凶器で本気で殴っていれば、その時点で生命に危険がおよんでいた)点から、Kたちは2時間以上ずっと暴行や陵辱を加え続けていたのではなく、ある程度手加減をしていた可能性を指摘している[201]

一方で6時過ぎごろ、現場駐車場に第三者の車が入ってきたため、KとCは犯行を目撃されたかどうか探りを入れようとその車に近づき、車の運転手に対し事故によるトラブルを装って証人になることを頼んだが[注 30]、拒否されたため、目撃されてはいないと察知し[60]、犯行現場に戻った[59]。しかし夜明けが迫り、公園には散歩などで人が現れる時刻になっていたため、Kらは駐車場から逃げることを決めた[60]。Cは「警察に行かれると困る」との理由から2人を連行することを提案し、6人はXをC車両の後部座席に、YをK車両の後部座席にそれぞれ乗車させた[59]。なお、チェイサーと衝突した際にC車両の右前フェンダーがタイヤに食い込んでいたため、AとBは木刀の破片や鉄パイプを使ってそれを治している[59]

同日6時ごろ、C車両はCが運転し、助手席にA、後部座席にDが乗車した一方、K車両はKが運転し、助手席にE、後部座席にBが乗車し、それぞれ現場を離れた[199]。後述の「オートステーション」に到着する前、一行はまず名古屋市港区の空き地でいったん停車し、K・A・Cの3人がそれぞれ下車して話し合った(この話し合いにBが加わっていたかは不明である)[60]。KはC車両の弁償問題を切り出したほか、AやCに「やりすぎて、まずい。どうする」「男は殺して、女は売るか」などと、虚勢交じりに後始末の話をしたが、雨が降り出したため、「オートステーション」で話の続きをすることにして同所を発進した[60]。加藤は一連の共犯者たち(特にKとC)の行動について、犯行の発覚以上にむしろCの「組」の兄貴分の車を破損してしまったことの後始末の方を強く心配しており、「とにかくここを離れよう」という心理から、大破した被害車両(チェイサー)を現場に残したまま立ち去ったと述べている[202]

「オートステーション」における会話

同日7時30分ごろ、6人は愛知県海部郡弥富町のドライブインに到着した[199]。同店は、食堂喫茶「オートステーション」(愛知県海部郡弥富町字ロノ割10番地:座標[注 31]である[192]。6人はそこで、YをK車両からC車両の後部座席に乗り換えさせ[199]、Aが同店駐車場で2人を見張ることになった[60]。まずK・C・D・Eの4人が入店した一方、Bは当初「眠い」と言ってK車両に残っていた[60]。Bはそのまま仮眠しようとしていたが[205]、まもなく4人に続いて入店し[60]、4人と同じテーブルについた[205]

入店した5人はコーヒー、アイスティー、サンドイッチなどを飲食しつつ、今後の行動について話し合った[199]。その話し合いは約20分ないし30分間におよんでいたが、主にKとCが話し合い、ほか3人 (B・D・E) は適当に相槌を打つような状態だった[60]

前半では、Kが「やるしかない。怪我もひどいから、男はやっちゃう(「殺す」の意)。女は売る」と言った際、Dが「まじ?本当にやるの」と尋ねたのに対し、Cが「冗談でこんなこと言えるわけない」と怒るように答えた[60]。次いで、Kが「女についても、売れなかったら殺す」と言い、殺害方法についてCが刃物で刺すことを提案すると、Kは「血が出て気持ちが悪いから、首を絞めればいい」と答えた上で、死体の処理については墓地に埋めるという話をした[60]。この話題の時、BはKから意見を求められたが、終始うなずいてそれに賛同したほか、死体の処理方法について話し合った際にはコンクリート詰めにして海中に投棄することを提案した[205]

その後は犯行時に破損したC車両について、車を貸してくれた上役の暴力団幹部にどう説明するかの話題になり、Cが一応、酔っぱらい運転の車に当て逃げされたという言い訳をすることになった[60]。同日8時過ぎごろ、5人は同店を退店したが、Kはその際、C車両から降りてきたAに対し、2人を殺すことに決まった旨を告げ、Aもこれを了承する返事をした[193]。ただし、Aは当時は冗談だと思って軽返事をしており、「すかいらーく」での謀議で「弘道会の墓の前で殺す」という話を聞いて本当だと思ったという旨を述べている[193]

同店従業員の女性は、当時の5人の様子について、いったん店外に出て戻ってきたり[注 32]、電話をかけたり、トイレに行く者などがいて落ち着きがなく、シンナー臭もしており、Bがうつむき加減で青白い顔をしていたが、それ以外は概ね陽気で、自身に対し軽口を叩くなどしていたと証言している[138]。また、Kは第一審から控訴審まで一貫して「店内での殺人に関する会話は本気ではなく、言葉だけのものだった」という旨の証言・供述をしていた[注 33][138]

Cは第一審では「謀議をした時点では全員本気だった」と供述した一方[205]、「(その後)できれば(殺さない)まま終わらせたい、かかわりたくない、という気になった」とも証言しており、控訴審では「店内での雰囲気は、物騒な話をしているということで、笑いは出なかったが、自分としては、本気でやるつもりはなかったので、Kを含め、ゲーム感覚で強がった言葉のやりとりをしていただけと思う」という旨を証言している[207]。Dは「Cの『(このようなことは)冗談では言えん』という言葉は、他の者にも聞こえていたはずだ」、Eは「当初は冗談だと思っていたが、話が深刻になってきたので本気で話し合っているのだと思った」という旨を、それぞれ第一審の公判で証言しているが[205]、Eは控訴審で「同所で殺す話がまとまったとは思っていない」とも証言している[28]。また、名古屋高裁 (1996) はDについて、被害者2人を放置して知人のもとに逃亡しようとしていたことが窺える旨を判示している[138]。加藤は、互いに信頼できるほど親しくない集団が問題解決の見通しを立てられないまま、相手の腹を探るため、犯行の興奮を引きずった状態で虚勢を張りながら「殺す」などの言葉を口にし、それが最終的に殺害につながったという仮説を立てている[208]

また溝渕啓修ら (1989) は、Kが名古屋少年鑑別所で書いた作文の中にあった以下の一文を取り上げ、犯人らは互いに共犯者たちからの評価を多分に意識して見栄を張ったり、根性試しをし合ったりするような形で犯行に関与していたと指摘している。

「みんな口では『殺そう』と話していたけど本当はだれかが『やめよう』と言い出さないかと思っていました。でも私は一番初めに『やめよう』というのが嫌で言い出せませんでした」 — 主犯K、溝渕啓修, 小板清文, 鬼頭修, 関崎勉 (1989) [182]

殺害の共謀が成立したか否かに対する判断

刑事裁判では、「オートステーション」における犯人たちの話し合いで被害者2人を殺害し、その死体を遺棄する犯行の謀議が成立したか否か、そしてBがその謀議に加わっていたかが争点となった。第一審の名古屋地裁 (1989) では同所で殺害などの謀議が成立したこと、およびBもX殺害の共謀共同正犯であることがそれぞれ認定されたが[207]、確定判決となった控訴審の名古屋高裁 (1996) ではそれらの認定がいずれも否定され、同所ではまだ殺害などの謀議は成立していなかったこと、そしてBはX殺害に関しては無罪であることなどが認定された[61]。後者では、BがY殺害および被害者2人の死体遺棄の共謀に加担したのは、X殺害後の「カフェ・ド・ピーク」近くでの謀議(後述)によるものであることが認定されている[61]

第一審における認定

名古屋地裁 (1989) は、捜査段階におけるKやBたちの警察官調書を基に、A以外の5人が「オートステーション」店内で話し合った際、Kが大高緑地での犯行の発覚を免れるためにXを殺害し、Yも他に売り飛ばせなかった場合は同様に殺害した上で、2人の死体を土に埋めて遺棄することを提案したところ、Cが積極的に賛成したのに続き、B・D・Eも同様に賛成し、駐車場でそれを聞かされたAも賛同したことで、6人による被害者2人殺害の謀議が成立した旨を認定しており[192]、Kの第一審弁護人もその点については争わなかった[209]

一方でBの弁護人は、Bはそれ以前に吸引したシンナーの影響で朦朧としており、同店での会話には参加していないことや、X殺害について他の被告人と共謀した事実もないことから、BはX殺害については無罪である(共謀・実行とも加担していない)という旨を主張した[28]。しかし、名古屋地裁 (1989) はそれらの主張を排斥した。

Bの弁護人の主張と、それに対する名古屋地裁 (1989) の判断
Bの弁護人の主張 名古屋地裁 (1989) の判断
主張・認定 BはX殺害には関与していない。 (認定事実)「オートステーション」で2人殺害などの謀議が成立しており、Bもその謀議に加わっていた[207]
BはKらがXを殺害する前にKたちのグループから離脱しており(後述)、自らはX殺害の実行行為には着手していないが、Kらに対し犯行から離脱することまでは表明していない[207]
謀議が本気か否か 「オートステーション」における謀議は本気でなされたものではない[205]
B自身の主張 - 「オートステーション」で会話していた当時、自分はシンナーの影響で朦朧としていた。「死体をコンクリート詰めにして海に沈めよう」と提案したのは、「カフェ・ド・ピーク」駐車場で、KにXの死体を見せられ、死体を三重県の山林に遺棄することを決めた時(後述)である[210]
以下の点を挙げ、同店における会話内容について「被告人らの真意に基づきなされたもので冗談話でないことは明らかである。」と認定した[205]
  1. 話し合いに同席していたK・C・D・Eの4人による証言内容や、唯一店外(K車両内)で2人を見張っていたAに対し、Kが店外に出た直後に「弘道会の墓で首を絞めて殺して、埋めよう」と、殺害・遺棄方法について具体的な提案をした点
  2. KがCとの会話で「(刺殺は)血が出て汚い」と発言するなど、賛同できない提案に対しては明確に反対の意思を表示していた点

また、Bの主張は他の証拠と一致しない点が多く見られ、B自身の司法警察員検察官に対する供述調書とも一致しない部分が認められるとして、その信用性を否定。一方で検面調書は、内容が他の証拠と合致しており、具体的・迫真性に富んでいることなどから、信用性を認定した[210]

Kらが犯行後、顔を隠していなかったこと B・C以外の4人 (K・A・D・E) が「ホテルロペ」に被害者2人を連行した(後述)際、彼ら6人の顔が従業員に目撃されており、その後も被告人らは立ち寄り先で従業員らに顔を見られている。その間、Kら4人は立ち寄り先で自分たちや、X・Yの顔を見られないための手段を講じておらず、それらの行動は既に2人の殺害を決め込んでいる者の行動としては不自然である[207] 4人は当時、被害者2人を殺害し、その死体を発見されないように遺棄すれば、大高緑地における犯行が警察に露見することはなく、警察が動きさえしなければ立ち寄り先の従業員らから自分たちに関する情報が伝わることもないと信じていたことが窺えることを指摘し、顔を隠していなかったことは殺害・死体遺棄の共謀成立を否定する要素にはならないと判示した[207]
Kの行動 KはXに対し、車の修理代を支払う誓約書を書かせている(後述)。殺害を予定している相手に将来金員の支払いを誓約させるのは矛盾であるから、Kのこの行動は、「オートステーション」の時点ではまだ殺害の共謀が成立していなかったことの証左である[207] 以下の認定から、誓約書を作成した事実は事実認定に合理的疑いを生じさせる事由とはならないとして、主張を排斥した[207]
  1. 6人が被害者2人を大高緑地から連れ去ったのは、同署における強盗致傷・強盗強姦の犯行が警察に発覚することを免れるためであること。
  2. 誓約書作成時点では、まだ警察への発覚を防止する手立てがついておらず、Kも検察官に対し「2人を安心させ、逃亡を阻止するためだった」と供述していること。
「すかいらーく」における行動 以下のKの行動は、この時点まで被告人らは被害者2人を殺害する意思を有しておらず、共謀はまだ成立していなかったことの証左である[207]
  1. K一行は「すかいらーく」でYを1人にし、彼女に逃走の機会を与えていた。
  2. Kは同所でXに「もう帰したる」と申し向け、いったん彼ら2人を解放している。

以下の「各事実によっても、被告人間において既に右両名殺害に関する共謀が成立していたとの認定は覆るものでなく」として、Bの弁護人による主張を排斥した[207]

  1. について - 「同女 (Y) が〔X〕を残したまま逃走することはありえないと考えたからであるのが認めるのが相当」と判示した[207]
  2. について - 当時は大高緑地での犯行が警察に発覚しないための手立てが立っていなかったことを指摘し、「同店内において被告人〔K〕と同〔C〕が右両名の殺害方法についてさらに話合っていたところ、そこへ〔X〕が通りかかって『帰って良いか。』と尋ねたため、とっさに被告人〔K〕がそのように言ったものと認められる」とした上で、その直後に2人を連れ戻したことを挙げた。
控訴審における認定

しかし控訴審でK側は、共犯者たちの間に2人を殺すことに関する会話があったことは事実であるが、それは虚勢に駆られた単なる格好つけの、全く現実感の伴わない会話に過ぎず、その場で2人の殺害を決意していたものはいなかったため、同店ではまだ2人を殺害することなどに関する共謀は成立していなかったことを主張した[209]。B側も同様に、同店ではまだ2人殺害の謀議は成立しておらず、謀議が成立したのは後にB不在の「すかいらーく」で成立したものである(後述)ことや、仮に同店でX殺害の共謀をした者がいたとしても、Bには当初からXを殺害する意思があったわけではなく、現にX殺害の現場にもいなかったため、BはX殺害については無罪と主張した[209]

名古屋高裁 (1996) は以下の諸事情を考慮し、被害者2人殺害などの共謀が成立した時期や場所、共犯者の範囲に関する(=犯人6人が「オートステーション」で被害者2人を殺害する旨で共謀したとする)原判決の認定に「いまだ、合理的疑いが残るものといわざるを得ない。」として、弁護側の論旨を認めて原判決を破棄自判した[61]

両被告人側の主張と、それに対する名古屋高裁 (1996) の判断
被告人側の主張 名古屋高裁 (1996) の判断
被害者2人を大高緑地公園から拉致した理由 2人を連行した理由はもっぱら破損したグロリア2台(K車両・C車両)の弁償問題の処理を図るためで、犯行の発覚を阻止するためではないと主張。また、大高緑地事件はそれ以前の金城埠頭事件で行われた2回の「バッカン」とは様相が異なり、被告人らの多くが「やりすぎた」という感想を持つほどエスカレートした原因は、6人に襲われたXが逃げようとしてチェイサーを急に後退させ、グロリア2台と衝突して破損させたため、暴力団幹部の車を壊されたCや、購入したばかりの自車を壊されたKがそれぞれ被害感情を募らせて激昂し、ほか4人もそれに同調したためであると主張した上で、それを根拠に「拉致の目的が、右車両の弁償問題の解決にあったことは明らかである」と主張した[193] 以下の要素から両被告人側の主張を排斥し、「Kは主として、犯行発覚を免れる目的で2人を拉致したことは明らか」と認定した[193]
  1. 6人は事件の悪質かつ重大性を認識していたのであるから、その発覚を恐れる気持ちがなかったとはいえないこと
  2. KとCが犯行目撃の有無を確かめている(前述)こと
  3. 現場に放置されたチェイサーを端緒にX・Yの両被害者が何らかの被害に巻き込まれたものとして、捜査が開始されることは必死の状況にあったと言えるが、より以上に、2人を現場に置き去りにすれば、彼らの供述から6人の人相・着衣・使用車両などが判明し、早期に検挙される危険性が高まること
「オートステーション」における会話 所論で右記のような事項を挙げ、原判決の認定とは異なり、「オートステーション」でA以外の5人が会話した時点ではまだ殺害の共謀は成立していなかった旨を主張した。 「オートステーション」には従業員がいたり、他の客が出入りしていたほか、入店した5人はまとまりのない行動をしており、全員同席で話をしていたのも短時間であるため、殺人の共謀ができるような場所的雰囲気・時間的余裕はなかった。また、犯人グループは人間関係が希薄であった(特にKとC・D両名は出会ったばかりで、互いに交友関係が浅く、互いの性格などを知らなかった)ことから「弱みを見せたくない」という強気の論理に支配され、互いに虚勢を張り合ったことによって真意ではない発言が出るようになり、同店でもそのような虚勢を張り合うような会話が交わされたのであって、同店における「殺す」という発言は本気ではない[138] 前述の共犯者らや従業員らの証言を踏まえた上で、犯人たちがいずれも暴力団に所属していたり、暴力団組員との交遊歴があったりしたことを挙げ、6人には「深く根づいたものとまではいえないが、強気の、虚勢を張り合う、暴力団的思考・行動に親しみ易い性格を有していたことがうかがえる。」と指摘した[138]
その上で、K・A・Eの3人は同じアパートに同居しており、Bともそれなりに交流はあったが、明確な上下関係は窺えなかったという旨や、C・Dとは出会ったばかりで面識が薄かったという旨を判示し、6人について「Kの指揮・命令下に動く統制のとれた組織的集団とはまったく異なる、本件の際にたまたま行動を共にしたグループ」と位置づけた上で、弁護人の主張する「虚勢の張り合い」があったことを認めた[138]
その例として、大高緑地での襲撃の興奮を引きずるがまま、格好をつけて同店で2人を刺殺することを提案したCが、「ホテルロペ」でKと別れて以降はKからの連絡を意識的に避けていた点を挙げ、〔Cは〕「〔X・Y〕問題の決着を先送りにし続けたことが明らか」と認めた上で、「大高事件の発覚を恐れる気持ちはあっても、Cの真意としては、自ら、殺人等まで実行する気がなかったことをうかがわせるものである。」と認定した。また、A・B・D・Eの4人についても、Kが2人を殺害することを提案した際に話を合わせ、相槌を打ち、うなずくなどの賛意を表しつつも「各自が、殺人等の重大性を現実のものとして意識していたかの点は、判然としていない」と判示した[138]
一方、Kが逮捕直後の取り調べに対し、大高緑地事件の早い段階から警察に捕まることを恐れ、被害者2人の殺害を考え始めた形跡や、それが「オートステーション」での提案で顕在化したことも認めた[138]。その論拠として、同所で提案された「Yを売り飛ばす」という案が実現すれば、売られたYの口から犯行が発覚する可能性が高まる(「発覚を免れるため」2人を殺す謀議をしたという動機と矛盾する)ことや、現に大高緑地での犯行に続き、負傷した被害者2人を拉致した上で、店外でAに彼らを見張らせた上で話し合いを行っていたこと、そしてD・Eの「最終的には、本気のように受け取った」という証言を挙げ、Kについては〔2人の殺害に関する提案は〕「その真意に基づくもの」で、共犯者らも「〔K〕の意図を察知しながら、表面的には、そろって賛同の意を表した」と認めた[211]
「オートステーション」店内での話し合いでは、殺人の共謀共同正犯の成否に重要な本質的事項(2人を殺害する具体的時期・場所・実行行為の役割分担)がまったく決まっていなかった。これは、同店ではまだ2人殺害の共謀が成立していなかったことを推認させるものである[64] 5人の店内での話し合いの内容を踏まえ、以下の事実を指摘し、2人殺害などの共謀が「オートステーション」で成立したという原判決の認定に疑念を示した[64]
  1. 「売れなかったら」という条件付きのY殺害はともかく、この時点で無条件に殺害を提案されていたXについても、「いつ、どこで、誰が実行するか」という具体的なことがまったく決められていなかった[64]
  2. その後の事態の推移(特に6人の中でも、K以外ではもっとも頼りになったであろうB・Cの両名が相次いで集団から別れていった際、それぞれ連絡時間を決めただけで、殺害の計画をどう実行するかはB不在の場で、Bには何の連絡もしないまま、「すかいらーく」でCと謀議した末、KがAと2人でX殺害を実行したこと)[64]
Kらの「オートステーション」出発後の行動について 右記のように、原判決が認定したように「オートステーション」で殺害の共謀が成立したと仮定すれば不自然に映る行動があることを指摘した。 Kらは「オートステーション」出発後、負傷している被害者2人を人目のつく場所(ホテルや喫茶店など)に出入りさせ、グロリアに乗せて走り回るなどしており、そのような行動は、犯跡隠蔽のために2人の殺害を決意した者の行動としては不可解である。むしろ、この事実は「オートステーション」ではまだ殺害の共謀が成立していなかったことを推認させるものである[64] 外見上受傷が明らかだったのはXの頭部からの出血のみであり、Kらが「2人を人目にさらしても、直ちに、第三者に犯罪がらみの不審の念を与える」とまでは考えていなかった形跡(後述の「ホテルロペ」の従業員の反応も参照)や、マスコミ報道に注意を払うことはなく、警察の捜査が自分たちにおよんでくることはないとたかをくくっていた節があることを指摘し、それらの無頓着な行動は「原認定を妨げるものとまではいえない。」として、論旨を退けた[64]
Kは23日夜、洗車場でXに車の修理代を払う旨の誓約書を書かせている(後述)が、これはXの殺害を予定しているとすれば矛盾である。 Aの「内容は見ていないが、KがXに何かを書かせていたので『帰すのか』と尋ねたところ、Kはニヤッと笑って『ばか、帰すわけないだろう』と言った」という証言や、Kの捜査段階における「誓約書を書かせて『いずれ帰してやる』と言っておけば、逃げ出すことはないだろうと思った」「後で使い道があるかも知れないと思った」という供述を踏まえ、論旨を退けた[64]
Kが「すかいらーく」でYを1人で行動させたり、Cと話し合った上で、結果的には短い時間ではあったが被害者2人をいったん解放していることは、少なくともこの時点までは2人の殺害を確定的に決意していたわけではなく、むしろ解放の方便を探りながら行動していたことを推測させるものである[64] この件に関するKの第一審・控訴審における供述(第一審での証言を含む)が、A・C両名の証言と符合することなどから、K・Cが2人を真意に基づいて解放したことを認め、原判決の「その後直ちに被害者両名を連れ戻しているので、オートステーションにおける共謀成立の認定は覆るものではない」という認定について、合理的な疑いを入れる余地があることを指摘した[212]
Kは「オートステーション」出発後、Cには23日夕方から執拗に連絡を取ろうとしていた一方、Bには翌24日10時ごろまでなんの連絡もしていなかった。これは6人(特にKとCの間)で、破損したグロリア2台の弁償問題の処理が決着を要する課題であったことを示している[61]
Kらが何度もCと連絡を取ろうとしたり現に取ったりしていたことを認めた一方、電話では十分な話し合いができなかったことから「すかいらーく」にCを呼び出した上で、被害者2人の処置に関する決断を迫ったことや、既に組幹部への虚偽の弁解が通ったことでC車両の問題は解決していたにもかかわらず、Cはそのことを知らせなかった上、Kも尋ねなかったことを挙げ、所論を「採用できない」と退けた[61]
しかし、先述のように「すかいらーく」で2人の処置を話し合い、一時的に解放しているなどの経緯に鑑み、「〔K〕の〔C〕に対する連絡の目的が、オートステーションで成立した〔X〕・〔Y〕殺害等の共謀を具体的に実行に移すためであったと断定することもできない。」と指摘している[61]
Bは「オートステーション」を出た後、「コーポうちふじ」付近まで送ってもらった際にKから「明日10時に連絡する」と約束したが、その後はKたちと再合流するまで薗田組本家に顔を出したり、組事務所に泊めてもらったりしていた。これは「オートステーション」で、Kを含めた犯人6人の間で被害者2人殺害の共謀が成立したとする原認定とはあまりにもそぐわない行動である[61] 原認定を前提にすれば、23日朝に集団からいったん別れたB・Cを同日夕方から呼び出し、6人全員で揃って2人殺害に着手する具体的な詰めをすることになるはずが、以下のようにその前提とは矛盾するか整合しない「強い疑問点」が見られることを指摘した[61]。その上で、Bが共謀共同正犯として被害者2人の殺害に加担したと断定できる共謀成立後の情況事実が欠落していることを判示した[69]
  1. Bは1988年1月以降、薗田組の会長付き親衛隊員になっていたが、22日夜から24日昼間ではフリーの身で、Kらと行動をともにすることが十分可能だったにもかかわらず、「オートステーション」から帰る際に「眠い」という単純な理由から離脱している(後述[61]
  2. BはKと別れる際、約26時間後の翌日10時に連絡することを告げたのみで、約束の時間に電話を掛けるまでの間、BにX殺害に関する連絡を取ったり、車でB宅に行って呼び出そうとしたりといった動きは認められない[61]
  3. 24日10時ごろのKからの電話で、同日22時ごろにBを迎えに行く約束は交わされたが、その際にBに対し、既に実行済みのX殺害の事実が伝えられたとまでは認定できない[61]
  4. 同日22時過ぎごろ、Bは「カフェ・ド・ピーク」西側の駐車場で、迎えに来たKからX殺害を知らされて驚きを示し、グロリア(K車両)のトランクに積まれていたXの死体を確認した[61]

ホテルで休憩

「オートステーション」退店後、6人はYを再びK車両に乗せ換えさせ、2台の車両に分乗して移動した[213]。ただしBは「眠い」という理由から、車で居室近くまで送ってもらっており、KもBに対し同行を求めることはなかった[61]。Kは「コーポうちふじ」付近のスーパー(名古屋市中村区本陣通)でBを下車させた際、24日10時に連絡することを約束し[61][213]、Bは居室に戻った[61]

Kらが犯行の合間に被害者2人を連れて立ち寄った「ホテルロペ39」(愛知県名古屋市中村区城屋敷町)。

残る5人は引き続き2人を連行し、9時40分ごろに「ホテルロペ」(名古屋市中村区城屋敷座標[注 34]に到着した[213]。この時、Cは高山組舎弟頭補にC車両を壊したことを報告する必要があったことなどから、自身のポケットベルの番号をEに教えた上で、K・A・D・Eの4人といったん別れた[213]。Cはその後、自身の居宅アパート(「南汐止荘」)に戻り、前述の舎弟頭補にC車両の破損について嘘の報告をした上で、その代わりとして白いトヨタ・クラウンを借り、再び出掛けた[62]

一方、残る4人はXとYを連れてホテルに入り、同日17時ごろまで過ごした[213]。「ホテルロペ」の従業員は、怪我をしていた被害者2人の様子を見て不審を抱いたが、直ちに警察に通報しようとはしなかった[64]。一方、ホテル関係者はグループに疲れ切った様子のカップルが含まれていたり、車(Cのクラウン)が出入りしたりしていたことから不審に思い、残ったグロリア(K車両)のナンバーをメモしていた[216]。本事件の捜査開始後、同ホテルの従業員が捜査本部に通報し[29][81]、メモしてあったグロリアのナンバーが犯人グループ特定のきっかけとなった[216]。XとYはA・Dの両名が205号室で見張っていた一方、KとEは彼らとは別の203号室で過ごしていた[213]。また冒頭陳述書によれば、Aはこの間に再びYを強姦したとされていたが[213]、名古屋地裁 (1989) はその事実を「認められない」と認定している[114]。Kはこの間、Yを売り飛ばす先の有無を調べるため、客室から2回にわたり、暴力団の知人に電話で打診していたが[138]、肯定的回答を得られなかった[60]。また、16時ごろからはCのポケットベルに発信しているが[217]、この時は連絡を取れなかった[213]

同日17時ごろ、KはK車両(以下「グロリア」)を運転し、助手席にE、後部座席にAとDを乗せ、彼らの間にXとYの2人を挟んで押し込めた形でホテルを出発した[213]。ホテルの料金(1部屋で各10,000円、計20,000円)は当初、XとYから強取した現金の中から支払ったが、205号室の不足料金2,360円はDが支払っている[213]。4人は18時ごろ、名古屋市熱田区西野町1丁目の喫茶店[注 35]に着き、K・Aがポケットベルを所持していたCと連絡を取ったものの、Cは高山組幹部を名古屋空港で出迎える用事があったため、20時ごろに再度電話することになった[63]。その後、4人は緑区大高町の洗車場[注 36]に行き、KとEが犯跡を隠滅するため、グロリアを洗車したが、Kは洗車を終えた際にX・Yの2人に対し「お前らは、いずれ帰したる」と言っていた[63]。また、同所でXに車の修理代を支払う旨の誓約書を書かせている[207]

同日20時ごろ、4人は港区入場一丁目の喫茶店[注 37]に入り、Dが同店の電話を借りて高山組に連絡しようとしたが、連絡は取れなかった[63]。21時30分ごろに同店を退店し、23時ごろに港区宝神一丁目の食品店で、Dが港区稲永四丁目のCの知人宅にいたCと連絡を取ることに成功、Cはクラウンを運転して同店まで来た[63]。この時、Kは同店付近のガード下で、Cに対し「どうする?もうこれ以上(X・Yを)連れて歩けん。やるんだったら今日やろう。いつやる?」と迫ったが、Cの都合がつかなかったため、翌24日2時ごろに後述の「すかいらーく」で会う約束をして別れた[64]。この時、DもCのクラウンに同乗し、Cとともに帰った[63]

殺害の謀議

殺害の謀議が成立した「ガスト 熱田一番店」(旧:すかいらーく 熱田一番店)。

確定判決である名古屋高裁 (1996) によれば、殺害の謀議が成立した場所は「すかいらーく熱田一番店」である[69]。同店は、名古屋市熱田区一番一丁目21番(座標[224][注 38]に所在していたファミリーレストランである。

K・A・Eの3人は、X・Yをグロリアに乗せ、いったんドライブインで時間を潰したが[63]、Kはこの時間潰しの間、XやYに対し「Cが来たら話し合って帰す」という旨を話していた[212]。その後、4人は2月24日1時40分ごろに同店の駐車場へ到着した[63]。Kたちが到着した時点では、CやDの姿、および彼らの乗っていたクラウンは同店周辺には見られなかったが、KがポケットベルでCを呼び出し、2時30分ごろまでにはCとDの2人が、連れの男女らを連れてクラウンで同店に来ていた[227]。X・Yの2人は引き続きAが監視し、K・C・D・Eの4人は同店に入店した[227]

被害者2人を一時的に解放

2時30分ごろ、4人はYに同店のマッチを1人で取りに行かせ、さらに彼女を店内に1人で居座らせていた[207]。一方、Kは同店のトイレでCやDに対し「もう限界だ。(女を含め)早くやっちゃおう」と再び迫ったが、Cは「連れを送るので、4時以降ならいい」と反応した[61]

その後、KはCと2人きりになった際に「どうする?やらんのだったら、よく口止めして帰すか」と問いかけ、Cも「それでもいい」と答えたため、その場に来合わせたXとCが話し合い、車の破損等は互いにチャラにし、警察関係の問題も、Xが適当にごまかすことで話がついた[61]。そして、KはXに帰って良いと伝え、免許証やキャッシュカードの返還も認めた[61]。名古屋地裁 (1989) は、KがCと話し合っていたところ、自分の近くを通りかかったXから「帰ってよいか」と尋ねられ、とっさに「もう帰したる」と答えた旨を認定しており[207]、名古屋高裁 (1996) もこれらのKの行動について、第一審および控訴審におけるK・A・Cの供述・証言などから、「Kらの真意に基づくもの」と認定している[61]

加藤はKとCが2人を解放した点について、車両弁済に関しては既に話がついた以上、「早くこの状況から解放されたい」との思いから、Xの「帰ってよいか」という言葉にKが「もう帰したる」と応じたという仮説を立てている[228]。一方、KとCは互いに面識が薄かったことから互いに虚勢が働き、自分の方から軟弱な提案ができない状態(相手が「もういい」と言うなら、自分もそれに応じても良いと考えているような状態)にあり、またCは自分から積極的な解決策を提示しないばかりか、「すかいらーく」に友人を連れてくるなど(K視点では)自分勝手な行動を取っていたことから、Kはそれに対し苛立ちを感じていたという可能性も指摘している[229]

2人を連れ戻す

解放された2人は「すかいらーく」を離れ、道路を横断した先にあった歩道を歩いていたが[230]、その直後に再び連れ戻された[207][209]。KがAに命じて道の向かいに渡っていた2人を連れ戻させたか、もしくはAが「自分が逃したと思われたくない」と思って2人を連れ戻したのである[68]

Kの弁護人である多田元や、第一審の公判を複数回傍聴していた鮎川潤は、KとCが話し合った上で2人を解放したものの、その直後に話し合いの経緯を知らなかったDが「誰が帰したの。警察へ行くと言ってたよ」と発言したことがきっかけで、2人が連れ戻されたという旨を述べている[66][68]。多田はさらに、K・CともDの手前「弱気と見られたくない」と虚勢的な気持ちを働かせて帰りかけた2人を連れ戻したという旨を述べており[66]、鮎川もKがCへの対抗心や、他の共犯者たち (A・D・E) の前で見栄を張ろうとしたがために2人を連れ戻した可能性を指摘している[188]

また、真神博 (1990) によれば、KとCは男子トイレでXと話し合い、口止めした上で2人を帰したものの、彼らがトイレから出たところ、その事情を知らなかったAがDやEの前でKたちに「帰っていくが、帰したのか」と聞き、Dも「誰が帰したの」と聞いた[67]。K・Cの両名は弱みを見せられず黙っていたものの、見張り役だったAが自身の落ち度にされることを恐れ、被害者2人を追いかけて連れ戻したという[67]

加藤は、被害者2人が解放されてからレストランの向かい側まで逃げられていたにもかかわらず、素直に連れ戻しに応じた点の不可解さを指摘した上で「おとなしく従っていればいずれ解放されると考え、殊更騒がない方がよいと思っていたからなのだろうか」という仮説を立てているが、この点を解明するためには被害者個々の人格の特性や、被害者と加害者の心理的関係の解明が必要であると述べている[229]

名古屋高裁 (1996) は被害者2人の心理状態について、「平穏に解放されることを期待し、手向かうことも、逃げることもせず、一昼夜〔X〕から二昼夜〔Y〕に及ぶ長時間の軟禁状態……(中略)……に耐えていた」と認定している[200]

殺害の共謀成立

Kは2時30分過ぎごろ、同店駐車場でA・C・D・Eの4人に対し、犯行発覚を免れるため、X・Yの2人を弘道会会長の墓がある墓地で殺害して死体を土中に埋めることを提案し、4人もそれに賛同した[69]。ただしCは連れの知人たちを帰す必要があったため、Kらに2人の殺害と死体遺棄を任せ、連れたちと一緒にアパートに帰っていった[70]。Kは残るA・D・Eの3人に対し、自分たちだけで2人を殺すことを提案し、3人も賛同したため、3時ごろにA・D・E・X・Yの5人をグロリアに乗せて駐車場を出発した[70]

加藤はKが被害者2人を連れ戻した後の行動について、年長のBが不在である上、車弁済の関係で利害が一致していたCも再び不在となり、長時間の単独運転や非日常体験による緊張・疲労や極度の睡眠不足を抱える一方で状況の打開策もなく、年少者であるA・D・Eの前で弱みを見せられない状態に陥り、「一刻も早くこの事態から逃れたい」という心理状態に追い込まれ、被害者2人の殺害に至ったと考察している[231]

Xを殺害

「卯塚墓園」(長久手市)にある弘道会本家の墓(D1区画228・229に所在)。KとAはこの墓前でXを絞殺した。この墓には事件当時、弘道会内の暴力団組員たちが清掃に来ていた[71]

被害者Xが殺害された現場は、愛知県愛知郡長久手町大字長湫字卯塚25番地(現:長久手市卯塚)に所在する「卯塚公園墓地」のD1区画内西側(座標)である[69]。「卯塚公園墓地」は名古屋インターチェンジ東名高速道路)から南西約1.5 kmに位置する墓園で、Xが絞殺されたのは、墓園内にある弘道会の本家の墓前だった[71]

「すかいらーく」を出発後、Kは死体を遺棄するための穴を掘る道具として、自身やA・Eがともに暮らしていた「政和荘」[注 2]にあったスコップを使うことを思いつき、同所へ寄ってスコップ2本をグロリアのトランクに積み込んだ[70]。その後、熱田区中出町のスーパーに寄り、EとともにXを絞殺するための青色ビニール製洗濯用ロープを購入、4時30分ごろにX殺害現場に到着した[70]。Kは現場に到着すると、Eと2人でロープをライターで半分ずつに焼き切った上で、Aに命じて下車させたXの両手を半分に焼き切ったロープで縛らせたほか、EもXの口にガムテープを貼り付けた[70]。殺害の凶器には、Kが持っていたもう半分のロープが使われることになった[70]。論告によればこの時、犯人はXに対し「今からどうなるかわかっているだろう」と告知して殺害を予告している[232]

KとAは、Xをグロリアから2 mほど離れた場所で正座させると[70]、彼の首に先述のロープを二重に巻きつけて首の前で交差させ、それぞれロープの両端を持った[69]。そして、Xの「やめて下さい。助けて下さい」などという哀願を無視し、2回にわたって左右からロープを強く引っ張り合い、約20分間にわたって絞め続けることで窒息死させた[69]。殺害実行犯であるK・Aの2人はXを絞殺する際、互いに「このたばこを吸い終わるまで(ロープを)引っ張ろう」と話し合いながら首を絞め続けており[196]、犯行後もたばこの吸殻を拾うなど、罪証隠滅工作をした[114]。また、論告によれば、2人はXの遺体を足蹴りして死亡を確認している[232]

一方、DとEの2人はグロリア車内でYを見張りながら、KとAの2人がXを絞殺する様子を見ていたが、Yは周囲の状況に不安を感じ、2人にXがどうなったかなどを尋ねたりした[72]。当初、Dは「離れたところで話をしている」と言ってごまかしたが、2人はYが声を出さないようにするため、Yの口にガムテープ6、7枚を貼り付けた[72]。また、2人はグロリア車外に出ようとしたところ、Aから「車に乗っておれ」と言われている[72]

X殺害後、K・AはXの遺体と、犯行に使用したスコップ・ロープをグロリアのトランクに積み込んだ[72]。Yはその物音に対し「何を入れているんですか」と尋ねたほか、KとAがグロリアに乗り込んだ際にも「お兄さん (X) はどこへ行ったか」と尋ねていたが、Aは後者の質問に対し「家の近くで降ろした」と嘘を言った[72]。一方で同日10時ごろ、KはBに電話をかけ「今日ひま?夜10時に行く」と伝えたが、この電話でX殺害の事実がKからBに伝えられたかは不明である[61]。これに対しBは「たぶん大丈夫だから、そのころ迎えに来て」と答え、その後は薗田組本家に顔を出して散髪に出掛けたが、再び本家に戻ったところ、当夜の泊まりを言いつけられ、組事務所に詰めていた[61]

加藤はKがその場でYも殺害しなかった理由について、Xの殺害に逡巡し続けて手間取ったためと考察している[233]。また溝渕らも、「女性 (Y) もその場で殺す計画であったが、男性 (X) の断末魔があまりに凄惨であったことからさすがにひる」んだためにその場ではYまで殺害することはできず、Xの遺体をトランクに積んで現場を立ち去ったと述べている[183]。名古屋高裁 (1996) も、Kは殺害を決めた当初こそ被害者2人を一気に殺害して埋めることを決意していたものの、Xを殺害した段階で不安や恐怖に駆られ、その場でYまで殺害するのではなく、現場から逃げ出した上でBを呼び出し、Y殺害への加勢を求めたことなどについて「〔K〕が、殺人という行為の重大性を強く感じていたことをうかがわせるもの」と判示している(後述[234]。しかし、Yは結果的に丸2日間連れ回されたことで、死の恐怖をより長時間味わうこととなった[196]

Y殺害までの行動

11時ごろ、K一行はCのアパートの近くに着いてCと合流し、Xを殺害した事実を告げた上で、Yも同日中に殺害する旨を話した[235]。その後、5人はYを連れて近くの喫茶店(港区稲永五丁目)に行き、Kが同店の電話でBに電話をかけ、Xを殺害したことを告げた上で、22時に落ち合うことを約束[73]。CはKにアパートまで送ってもらったが、Kと別れる際に自身には高山組の用事があるので、Yを殺害して2人の死体を遺棄することをKに頼んだ[73]

この後、K・A・D・Eの4人はYを連れて金城埠頭に行ったが、YはAに見張られて車外に出たところ、Aの隙を突いて海に飛び込もうとし、グロリアに引き戻された[73]。この時、Yが「お兄ちゃん、殺されたの」と泣きながら問いかけたところ、Aは「家の近くで降ろした」と嘘を言っていた[73]。その後、一行は「政和荘」[注 2]に滞在していたが、同日14時ごろ、Aは意気消沈していたYと肉体関係を持っている[73]。論告によればこの時、KはAがYを強姦する際も「どうせ殺してしまう女だから、〔A〕がやりたいだけやったらいい」と考えて黙認しており、EもAに「ごゆっくりね」などと声をかけていた[74]

Kら5人とBとの間でY殺害などの謀議が成立した地点。2022年12月時点では「かつや名古屋本陣通店」の駐車場になっている。

同日22時ごろ、一行はYを連れて「政和荘」を発ち、22時40分ごろに「コーポうちふじ」近くでBと合流すると、その近くにある「カフェドピーク」(中村区本陣通六丁目34番地:座標[注 39]西側の名古屋競輪場駐車場に駐車した[73]。Bは同所で、Kから既にXを殺害したことを知らされて驚きを示し、グロリアのトランクに積まれていたXの遺体を確認した[61]。冒頭陳述によれば、KとBはAを交えた3人で死体を遺棄する場所などを相談したほか、Bは弘道会本部に電話をかけ、Kらと行動をともにすることの了承を得た上で、KやAとともに、Yも殺害した上で、2人の遺体を遺棄する場所について話し合った[73]。確定判決となった名古屋高裁 (1996) は、この時点をもってBがKら5人による被害者Yの殺害や、Xを含む被害者2人の死体遺棄の共謀に加担した旨を認定している[69]

Bは遺棄場所として富士山を提案したが、当時は弘道会の用件の都合上、翌朝7時までに帰らなければならなかったため、Kは三重県の上野山中でYも殺害し、2人の死体を遺棄することを主張、AとBもその案に賛同した[73]。23時10分ごろ、KはA・B・D・Eが同乗したグロリアを運転して同所を出発したが、Yはこの時、後部座席にいたAの膝の上に乗せられていた[73]。三重に向かう途中、一行はYを目隠しするためのタオルや、絞殺用のビニール製青色荷造り用ロープ、懐中電灯、乾電池、握り飯などを購入している[75]

Yを殺害

略地図
1
殺害現場のおおよその位置(伊賀市上阿波字奥那須ケ原)
2
猿蓑塚
3
不動橋
4
伊賀越
5
長野峠

Yの殺害現場および2人の死体遺棄現場は、三重県阿山郡大山田村大字上阿波(現:伊賀市上阿波)字奥那須ケ原998番地[注 40]の山林内私道である(おおよその座標[76]

大山田村上阿波地区は、伊賀伊勢の両地区を分ける標高400 m前後の山中にある地区であり[172]名阪国道中瀬ICから南東へ約20 km[242]、大山田村役場からは約15 km離れた[243]布引山地の谷間に位置している[242]。遺棄現場となった道は、県道津上野線(通称:伊賀街道)の長野峠を越えるトンネルに至る直前の山中にある「猿蓑塚」(座標)付近で分岐して県道津芸濃大山田線に入り[244]、北東へ約2 km進んだ辺りの[243]、服部川(淀川水系木津川支流)の支流に沿った山の斜面である[244]。この道は県道から分岐した脇道であり、道幅は約3 m[245]。車1台がやっと通れる渓流沿いの道で、両脇は鬱蒼とした杉林になっていた[242]。その林道から約7 m奥に入った杉林の窪地が、犯人たちが2人の遺体を埋める穴を掘った地点である[246]。遺棄現場については、上阿波地区の外れにある「不動橋」(座標)からさらに急な細い山道を約20分上り詰めた場所という報道や[142]、「大山田村伊賀越の山中」[81]「長野峠から北へ約2 kmの山中」といった報道もなされている[245]

K一行は25日2時ごろに現場に到着すると、EがYにタオルで目隠しをした上で、K・A・Bの3人で約1時間かけ、死体を埋めるための穴を掘った[75]。穴は約1.5 m四方で、深さは約0.9 mであった[76]。一方、Yはグロリアの車内でDから「最後にしてほしいことがあるか」と聞かれ、「お兄さんの顔が見たい。お兄さんと一緒に埋めて」と言っていた[75]。その後、Yは穴を掘り終えてグロリアに戻ってきたAから握り飯と缶ジュースを渡され、食べるように言われると、泣きながら「これを私と一緒に埋めて。殺されるんでしょ。お兄ちゃんと一緒に天国で食べますから。お兄ちゃんが死んじゃってるのに、私だけ生きていてもしょうがない。死ぬ覚悟は、出来ている。お兄ちゃんと一緒に埋めて。」「最後にお兄ちゃんの顔を見せてください」と言った[75]。これを受け、KはAに「(YにXの顔を)見せてやれ」と指示し、それを受けたAはYを下車させると、目隠しを外し、懐中電灯でXの死体を照らしてYに見せている[75]。K・B・Eは、凶器のロープをライターの火で約4 mの長さに焼き切ったほか、Kは2人の身元が判明するような証拠を隠滅するため、YにXの着衣から、Yの運転免許証などを取り上げ、次いでK・A・Bの3人で、トランクからXの死体を出して地面に置いた[247]

同日3時ごろ、KがYに裸になるよう命じ、彼女をパンティ1枚だけの裸体にさせると、Aは再びタオルでYに目隠しをした[247]。そして、Kは先述のロープをBから受け取ると、Aと2人がかりでYを穴の近くに連れていき、体育座りの形で座らせた[247]。この間、Yは「こんなことをしても、やがて警察に逮捕される。」「やるなら早くしてください。一気に殺してください。」と言っていた[247]。そして、KとAはBの懐中電灯で照らしてもらいつつ、Yの首にロープを巻きつけ[247]、二重に巻き付けたロープが首の前で交差する状態にした[76]。そしてKがYの右側、Aが左側[注 41]にそれぞれ立ち、互いに凶器であるビニール紐の両端を2回にわたって強く引っ張り合ったが、ビニール紐はYの首から外れてしまった[注 42][76][69]。そのため、KとAはXを殺害した際に用いた洗濯用ロープをYの首に三重に巻き付け、首の後ろで交差させた上で、再び左右からロープを強く引っ張り合い、約30分にわたって絞め続けることでYを窒息死させた[76][69]

検察官の冒頭陳述書によればこの間、KはBに対し「綱引きだぜ」と発言した上で、Bも絞殺に加わるよう誘っており[247]、Aもたばこを吸いながらYの首を絞めていた[249]。Kからの誘いを受けたBもたばこを吸いながら笑ってその様子を眺めていた[247]

死体遺棄

3時30分ごろ、KはA・Bとともに被害者2人の死体を穴に埋めた[76]。3人はYの死亡を確認するとグロリアに戻り、Xの死体を頭の方から反動をつけて穴の中に投げ込んだ[249]。次いで、Yの死体からロープを外した上で[249]、KとAの2人がかりで同様に死体を穴へ投げ込んだ[76]。当時、仰向けになっていたXの死体の上に、うつ伏せになったYの死体が乗り、互いに両腕で互いの体を抱き合っている状態だったことが報じられている[250]。そして、3人はスコップを使って死体の上から土をかけて埋めたほか、その上で飛び跳ねて土を固めたり、更に上から枯れ木や落葉を被せたりして、死体を隠した上で、証拠隠滅のためにたばこの吸い殻、タオルなどを拾い集め、3時30分ごろに全員でグロリアに乗って現場を離れた[249]

C以外の5人 (K・A・B・D・E) は犯行後の25日5時10分ごろ、「コーポうちふじ」付近でBを下車させ、残る4人が「政和荘」[注 2]に戻る途中で、中川区中島新町二丁目のゴミ箱や、その前を流れる荒子川に凶器のロープや軍手、2人の運転免許証・服などを捨てた[251]。4人は同日7時ごろに「政和荘」に着き、事件を大きく報じる新聞を読んだ後、グロリア(K車両)で荒子川に架かる「フェニックスブリッジ」(名古屋市港区十一屋一丁目:座標)に行き、その橋上からロープの残りなどを投棄した[251]。また、今後のことについてCと相談しようとしたが、Cが不在だったために連絡は取れなかった[251]。同日11時ごろ、4人は犯行の痕跡を消すため、大高町字丸の内の洗車場[注 36]でグロリアを洗車し、犯行に用いたスコップを投棄したほか、鉄パイプやルームミラーなどを洗車場の裏に捨てた[251]。なお、同日にKとAの勤務先の雇い主が2日間出勤しなかったKたちのもとを訪れていたが、Kは特に変わらない様子で「明日は仕事に出ます」と話していた[170]


  1. ^ a b c d e f 少年法第51条:罪を犯すとき十八歳に満たない者に対しては、死刑をもつて処断すべきときは、無期刑を科する。この規定を適用されて無期懲役刑が確定した事例は、1966年から2007年2月までの間で、最高裁が把握している限りではAの事例を含めて3例ある[38]。A以外に同条文が適用された主な判決には、混血少年連続殺人事件広域重要指定106号事件)の犯人(事件当時16歳)に対し千葉地裁松戸支部(浅野豊秀裁判長)が1971年9月9日に宣告した判決[39][40]金沢市夫婦強盗殺人事件の犯人(事件当時17歳)に対し金沢地裁(堀内満裁判長)が2006年12月18日に宣告した判決[41](2007年2月13日付で確定[42])がある[38]
  2. ^ a b c d e f g h 事件当時Kが住んでいた「政和荘」は、名古屋市港区辰巳町11番地26(座標)に所在していた[174](現在の辰巳町11番地26の1)[175]。犯行途中、Kは「政和荘」近くのパーキングに駐車して「政和荘」に戻っているが、その時に駐車したパーキングも港区辰巳町である[73]
  3. ^ 「市営汐止住宅」とする報道もある[116]。同住宅は、現在の市営みなと荘7棟駐車場付近に位置していた[117]
  4. ^ 1983年(昭和58年)10月に家賃滞納問題が発生したとする報道もある[84]
  5. ^ 事件発生時点で約5年間分の家賃が滞納されていた[122]
  6. ^ 10歳代の少年[122]
  7. ^ a b 『週刊文春』 (1988) はKの父親について、Kの同僚が「市バスの運転手」と述べていることを報じている[139]
  8. ^ 「死刑廃止の会」がまとめた死刑事件の被告人一覧(1991年7月10日時点)や、『年報・死刑廃止』の1996年・1997年版、および集刑 (1992) には、犯人Kの実の姓名(イニシャルは「K・S」)が掲載されている[128][129][130][131]。また『高等裁判所刑事裁判速報集』に収録された判決文にも、Kの姓(イニシャル「K」)が掲載されている[132]
  9. ^ その他の仮名表記は、『オール讀物』 (1989) では「富村久仁雄」[133]、『週刊新潮』では「藤原和彦」[134]真神博 (1990) では「島田芳夫」[135][96]、中尾幸司 (2004) では「石田滋」[112]、佐藤大介 (2021) では「中川政和」[136]
  10. ^ ただし、同年9月13日に名古屋家裁で審判不開始となった[54]
  11. ^ 小笠原和彦 (1988) によれば、Kにこの職場を紹介した人物はKの父親の知人である[148]
  12. ^ 中尾 (2004) によれば、侵入した先は友人宅である[150]
  13. ^ その前日(7月20日)付で名古屋家裁により、別件保護中との理由から不処分となっており、処分決定後も継続して勤務することが決まっていた[55]
  14. ^ 、『オール讀物』 (1989) では「古河克彦」[156]、『週刊新潮』では「犬丸公一」[134]、真神博 (1990) では「徳岡伸雄」[96]、中尾幸司 (2004) では「西山照久」[112]
  15. ^ Aの父親は近隣住民によれば暴力団関係者で、息子に対し「将来、ヤクザにでもなれ」と言っていたという[158]。息子Aが事件を起こした当時はトラック運転手として働いていたが、『週刊文春』の取材を受けた際、息子が逮捕されたことを聞いても動ずる様子もなく「勘当したから今は何をしているかまったく知らない」と述べている[139]
  16. ^ 多田はAの父親が酒浸りになる前、家業の不振に加え、彼の娘(Aの妹)が突然死するという不幸に見舞われていたことを述べている[159]
  17. ^ 『オール讀物』 (1989) では「田家哲介」[162]、真神博 (1990) では「高田伸一」[96]
  18. ^ 運輸会社就職後の1987年5月7日付で、名古屋家裁から保護観察処分に付されている[54]
  19. ^ 『オール讀物』 (1989) では「舟橋定弘」[133]、『週刊新潮』では「佐竹安雄」[134]、真神博 (1990) では「伊藤竜一」[96]、中尾幸司 (2004) では「菅原義夫」[163]
  20. ^ この事件については1984年1月19日、名古屋家裁で不処分になっている[56]
  21. ^ 『オール讀物』 (1989) では「倉山スミ子」[156]、『週刊新潮』では「横寺恵美」[134]、真神博 (1990) では「寺田理花」[96]、中尾幸司 (2004) では「寺前恵美」[164]
  22. ^ 『オール讀物』 (1989) では「大林明美」[166]、『週刊新潮』では「筒見英子」[134]、真神博 (1990) では「井上好子」[96]、中尾幸司 (2004) では「井田由紀」[167]
  23. ^ なお、鮎川潤 (1992) は『法廷での態度から判断するとF子〔=E〕は父親に対しては悪い感情は抱いてないようである」と述べている[168]
  24. ^ Cが犯行に用いたグロリア(C車両)は、名古屋市南区の山口組系暴力団組長が1986年11月に購入したものだったことが報じられている[172]
  25. ^ 金城埠頭は当時、夜間は人が少なく、公衆電話も埠頭内に計5か所しかなかった[185]
  26. ^ a b 2022年現在は19時閉門(翌7時開門)となっている[190]
  27. ^ 冒頭陳述によれば、この時にはAもYへの暴行に加わっていた[194]
  28. ^ 中尾幸司 (2004) は冒頭陳述書からの引用として、AはCがYを姦淫している間、その様子を見ながらYの口に自己の陰茎を含ませていた[195]
  29. ^ チェイサーに取り付けてあったもの[59]
  30. ^ この車の運転手は早朝トレーニングのため、大高緑地公園に来ていた[193]。2人はその人物に対し、「車を当てられたんだけど、証人になってもらえますか」と言っていた[59]
  31. ^ 「オートステーション」は、名四バイパス国道23号)沿いの海部郡弥富町中原ろの割(現:弥富市富島2丁目9番地)に所在していた(座標[203]。同所は現在、「出光(株)西日本宇佐美東海支店 2号名四弥富SS」が所在している[204]
  32. ^ KたちがCの上役にどう説明するかを相談していた際、Dは話の途中で「(朝食を)食べたから出る」と言って退店しており、次いでEも「眠いから」との理由で、途中から入店してきたBとともに退店している[206]
  33. ^ Kは第一審でBの公判に出廷した際も、同店における謀議は本気ではなかったことを証言している[205]
  34. ^ 「ホテルロペ39 ロペ39中部観光(有)」は、中村区城屋敷町1丁目15番地に所在しており(座標[214]、2021年時点でも同地で「ホテルロペ39」として営業している[215]
  35. ^ 喫茶店「まいか」[61]。名古屋市熱田区西野町一丁目32番地(座標)に「メゾン西野」があり[218]、同ビル1階に「喫茶まいか」が入居していた[219]
  36. ^ a b Kたちが犯跡隠滅のために利用した洗車場は、「コイン洗車大高」[207](名古屋市緑区大高町字丸ノ内:座標[220]。2022年現在は「(株)ピットストップモーターズ」が所在している[221]
  37. ^ 喫茶店「TOTO」[61]。名古屋市港区入場一丁目312番地に「ハイツ幹」(座標)が所在しており、同ビル1階に「コーヒーTOTO」[222](「喫茶とと」とも)が入居していた[223]
  38. ^ 同地点(熱田区一番1丁目21番18号)には、2022年時点で「ガスト 熱田一番店」がある[225][226]
  39. ^ 名古屋市中村区本陣通6丁目(座標)には1988年当時、「喫茶店ぴーく」があり、その西側には名古屋競輪場駐車場があった[236]。後者の駐車場は2022年現在、かつや名古屋本陣通店(本陣通6丁目35番地の1)に、「喫茶店ぴーく」の所在地は同店の駐車場になっている[237][238]
  40. ^ 判決文では「奥那須原」と表記されているが、三重県公式サイトでは「奥那須原」の表記と[239]、「奥那須原」の表記が混在している[240]。伊賀市上阿波奥那須ケ原地区の位置図:参考[240][241]
  41. ^ 名古屋地裁 (1989) 、名古屋高裁 (1996) の認定より[76][69]。検察官の冒頭陳述書では、KとAが立っていた位置が正反対(KはYの左側、Aは右側)になっている[247]
  42. ^ 冒頭陳述書によればこの際、Yがうつ伏せに倒れ、彼女の脈を診たBも「脈がない」と言ったが、Kは念のため、Xの両手を縛っていた洗濯用ロープで改めてYの首を絞めることにしている[248]
  43. ^ 当時の大高緑地 - 金城埠頭間の道路における主な経路は、国道23号・国道1号を経由するもので[78]、経路の総距離は約15 - 16 kmである[189]
  44. ^ Cは毎週木曜日の夜、実家に電話で近況報告することを習慣としていた[177]
  45. ^ a b 少年鑑別所では、留置された被疑者に附添人をつけることが認められている。通常は弁護士が附添人になるが、願い出れば保護者が附添人になることも可能である[262]
  46. ^ 法律扶助協会は、身寄りや金銭的余裕がない人物に弁護士などを斡旋する機関で、ここからの紹介でついた附添人は一般刑事事件における国選弁護人に相当する[262]
  47. ^ 中学校の英語の教科書[269]
  48. ^ 同日付で、5人は少年鑑別所を退所した[183]
  49. ^ 内訳は、無期懲役の仮釈放中に殺人を再犯した事例(3件)と、少年時代に殺人・死体遺棄・強姦致傷などの前歴を有するほか、住居侵入・準強盗未遂で懲役刑に処され、その刑期満了直後に殺人を犯した事例(1件:「事件一覧表」における整理番号12番)[281]。前者の主な例には、整理番号244番[280]豊中市2人殺害事件[282])がある。
  50. ^ 1件のみ。「事件一覧表」における整理番号:158番[283]富山・長野連続女性誘拐殺人事件[284])。
  51. ^ 全10件。例:「事件一覧表」における整理番号266番[283]本庄保険金殺人事件[285])、274番[283]長崎・佐賀連続保険金殺人事件[286])。
  52. ^ 例:「事件一覧表」における整理番号211番[287]飯塚事件[288])。
  53. ^ 「事件一覧表」における整理番号246番[287]池袋通り魔殺人事件[282])。
  54. ^ 例:「事件一覧表」における整理番号80番[287]市原両親殺害事件[290])。その他の事例には、生きたまま浴槽内に頭部を沈めて殺害した事案(整理番号111番)、知人を自己の加虐的暴力的嗜好の対象とし、数々の虐待を重ねてついに殺害した事案(同245番)がある[291]
  55. ^ その他の事例は、整理番号314番[293]いわき2人射殺事件[294])、同341番[293]秋田児童連続殺害事件[295])など。
  56. ^ 刑集 (1983) より[300]。『中日新聞』の報道では、同年1月の記事で「38件」[299]、同年6月の記事で「40件」(法務省などの調べ)となっている[301]
  57. ^ 後述の28件を上告棄却の年代別に見ると、昭和20年代が12件(前半5件・後半7件)、昭和30年代が11件(前半6件・後半5件)、昭和40年代前半が2件である[302]
  58. ^ 後述の28件のうち、昭和40年代後半、昭和50年代前半の各2件[302]
  59. ^ この9件のうち1件は、後に再審で元死刑囚の無罪が確定した財田川事件(1957年1月22日に最高裁で上告棄却判決)である[303]
  60. ^ 分離公判では、個別に被告人質問が行われた[315]
  61. ^ 当初は同年3月14日に開廷される予定だったが[356]、延期された。
  62. ^ 愛知県弁護士会所属[22]
  63. ^ 加藤は1995年秋、共犯者2人の証人尋問における供述を基に弁護団に対し、「犯罪心理鑑定書」を補充し、共犯者全員の鑑定もしくは証人尋問を求める意見を述べた[380]
  64. ^ 1996年3月末時点で[389]、名古屋拘置所に収監されていた死刑囚は、名張毒ぶどう酒事件の奥西勝[390]半田保険金殺人事件のIおよびH(旧姓T)[390][391]、日建土木事件の死刑囚N、勝田清孝、先妻家族3人殺害事件の死刑囚Mの計6人がいたが[392]、奥西以外は2012年以前にいずれも死刑を執行されており、奥西も2015年に八王子医療刑務所で病死している。また当時、最高裁上告中の死刑事件被告人が1人(富山・長野連続女性誘拐殺人事件女性死刑囚M)[393]、高裁控訴中の被告人1人がそれぞれ同拘置所に収監されていたが[129]、前者(1998年に死刑確定)は2022年時点でも存命である一方[394]、後者[同年7月2日に名古屋高裁(松本光雄裁判長)で控訴棄却判決、2001年に死刑確定]は死刑確定後の2003年に獄中死している[395]
  65. ^ a b 『朝日新聞』声の欄(1996年12月23日、および26日)にはそれぞれ、被害者の立場や結果の重大性などの観点から、控訴審判決を非難する投書が掲載されている[398]
  66. ^ このSに対する死刑求刑や死刑判決の宣告は、ともに少年事件としては本事件のKが受けて以来、約5年ぶりである[400][401]
  67. ^ これら2判決はいずれも第一審の無期懲役判決を不服とした検察官が控訴して死刑を求めていたが、いずれも棄却されたものである[408]。甲府信金OL誘拐殺人事件の判決理由で、東京高裁は「近年の死刑の適用傾向を見ると、殺害された者が1名の事案については、やや控えめな傾向がうかがえる」として「死刑には、躊躇を覚えざるを得ない」と結論づけていた[409][410]
  68. ^ 殺人事件で第一審判決を宣告された被告人の人数は、1996年が567人だった一方、2004年は795人で、この間の増加割合は約1.4倍である[416]。一方、第一審から上告審までのいずれかの審級で死刑判決を受けた被告人の人数は、1996年は8人だったが、「連続上告」がなされた1997年 - 1998年を境に急増し(1997年は9人、1998年は19人)、2004年は42人(1996年の5倍強)となっている[416]
  69. ^ 犯罪被害者等給付金支給法第8条1項[271]:「犯罪被害を原因として犯罪被害者又はその遺族が損害賠償を受けたときは、その価額の限度において、犯罪被害者等給付金を支給しない。」[450]の規定により、被害者遺族が給付金額を上回る損害賠償を受けた場合、給付金は支給されない[271]
  70. ^ 内訳は逸失利益・死亡慰謝料・近親者慰謝料・葬儀費で、Xの逸失利益は2,326万3,459円、Yの逸失利益は2,618万3,026円[451]。また、両者ともに死亡慰謝料は2,000万円、近親者慰謝料は500万円、葬儀費は100万円である[451]
  71. ^ 岡山刑務所の受刑者数は2015年末時点で585人であり、その約3分の1(約200人)が無期懲役囚である[462]。同刑務所では社会復帰に向けて受刑者を努力させるため、服役態度などによって受刑者を1 - 5類に分類し、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などを決めているが、「1類」の受刑者は約30人である[31]。Kは2022年時点で19年間、模範囚(規則違反なし)であり[463]、通常は30分程度まで認められている面会時間を60分まで延長されたり、独房内でヘッドフォンを用いてCDの音楽を聴いたり[464]、通常は21時までとなっている消灯時間を22時まで延長して作業を行ったりすることが許可されている[31]
  72. ^ 佐藤大介はKへの取材を通じて文通を重ね、2007年(平成19年)からは知人として面会を続けていた[461]
  73. ^ 無期懲役囚の仮釈放に当たっては、住居や仕事の確保が審査対象となっているため、家族や有事から見放された無期懲役囚にとっては負担が大きく、また収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある[470]。佐藤もある元刑務官の「40歳代以降に無期懲役になった受刑者は仮釈放されず、獄死するケースが多い。無期懲役は実質的に終身刑になっている」という声を取り上げている[470]。2005年(平成17年)から2014年(平成26年)までの間に仮釈放された無期懲役囚は54人である一方、その間に獄死した無期懲役囚はその3倍近くに当たる154人に達している[471]
  74. ^ これは2005年(平成17年)の改正刑法成立により、有期刑の上限が30年になったことに伴う措置である[472]。2014年に仮釈放された無期懲役囚は6人で、平均収容期間は31年4か月である[471]
  75. ^ 『朝日新聞』 (2002) によれば、その運用を指示した1998年6月の通達は「終身か、それに近い期間、服役すべき受刑者がいると考えられる」と明記した上で、指定事件については管轄の地検・高検が最高検と協議した上で、判決確定直後に刑務所側へ「安易に仮釈放を認めるべきではなく、仮釈放申請時は特に慎重に検討してほしい」「(将来)申請する際は、事前に必ず検察官の意見を求めてほしい」と文書で伝えた上で関連資料を保管し、刑務所や地方更生委員会から仮釈放について意見照会があった場合、そのような経緯や保管資料などを踏まえ、地検が意見書を作成するよう指示している[474]
  76. ^ 「作業報奨金」は2006年までは「作業賞与金」と呼ばれていた[479]。これは刑務作業の給与のことで、時給10円から数十円程度である[53]
  77. ^ 彼はこの手紙を書いた2010年当時、一・二審で死刑判決を受けて上告中だった[482]
  78. ^ Fは2007年3月以降、広島拘置所内で1日6時間の労務作業を行い、初めて得た1か月分の報奨金約900円を供養代として、初めてFに妻子を殺害された被害者遺族の男性に送金しているが、Fの関係者はFがそのような行動を取るようになった要因の1つとして、FがKと文通を始めたことを挙げている[485]
  79. ^ 1984年4月25日に横浜地裁川崎支部で宣告された判決[532]
  80. ^ 永山事件の審理で第一審:死刑→控訴審:無期(原判決破棄)→上告審:破棄差戻し→差戻控訴審:死刑(控訴棄却)と量刑が揺れ動いていたことや、日本では死刑存置論が優勢だった一方、西欧先進国では成人を含めて死刑廃止が大勢になっていたことなど[535]
  81. ^ a b 第三章 少年の刑事事件 > 第二節 手続
    第五十条(審理の方針) 少年に対する刑事事件の審理は、第九条の趣旨に従つて、これを行わなければならない。
  82. ^ a b 第二章 少年の保護事件 > 第三節 調査及び審判
    第八条(事件の調査) 家庭裁判所は、第六条第一項の通告又は前条第一項の報告により、審判に付すべき少年があると思料するときは、事件について調査しなければならない。検察官、司法警察員、警察官、都道府県知事又は児童相談所長から家庭裁判所の審判に付すべき少年事件の送致を受けたときも、同様とする。
    2 家庭裁判所は、家庭裁判所調査官に命じて、少年、保護者又は参考人の取調その他の必要な調査を行わせることができる。
    第九条(調査の方針) 前条の調査は、なるべく、少年、保護者又は関係人の行状、経歴、素質、環境等について、医学、心理学、教育学、社会学その他の専門的智識特に少年鑑別所の鑑別の結果を活用して、これを行うように努めなければならない。
  83. ^ 清水は1964年に検事任官され、1987年に東京地検刑事部副部長から名古屋地検公判部長に転出、1989年に札幌高検刑事部長へ転出するまで同職を務めた[544]。1995年に退職するまでに本事件の公判指揮のほか、千葉大チフス菌事件・ロッキード事件フライデー襲撃事件戸塚ヨットスクール事件あさま山荘事件埼玉愛犬家連続殺人事件など、様々な事件の捜査・公判を担当したが[544]、彼が関与した死刑の論告は本事件のみである[21]
  84. ^ 同規則2.2 (a) で「少年」 (juvenile) とは、「各国の法制度の下で犯罪のゆえに成人とは異なる仕方で扱われることのある児童 (child) もしくは青少年 (young person) 」と定義されている[549]
  85. ^ 同事件では暴力団員6人(20歳代の成人2人と、18歳および19歳の少年計4人)が、強盗や婦女暴行罪で起訴、家裁送致となっている[556]
  86. ^ 犯行動機は主に上納金などの金欲しさで、一夜に3組を襲撃したこともあった[556]。また、女性への乱暴は口封じの狙いもあった[556]
  87. ^ 最高裁は1992年の通達で、特別保存の対象を「全国的に社会の耳目を集めた事件」などと規定した[573]。2019年に東京地裁で重要な憲法解釈を含む訴訟記録の廃棄が判明したことを機に、名古屋家裁は2020年7月、最高裁の呼びかけに応じて運用要領を作成し、「主要日刊紙2紙以上に終局に関する記事が掲載された事件」などといった具体的な基準を策定した[573]
  88. ^ これらの事件のうち、木曽川・長良川連続リンチ殺人事件と西尾ストーカー殺人事件は名古屋地検に逆送致された事件である[573]






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