名古屋アベック殺人事件 犯人らのその後

名古屋アベック殺人事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/09 04:38 UTC 版)

犯人らのその後

獄中における主犯K

1997年、無期懲役が確定したKは岡山刑務所に収監された[53]。それ以降、家族以外との面会や文通はできなくなっていたが、2006年(平成18年)5月の法改正により、外部の支援者などに手紙を出すことも可能になった[460]。しかしそれ以降も、面会できる人物は原則として、あらかじめ刑務所側に登録されている親族や知人などに限定されている[461]。Kは裁判中に知り合った友人(弁護人の関係者)に対し、手紙で「死刑にならずに生きていることに申し訳なく思う」「どこまでいっても償えない罪をしっかり背負って生きていくしかありません」と述べている[447]

獄中における服役態度は良好で、Kは刑務作業での事故、所内でのトラブルがない「1類」の模範囚として高い優遇区分を受けており[注 71]、刑務所内では金属加工工場で、NC旋盤を操作する作業を担当している[31]。主にトラクター・自動車の部品加工が中心で[464]新幹線車両の部品に用いられる精密加工品を製造することもあるという[31]

中尾幸司によれば、Kは2003年時点でキリスト教に帰依し、毎日被害者のために祈りを捧げていたという[465]。また、2002年(平成14年)以降は通信教育で高校の勉強を始めていた[457]。Kは2015年(平成27年)8月26日、運動中にくも膜下出血を起こして倒れ、丸1日意識を失い、生死の境をさまよった[461]。それから2週間、刑務所外の病院に入院しており、医師の見立てでは「回復したとしても後遺症が出る可能性が高い」というものだったが、結果的に日常生活に支障をきたすような後遺症は残らず、2016年(平成28年)5月には刑務作業に復帰している[461]。Kは佐藤大介[注 72]の取材に対し、意識を失った際に自身の死を悟ったことや、この出来事がきっかけで自身が殺めた被害者も含めて命の重みを強く実感し、被害者の無念を一層考えるようになったということを述べており[466]、『中日新聞』の取材に対してもこの出来事がきっかけで、初めて被害者2人の恐怖を想像できたという旨を述べている[51]。その後、2021年(令和3年)5月に佐藤が6年ぶりに岡山刑務所を訪れた際は、Kは顔色が良く元気そうだったという[467]

Kは佐藤に対し、「社会復帰」を目標としていることを語っており[468]、そのためには刑務所内で安定した生活を送り、自らの罪や被害者に向き合うことや、被害者遺族に対しては金銭的な面も含めて一生かけて償い続けることが必要であると述べている[469]。佐藤もKの家族が仮釈放後に身元引受人になることを明言している[注 73]ことを踏まえ、Kを「仮釈放を現実のものとして望みをつなげる、数少ない無期懲役囚」と述べている一方、2016年時点では岡山刑務所から仮釈放された無期懲役囚がほとんどいないことや、2009年に法務省が無期懲役囚の仮釈放に関する運用を見直し、服役期間が30年を超えなければ仮釈放の審査を受けられなくなったこと[注 74]、その審査でも仮釈放不許可の判断を下される人物が多い(特に、Kのように被害者が複数人になる事件ではかなりハードルが高い)ことを指摘している[473]。実際、犯行動機や結果が悪質だったり、「前科・前歴、動機などから、同様の重大事件を再び起こす可能性が特に高い」などと判断された事件、またKのように死刑求刑に対し無期懲役判決が確定した事件などは、検察により「マル特無期事件」として指定され、仮釈放に際して特別に慎重な審理を求める運用がなされているという報道がある[注 75][474][475]。K自身も佐藤の取材に対し、「必ず出られる日が来ると信じて」服役生活を送っている一方、「審査も厳しく、出るのは簡単じゃないと思います」とも述べている[472]

Kは2017年(平成29年)に職業訓練で、人生で初めてパソコンを扱い、簿記3級の資格を得たほか、知人宛ての手紙でも社会復帰を目標としていることを綴るようになった[51]。また、同年12月には、自身と同じく19歳で殺人を犯して第一審で死刑判決を受け、最終的に死刑が確定した市川一家4人殺害事件(1992年発生)の少年死刑囚に刑が執行されたことを獄中で知り、その感想として「人ごととは思えなかった」「生きていることへの感謝と申し訳なさを感じた」と述べている[51]。また佐藤の取材に対しても、死刑執行のニュースを知るごとに「もしかしたら、自分も同じ立場になっていたかもしれない」と強く意識していることや、もし時代が違えば自分も死刑になっていただろうということを語っている[476]。Kの母親も同じく、もし息子が2009年時点で判決を受けていれば死刑になっていただろうという旨を述べている[477]

Kと文通を行っている死刑廃止運動家の高田章子は、Kが刑務所に対し、遺族宛の詫び状を出すことを希望したところ、「示談が成立しているので、その必要はない」と言われても粘り強い交渉の末に手紙・作業報奨金を送るための特別発信許可を得て、Yの遺族と文通を行うなど、著しく矯正している姿を目の当たりにしてかなり驚いたことを述べた上で、その要因としてKの弁護人・両親の影響や、名古屋拘置所にいた死刑囚たちがKの控訴審判決時に拍手を送ったことなどを指摘している[478]。控訴審で第三次弁護団の一員としてKの弁護を担当した内河恵一・雑賀正浩は、控訴審判決から20年以上が経過した2022年時点でも毎年のようにKからはがきを受け取っている[397]。一方でインターネット上では2022年時点でも、Kに対する厳しい言葉が多く溢れている[397]

Yの遺族との交流

Kは岡山刑務所に移監されて5年目の2001年(平成13年)以降、刑務作業で得た「作業報奨金」[注 76]の一部を[51]、被害者2人の遺族宛ての手紙に添え、謝罪文を送り続けている[53]。2016年時点で、Kは遺族宛に年2回、作業報奨金から現金を送っている[31]

2005年3月、Yの父親から獄中のK宛に初めての手紙が届いた[53]。その内容は供養代への礼と、更生への努力を願う内容で[51]、翌2006年12月には「大変だなと思いますが、罪は罪として向き合うよう願っています」という手紙が届いている[447]

殺人事件の被害者遺族と加害者の文通は極めて異例とされ、KとYの遺族の交流は修復的司法の一例として報じられている[53]

2008年(平成20年)1月、Yの父親は中国地方更生保護委員会広島県広島市)に対し、Kの社会復帰を促す内容の手紙を出しており、直後にはKに対しても、贖罪の気持ちを永遠に忘れず持ち続けるよう求める手紙を送っている[480]。Yの父親は同年、共同通信社の取材に対し、Kについて「決して許さないが1人の人間として接している」と話している[53]。また2009年には佐藤大介の取材に対し「(文通は)あくまで個人と個人のこと。死刑廃止などの運動に利用されたくない」と強調しており[481]、『西日本新聞』の取材に対しても「千枚通しで刺し殺そうと思ったこともある」「許したわけではない」と述べている一方、「あいつも刑務所できつい生活をしている」「あいつもいずれ社会に出てくる。改心してもらわんと困る」とも述べている[447]。一方のKも佐藤の「自分がもし被害者の遺族だったら、犯人に対してYの父親のように接することはできないのではないか」という旨の質問に対し、「それが遺族の方の気持ちだと思っています」と肯定の答えを返している[396]。また、2022年に『報道特集』(TBSテレビ)の取材を受けた際にも、もし自分が被害者だったら自分の母親は加害者を許さないだろうと述べている[463]

このような交流は佐藤が執筆した『世界』2009年8月号で取り上げられたが、同記事を読んだ東大阪集団暴行殺人事件の主犯格である男(2011年に死刑確定)は、同誌を差し入れた岡﨑正尚に対する手紙で、自身は被害者遺族に謝罪文を送っただけでKのように継続的な弁済ができていないことを綴った上で、「一度死んだ人間」(=一度死刑判決を受けたという意味)であるKのように、「二度死んだ人間」である自身[注 77]も変わっていきたいという決意を述べている[483]

他事件犯人との交流

2007年(平成19年)3月以降、Kは安田の仲介を受け、当時広島高裁で差戻控訴審を受けていた光市母子殺害事件の被告人Fと文通をしていた[484]。安田は当時、Fの主任弁護人を務めていた[485][486]

安田は差戻し前の上告審で死刑を求めて上告した検察官の上告趣意書に対する答弁書を提出した際、「〔光市事件〕より犯情が悪いにも関わらず無期懲役が適用された事例」として、Kに対する控訴審判決に言及した上で[487][488]、Kが「生きて償う」、すなわち「何時までも贖罪の心を忘れることなく被害者のことを思い謝罪を続ける」「それを通して再び人間としての信頼を取り戻していく」ことを目指し続けていることを挙げ、Fが更生可能であることを主張した[487]。また、安田ら弁護団は、差戻し審に当たって提出した意見陳述書の中でも、FがKの生き方に触発され、償いや反省とは何かを深く考えるようになったことを挙げている[注 78][489]。安田率いるFの弁護団はこの裁判で、Kの更生を示すことにより、Fにも更生の可能性があることを示そうとして、Fの公判にKを証人申請したが[490]、この申請は却下されている[491]。『週刊文春』は、Fが同年4月に安田やK宛に送った手紙で、Kを「K先輩(原文は本名)」と呼び、広島拘置所での生活ぶりや亡母のことのほか、「いじょうきしょうの中で生きゆく少年・少女がいじょうでないはずがなく」「誰がオレたちをばとうできる?それはかぎられた人のみに許されし特権だ」などという内容を綴っていた旨を報じている[492]

Kは高田宛の手紙で、自身の過去の言動を踏まえた上で、Fについて「多くの人々は彼に反省を求め過ぎではないだろうか。もちろん彼も犯した罪の重さを理解、認識して反省しなければならないが、逮捕や裁判ですぐにそれができるぐらいなら初めから事件を起こさないだろう」という旨を記しているが、高田はこれについて「自分はKのようなケースを知っていたから、Fも彼のように早く反省すべきだと期待していたことに気付かされた。彼は一朝一夕で見違えるほどに更生したのではなく、長い時間をかけて獄中で思い、考え、行動し、被害者遺族を含むさまざまな人々との関係性も変えていく努力をしたからこそ、自分自身を変えていけたのだと認識させられた」という旨を述べている[493]

Kの家族

中尾幸司 (2004) によれば、Kの父親は2000年ごろから膠原病で寝たきりになった[465]。同書によれば(2003年8月時点で)「最近、入院したばかり」とのことだったが[465]、佐藤大介 (2021) によれば彼は2002年、61歳で病死している[494]

Kの家族は、2003年時点でも中川区内で暮らしており、母親(同年時点で57歳)は85歳になる自身の父親(Kの母方の祖父)の面倒を1人で見つつ、年1回ほど息子の下へ面会に訪れていた[465]。彼女は夫(Kの父親)の退職金で被害者遺族への賠償金(前述)を完済したが[495]、中尾幸司の取材に対しては息子が出所するとは考えていないこと、もし出所するならば償いをさせるつもりであることなどを述べている[496]。また、息子と面会するたびに被害者遺族に償わなければならないことを繰り返し諭していたという[495]

Kは2021年(令和3年)5月に佐藤と面会した際、新型コロナウイルスの蔓延により母親が面会に来れなくなったと語っている[467]

その他の共犯5人

一方、B・C・D・Eの4人は2003年(平成15年)までに刑期を終え、それぞれ刑務所を出所したものの[497]、彼ら4人もその親族たちも、誰も被害者遺族のもとへ謝罪に訪れることはなかった[271]。その現状について、KはYの父親宛の手紙で「裏切り」と表現している[455]

Cは2000年(平成12年)ごろに岡山刑務所を出所し、中国地方のある都市に住み着いた[163]。2002年(平成14年)には10歳年下の女性(事件のことは知らない)と結婚し、彼女との間に娘を儲けている[498]。Cは出所から約3年後の2003年8月中旬、当時在住していた都市で中尾幸司の取材を受けている[163]。Cはこの時、地元の産廃会社で働いて月収約20万円を得ていた一方、被害者遺族に対する損害賠償金の支払いは反故にしており(前述[178]、親とも連絡を取っていなかった[442]。また、普段は事件のことをあまり考えていないこと、事件後に悪夢にうなされたことはないことを語っており、以下のようなことも述べている[499]

「(刑に服して)自分の何が変わったんでしょうかねえ……自分ではよく分からない。事件の反省でしたら、まァ、悔い改めるのはありますけど……でも、(事件に)引きずられてばっかりでもアレでしょう。前に進めないと思う」 — 犯人C、中尾幸司 (2004) [498]
「最初の一年、二年は(事件のことを)考えるかも知れないけど、(服役生活が)日常になれば、考えないようになる。もう目の前のことだけですから。狭い人間関係だし。(親族や遺族と)一、二回会って、振り返って、後ろ向きになる人間もいるけど……」[500]

Cは中尾から「償う気持ち」について問われると「生活に忙しいので。答えは出ない」と、連絡を取ろうと思わないのかについて問われると「取った方がいいのかどうかわからない」という旨の答えに終始している[501]。一方、自分の娘がYと同じ目に遭ったら犯人をどうするかという質問に対しては「許さないと思う」と答えたが[502]、Yたちの墓の場所を教えれば墓参するかという質問に対しては「行く時間がないから難しい」と答えている[503]

Dは1996年5月までに出所し[456]、同年12月に結婚したが、翌1997年には離婚し、2000年に別の男性と再婚[504]、2003年時点では名古屋市内に在住していた[505]。また、1人目の夫と2人目の夫との間にそれぞれ男児を1人ずつ儲けている[504]

Eは笠松刑務所に服役し[272][506]、1996年4月までに出所した[459]。出所後に知り合った男性との間に子供を儲けて2000年に結婚し、愛知県春日井市に在住していたが、翌2001年(平成13年)2月に離婚し、2003年時点では名古屋市内に在住しつつ、水商売で生計を立てていた[457]。中尾幸司は彼女の周囲を探った際、彼女が30歳代前半ほどの男性と同居していることや、その男性に懐いている3歳前後の女児がいることを目撃している[507]


  1. ^ a b c d e f 少年法第51条:罪を犯すとき十八歳に満たない者に対しては、死刑をもつて処断すべきときは、無期刑を科する。この規定を適用されて無期懲役刑が確定した事例は、1966年から2007年2月までの間で、最高裁が把握している限りではAの事例を含めて3例ある[38]。A以外に同条文が適用された主な判決には、混血少年連続殺人事件広域重要指定106号事件)の犯人(事件当時16歳)に対し千葉地裁松戸支部(浅野豊秀裁判長)が1971年9月9日に宣告した判決[39][40]金沢市夫婦強盗殺人事件の犯人(事件当時17歳)に対し金沢地裁(堀内満裁判長)が2006年12月18日に宣告した判決[41](2007年2月13日付で確定[42])がある[38]
  2. ^ a b c d e f g h 事件当時Kが住んでいた「政和荘」は、名古屋市港区辰巳町11番地26(座標)に所在していた[174](現在の辰巳町11番地26の1)[175]。犯行途中、Kは「政和荘」近くのパーキングに駐車して「政和荘」に戻っているが、その時に駐車したパーキングも港区辰巳町である[73]
  3. ^ 「市営汐止住宅」とする報道もある[116]。同住宅は、現在の市営みなと荘7棟駐車場付近に位置していた[117]
  4. ^ 1983年(昭和58年)10月に家賃滞納問題が発生したとする報道もある[84]
  5. ^ 事件発生時点で約5年間分の家賃が滞納されていた[122]
  6. ^ 10歳代の少年[122]
  7. ^ a b 『週刊文春』 (1988) はKの父親について、Kの同僚が「市バスの運転手」と述べていることを報じている[139]
  8. ^ 「死刑廃止の会」がまとめた死刑事件の被告人一覧(1991年7月10日時点)や、『年報・死刑廃止』の1996年・1997年版、および集刑 (1992) には、犯人Kの実の姓名(イニシャルは「K・S」)が掲載されている[128][129][130][131]。また『高等裁判所刑事裁判速報集』に収録された判決文にも、Kの姓(イニシャル「K」)が掲載されている[132]
  9. ^ その他の仮名表記は、『オール讀物』 (1989) では「富村久仁雄」[133]、『週刊新潮』では「藤原和彦」[134]真神博 (1990) では「島田芳夫」[135][96]、中尾幸司 (2004) では「石田滋」[112]、佐藤大介 (2021) では「中川政和」[136]
  10. ^ ただし、同年9月13日に名古屋家裁で審判不開始となった[54]
  11. ^ 小笠原和彦 (1988) によれば、Kにこの職場を紹介した人物はKの父親の知人である[148]
  12. ^ 中尾 (2004) によれば、侵入した先は友人宅である[150]
  13. ^ その前日(7月20日)付で名古屋家裁により、別件保護中との理由から不処分となっており、処分決定後も継続して勤務することが決まっていた[55]
  14. ^ 、『オール讀物』 (1989) では「古河克彦」[156]、『週刊新潮』では「犬丸公一」[134]、真神博 (1990) では「徳岡伸雄」[96]、中尾幸司 (2004) では「西山照久」[112]
  15. ^ Aの父親は近隣住民によれば暴力団関係者で、息子に対し「将来、ヤクザにでもなれ」と言っていたという[158]。息子Aが事件を起こした当時はトラック運転手として働いていたが、『週刊文春』の取材を受けた際、息子が逮捕されたことを聞いても動ずる様子もなく「勘当したから今は何をしているかまったく知らない」と述べている[139]
  16. ^ 多田はAの父親が酒浸りになる前、家業の不振に加え、彼の娘(Aの妹)が突然死するという不幸に見舞われていたことを述べている[159]
  17. ^ 『オール讀物』 (1989) では「田家哲介」[162]、真神博 (1990) では「高田伸一」[96]
  18. ^ 運輸会社就職後の1987年5月7日付で、名古屋家裁から保護観察処分に付されている[54]
  19. ^ 『オール讀物』 (1989) では「舟橋定弘」[133]、『週刊新潮』では「佐竹安雄」[134]、真神博 (1990) では「伊藤竜一」[96]、中尾幸司 (2004) では「菅原義夫」[163]
  20. ^ この事件については1984年1月19日、名古屋家裁で不処分になっている[56]
  21. ^ 『オール讀物』 (1989) では「倉山スミ子」[156]、『週刊新潮』では「横寺恵美」[134]、真神博 (1990) では「寺田理花」[96]、中尾幸司 (2004) では「寺前恵美」[164]
  22. ^ 『オール讀物』 (1989) では「大林明美」[166]、『週刊新潮』では「筒見英子」[134]、真神博 (1990) では「井上好子」[96]、中尾幸司 (2004) では「井田由紀」[167]
  23. ^ なお、鮎川潤 (1992) は『法廷での態度から判断するとF子〔=E〕は父親に対しては悪い感情は抱いてないようである」と述べている[168]
  24. ^ Cが犯行に用いたグロリア(C車両)は、名古屋市南区の山口組系暴力団組長が1986年11月に購入したものだったことが報じられている[172]
  25. ^ 金城埠頭は当時、夜間は人が少なく、公衆電話も埠頭内に計5か所しかなかった[185]
  26. ^ a b 2022年現在は19時閉門(翌7時開門)となっている[190]
  27. ^ 冒頭陳述によれば、この時にはAもYへの暴行に加わっていた[194]
  28. ^ 中尾幸司 (2004) は冒頭陳述書からの引用として、AはCがYを姦淫している間、その様子を見ながらYの口に自己の陰茎を含ませていた[195]
  29. ^ チェイサーに取り付けてあったもの[59]
  30. ^ この車の運転手は早朝トレーニングのため、大高緑地公園に来ていた[193]。2人はその人物に対し、「車を当てられたんだけど、証人になってもらえますか」と言っていた[59]
  31. ^ 「オートステーション」は、名四バイパス国道23号)沿いの海部郡弥富町中原ろの割(現:弥富市富島2丁目9番地)に所在していた(座標[203]。同所は現在、「出光(株)西日本宇佐美東海支店 2号名四弥富SS」が所在している[204]
  32. ^ KたちがCの上役にどう説明するかを相談していた際、Dは話の途中で「(朝食を)食べたから出る」と言って退店しており、次いでEも「眠いから」との理由で、途中から入店してきたBとともに退店している[206]
  33. ^ Kは第一審でBの公判に出廷した際も、同店における謀議は本気ではなかったことを証言している[205]
  34. ^ 「ホテルロペ39 ロペ39中部観光(有)」は、中村区城屋敷町1丁目15番地に所在しており(座標[214]、2021年時点でも同地で「ホテルロペ39」として営業している[215]
  35. ^ 喫茶店「まいか」[61]。名古屋市熱田区西野町一丁目32番地(座標)に「メゾン西野」があり[218]、同ビル1階に「喫茶まいか」が入居していた[219]
  36. ^ a b Kたちが犯跡隠滅のために利用した洗車場は、「コイン洗車大高」[207](名古屋市緑区大高町字丸ノ内:座標[220]。2022年現在は「(株)ピットストップモーターズ」が所在している[221]
  37. ^ 喫茶店「TOTO」[61]。名古屋市港区入場一丁目312番地に「ハイツ幹」(座標)が所在しており、同ビル1階に「コーヒーTOTO」[222](「喫茶とと」とも)が入居していた[223]
  38. ^ 同地点(熱田区一番1丁目21番18号)には、2022年時点で「ガスト 熱田一番店」がある[225][226]
  39. ^ 名古屋市中村区本陣通6丁目(座標)には1988年当時、「喫茶店ぴーく」があり、その西側には名古屋競輪場駐車場があった[236]。後者の駐車場は2022年現在、かつや名古屋本陣通店(本陣通6丁目35番地の1)に、「喫茶店ぴーく」の所在地は同店の駐車場になっている[237][238]
  40. ^ 判決文では「奥那須原」と表記されているが、三重県公式サイトでは「奥那須原」の表記と[239]、「奥那須原」の表記が混在している[240]。伊賀市上阿波奥那須ケ原地区の位置図:参考[240][241]
  41. ^ 名古屋地裁 (1989) 、名古屋高裁 (1996) の認定より[76][69]。検察官の冒頭陳述書では、KとAが立っていた位置が正反対(KはYの左側、Aは右側)になっている[247]
  42. ^ 冒頭陳述書によればこの際、Yがうつ伏せに倒れ、彼女の脈を診たBも「脈がない」と言ったが、Kは念のため、Xの両手を縛っていた洗濯用ロープで改めてYの首を絞めることにしている[248]
  43. ^ 当時の大高緑地 - 金城埠頭間の道路における主な経路は、国道23号・国道1号を経由するもので[78]、経路の総距離は約15 - 16 kmである[189]
  44. ^ Cは毎週木曜日の夜、実家に電話で近況報告することを習慣としていた[177]
  45. ^ a b 少年鑑別所では、留置された被疑者に附添人をつけることが認められている。通常は弁護士が附添人になるが、願い出れば保護者が附添人になることも可能である[262]
  46. ^ 法律扶助協会は、身寄りや金銭的余裕がない人物に弁護士などを斡旋する機関で、ここからの紹介でついた附添人は一般刑事事件における国選弁護人に相当する[262]
  47. ^ 中学校の英語の教科書[269]
  48. ^ 同日付で、5人は少年鑑別所を退所した[183]
  49. ^ 内訳は、無期懲役の仮釈放中に殺人を再犯した事例(3件)と、少年時代に殺人・死体遺棄・強姦致傷などの前歴を有するほか、住居侵入・準強盗未遂で懲役刑に処され、その刑期満了直後に殺人を犯した事例(1件:「事件一覧表」における整理番号12番)[281]。前者の主な例には、整理番号244番[280]豊中市2人殺害事件[282])がある。
  50. ^ 1件のみ。「事件一覧表」における整理番号:158番[283]富山・長野連続女性誘拐殺人事件[284])。
  51. ^ 全10件。例:「事件一覧表」における整理番号266番[283]本庄保険金殺人事件[285])、274番[283]長崎・佐賀連続保険金殺人事件[286])。
  52. ^ 例:「事件一覧表」における整理番号211番[287]飯塚事件[288])。
  53. ^ 「事件一覧表」における整理番号246番[287]池袋通り魔殺人事件[282])。
  54. ^ 例:「事件一覧表」における整理番号80番[287]市原両親殺害事件[290])。その他の事例には、生きたまま浴槽内に頭部を沈めて殺害した事案(整理番号111番)、知人を自己の加虐的暴力的嗜好の対象とし、数々の虐待を重ねてついに殺害した事案(同245番)がある[291]
  55. ^ その他の事例は、整理番号314番[293]いわき2人射殺事件[294])、同341番[293]秋田児童連続殺害事件[295])など。
  56. ^ 刑集 (1983) より[300]。『中日新聞』の報道では、同年1月の記事で「38件」[299]、同年6月の記事で「40件」(法務省などの調べ)となっている[301]
  57. ^ 後述の28件を上告棄却の年代別に見ると、昭和20年代が12件(前半5件・後半7件)、昭和30年代が11件(前半6件・後半5件)、昭和40年代前半が2件である[302]
  58. ^ 後述の28件のうち、昭和40年代後半、昭和50年代前半の各2件[302]
  59. ^ この9件のうち1件は、後に再審で元死刑囚の無罪が確定した財田川事件(1957年1月22日に最高裁で上告棄却判決)である[303]
  60. ^ 分離公判では、個別に被告人質問が行われた[315]
  61. ^ 当初は同年3月14日に開廷される予定だったが[356]、延期された。
  62. ^ 愛知県弁護士会所属[22]
  63. ^ 加藤は1995年秋、共犯者2人の証人尋問における供述を基に弁護団に対し、「犯罪心理鑑定書」を補充し、共犯者全員の鑑定もしくは証人尋問を求める意見を述べた[380]
  64. ^ 1996年3月末時点で[389]、名古屋拘置所に収監されていた死刑囚は、名張毒ぶどう酒事件の奥西勝[390]半田保険金殺人事件のIおよびH(旧姓T)[390][391]、日建土木事件の死刑囚N、勝田清孝、先妻家族3人殺害事件の死刑囚Mの計6人がいたが[392]、奥西以外は2012年以前にいずれも死刑を執行されており、奥西も2015年に八王子医療刑務所で病死している。また当時、最高裁上告中の死刑事件被告人が1人(富山・長野連続女性誘拐殺人事件女性死刑囚M)[393]、高裁控訴中の被告人1人がそれぞれ同拘置所に収監されていたが[129]、前者(1998年に死刑確定)は2022年時点でも存命である一方[394]、後者[同年7月2日に名古屋高裁(松本光雄裁判長)で控訴棄却判決、2001年に死刑確定]は死刑確定後の2003年に獄中死している[395]
  65. ^ a b 『朝日新聞』声の欄(1996年12月23日、および26日)にはそれぞれ、被害者の立場や結果の重大性などの観点から、控訴審判決を非難する投書が掲載されている[398]
  66. ^ このSに対する死刑求刑や死刑判決の宣告は、ともに少年事件としては本事件のKが受けて以来、約5年ぶりである[400][401]
  67. ^ これら2判決はいずれも第一審の無期懲役判決を不服とした検察官が控訴して死刑を求めていたが、いずれも棄却されたものである[408]。甲府信金OL誘拐殺人事件の判決理由で、東京高裁は「近年の死刑の適用傾向を見ると、殺害された者が1名の事案については、やや控えめな傾向がうかがえる」として「死刑には、躊躇を覚えざるを得ない」と結論づけていた[409][410]
  68. ^ 殺人事件で第一審判決を宣告された被告人の人数は、1996年が567人だった一方、2004年は795人で、この間の増加割合は約1.4倍である[416]。一方、第一審から上告審までのいずれかの審級で死刑判決を受けた被告人の人数は、1996年は8人だったが、「連続上告」がなされた1997年 - 1998年を境に急増し(1997年は9人、1998年は19人)、2004年は42人(1996年の5倍強)となっている[416]
  69. ^ 犯罪被害者等給付金支給法第8条1項[271]:「犯罪被害を原因として犯罪被害者又はその遺族が損害賠償を受けたときは、その価額の限度において、犯罪被害者等給付金を支給しない。」[450]の規定により、被害者遺族が給付金額を上回る損害賠償を受けた場合、給付金は支給されない[271]
  70. ^ 内訳は逸失利益・死亡慰謝料・近親者慰謝料・葬儀費で、Xの逸失利益は2,326万3,459円、Yの逸失利益は2,618万3,026円[451]。また、両者ともに死亡慰謝料は2,000万円、近親者慰謝料は500万円、葬儀費は100万円である[451]
  71. ^ 岡山刑務所の受刑者数は2015年末時点で585人であり、その約3分の1(約200人)が無期懲役囚である[462]。同刑務所では社会復帰に向けて受刑者を努力させるため、服役態度などによって受刑者を1 - 5類に分類し、区分ごとに面会や手紙の回数、所内での集会の参加回数などを決めているが、「1類」の受刑者は約30人である[31]。Kは2022年時点で19年間、模範囚(規則違反なし)であり[463]、通常は30分程度まで認められている面会時間を60分まで延長されたり、独房内でヘッドフォンを用いてCDの音楽を聴いたり[464]、通常は21時までとなっている消灯時間を22時まで延長して作業を行ったりすることが許可されている[31]
  72. ^ 佐藤大介はKへの取材を通じて文通を重ね、2007年(平成19年)からは知人として面会を続けていた[461]
  73. ^ 無期懲役囚の仮釈放に当たっては、住居や仕事の確保が審査対象となっているため、家族や有事から見放された無期懲役囚にとっては負担が大きく、また収容期間が30年を過ぎると社会復帰への意欲が大きく減退するという調査結果もある[470]。佐藤もある元刑務官の「40歳代以降に無期懲役になった受刑者は仮釈放されず、獄死するケースが多い。無期懲役は実質的に終身刑になっている」という声を取り上げている[470]。2005年(平成17年)から2014年(平成26年)までの間に仮釈放された無期懲役囚は54人である一方、その間に獄死した無期懲役囚はその3倍近くに当たる154人に達している[471]
  74. ^ これは2005年(平成17年)の改正刑法成立により、有期刑の上限が30年になったことに伴う措置である[472]。2014年に仮釈放された無期懲役囚は6人で、平均収容期間は31年4か月である[471]
  75. ^ 『朝日新聞』 (2002) によれば、その運用を指示した1998年6月の通達は「終身か、それに近い期間、服役すべき受刑者がいると考えられる」と明記した上で、指定事件については管轄の地検・高検が最高検と協議した上で、判決確定直後に刑務所側へ「安易に仮釈放を認めるべきではなく、仮釈放申請時は特に慎重に検討してほしい」「(将来)申請する際は、事前に必ず検察官の意見を求めてほしい」と文書で伝えた上で関連資料を保管し、刑務所や地方更生委員会から仮釈放について意見照会があった場合、そのような経緯や保管資料などを踏まえ、地検が意見書を作成するよう指示している[474]
  76. ^ 「作業報奨金」は2006年までは「作業賞与金」と呼ばれていた[479]。これは刑務作業の給与のことで、時給10円から数十円程度である[53]
  77. ^ 彼はこの手紙を書いた2010年当時、一・二審で死刑判決を受けて上告中だった[482]
  78. ^ Fは2007年3月以降、広島拘置所内で1日6時間の労務作業を行い、初めて得た1か月分の報奨金約900円を供養代として、初めてFに妻子を殺害された被害者遺族の男性に送金しているが、Fの関係者はFがそのような行動を取るようになった要因の1つとして、FがKと文通を始めたことを挙げている[485]
  79. ^ 1984年4月25日に横浜地裁川崎支部で宣告された判決[532]
  80. ^ 永山事件の審理で第一審:死刑→控訴審:無期(原判決破棄)→上告審:破棄差戻し→差戻控訴審:死刑(控訴棄却)と量刑が揺れ動いていたことや、日本では死刑存置論が優勢だった一方、西欧先進国では成人を含めて死刑廃止が大勢になっていたことなど[535]
  81. ^ a b 第三章 少年の刑事事件 > 第二節 手続
    第五十条(審理の方針) 少年に対する刑事事件の審理は、第九条の趣旨に従つて、これを行わなければならない。
  82. ^ a b 第二章 少年の保護事件 > 第三節 調査及び審判
    第八条(事件の調査) 家庭裁判所は、第六条第一項の通告又は前条第一項の報告により、審判に付すべき少年があると思料するときは、事件について調査しなければならない。検察官、司法警察員、警察官、都道府県知事又は児童相談所長から家庭裁判所の審判に付すべき少年事件の送致を受けたときも、同様とする。
    2 家庭裁判所は、家庭裁判所調査官に命じて、少年、保護者又は参考人の取調その他の必要な調査を行わせることができる。
    第九条(調査の方針) 前条の調査は、なるべく、少年、保護者又は関係人の行状、経歴、素質、環境等について、医学、心理学、教育学、社会学その他の専門的智識特に少年鑑別所の鑑別の結果を活用して、これを行うように努めなければならない。
  83. ^ 清水は1964年に検事任官され、1987年に東京地検刑事部副部長から名古屋地検公判部長に転出、1989年に札幌高検刑事部長へ転出するまで同職を務めた[544]。1995年に退職するまでに本事件の公判指揮のほか、千葉大チフス菌事件・ロッキード事件フライデー襲撃事件戸塚ヨットスクール事件あさま山荘事件埼玉愛犬家連続殺人事件など、様々な事件の捜査・公判を担当したが[544]、彼が関与した死刑の論告は本事件のみである[21]
  84. ^ 同規則2.2 (a) で「少年」 (juvenile) とは、「各国の法制度の下で犯罪のゆえに成人とは異なる仕方で扱われることのある児童 (child) もしくは青少年 (young person) 」と定義されている[549]
  85. ^ 同事件では暴力団員6人(20歳代の成人2人と、18歳および19歳の少年計4人)が、強盗や婦女暴行罪で起訴、家裁送致となっている[556]
  86. ^ 犯行動機は主に上納金などの金欲しさで、一夜に3組を襲撃したこともあった[556]。また、女性への乱暴は口封じの狙いもあった[556]
  87. ^ 最高裁は1992年の通達で、特別保存の対象を「全国的に社会の耳目を集めた事件」などと規定した[573]。2019年に東京地裁で重要な憲法解釈を含む訴訟記録の廃棄が判明したことを機に、名古屋家裁は2020年7月、最高裁の呼びかけに応じて運用要領を作成し、「主要日刊紙2紙以上に終局に関する記事が掲載された事件」などといった具体的な基準を策定した[573]
  88. ^ これらの事件のうち、木曽川・長良川連続リンチ殺人事件と西尾ストーカー殺人事件は名古屋地検に逆送致された事件である[573]






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