共犯者たちの出所後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 19:25 UTC 版)
「名古屋アベック殺人事件」の記事における「共犯者たちの出所後」の解説
『新潮45』2003年10月号記事によると、無期懲役が確定したW・X両名を除き、V・2000年頃に岡山刑務所から出所したS・T・Uの4人は、『新潮45』記者がUを取材した2003年8月中旬時点で、いずれも既に刑期を終え出所していたが、逮捕後に反省の弁を述べていた本人も、その親たちも、誰1人として被害者遺族の元を訪れ謝罪していないという。 1988年11月下旬、被害者らの互いの遺族は名古屋簡易裁判所に、加害者やその家族らへの損害賠償請求調停申し立てを行い、Aの両親には4926万3459円(調停総額は3551万円)は、Bの遺族には5218万3026円(同5551万円)を支払うことが取り決められたが、事件から15年後の2003年8月時点で実際に支払われたのはAの両親には約半分の798万6500円、Bの遺族には3分の1未満の1572万9000円しか支払われていない。 W・Xは無期懲役が確定し、ともに仮釈放の目途が立たないため、本人分は調停不調に終わった。Xの両親はその後の調停に従って、事件前に離婚していたAの両親に1640万円(調停額500万円)、Bの遺族に1071万円(同1000万円)をそれぞれ1999年5月までに完済した。 一方、Wの両親は息子の公判に顔を出さないばかりか、加害者家族らの集まりなどにも一度も参加せず、賠償金に関しても支払う意志さえ見せず、調停不調となった。 犯行当時唯一成年だったVも、出所直後に行方をくらまし、Bの遺族との調停に応じたはずの2000万円の賠償金を全く払わず、Aの遺族とは調停不調となっており、その両親も親権放棄を決め込んで、調停の席にすらつかないという有様だった。 UはAの両親に各500万円、Bの遺族に1000万円を出所6か月後から支払うことで調停に至っていたが、少なくとも2003年8月時点まで全く支払いに応じておらず、現住所なども秘したまま結婚して妻子をもうけ、平穏な生活を送っていた。Uの両親も調停不調となっていた。 「被害者遺族に土下座して詫びたい」と口にしていたTは、本人分としてAの両親に各250万円、Bの遺族への500万円を支払うことで調停に至ったが、出所後の1996年4月以降、2003年8月時点までに支払われたのは、A両親に各12万4000円、B遺族に22万4000円で、初めの数回を支払っただけで住所を変更し、被害者側にはその通告をしていない。Tは、出所後に知り合った男性と2000年に結婚し、子供をもうけ、愛知県春日井市内に移住するが、翌2001年2月に離婚し、その後は名古屋市内に移住し、2003年8月現在は水商売で働いているという。 Sは事件後、賠償の意志を明らかにしていたが、本人分の調停額であるA両親への300万円、B遺族への600万円のうち、出所後の1996年5月までに支払われたのは、母親を通じて分割払いされた一部のみで、2003年8月時点では「ここ数か月未払いのまま」であった。Sの両親は支払い分(A両親への115万5000円、B遺族への231万円)を既に完済したが、S本人は住居を変更し、被害者遺族やその代理人らにも通告していないという。Sは出所後の1996年12月、知り合った男性と結婚したが、その翌1997年に離婚し、さらに3年後の2000年に別の男性と再婚し、2人の夫との間に男児を1人ずつもうけ、2003年8月現在は共働きで暮らしているという。 同記事によると、Uはインタビューに対し「事件にばかり引きずられていてもアレでしょう、前に進めないと思う」「娘が同じ目にあったら許さないと思う。許さないんじゃないでしょうか」「賠償金については親が示談したが、親とも連絡をとらなくなって、忘れてるというかそれで終わってる」「被害者の墓参り?行く時間がないので難しいね」などと答え、事件への懺悔や賠償の意思を示さず、自己主張のみを前面に出した回答を行っている。
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