フォルクスワーゲン・タイプ1 歴史

フォルクスワーゲン・タイプ1

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/17 02:44 UTC 版)

歴史

ヒトラーとポルシェ

ポルシェが開発した試作車の一つポルシェ・タイプ12(1931年)。ヒトラーとの邂逅以前にポルシェが量産化に失敗した事例である

フォルクスワーゲン・タイプ1となる自動車の開発は、直接には1933年、ドイツ首相に就任したヒトラーが、ベルリン自動車ショーの席上でアウトバーン建設と国民車構想の計画を打ち出したところに始まる[7]。当時、いまだ高価だった自動車を「国民全員が所有できるようにする」というプランは、ヒトラー率いるナチス党が大衆の支持を得るのに絶好の計画であった。

ヒトラーは、後にスポーツカーメーカーとなるポルシェ社の創業者であるフェルディナント・ポルシェに国民車の設計を依頼することになった。ポルシェはダイムラー・ベンツ出身の優れた自動車技術者で、退社後の1931年からはシュトゥットガルトに自身の経営する「ポルシェ設計事務所」(現ポルシェ)を構えて自動車メーカーからの設計請負業務をおこなっていた。その過程で、ナチスの支援していたアウトウニオン・レーシングカー(いわゆるPヴァーゲン、1933年)の設計にも携わった。

ポルシェ自身、生涯に開発したい車として「高性能レーシングカー」「農業用トラクター」「優秀な小型大衆車」を挙げていた[8]。そして強豪レーシングカー開発と並行しながら、1920年代以来、在籍していたダイムラー・ベンツでの社内開発提案を皮切りに、独立後の1932年ツュンダップ1933年NSUといった自動車メーカーとの提携など、機会を得ては「フォルクスワーゲンの原型」と言うべきリアエンジン方式の小型車開発に取り組んだ。だがその度に、企画立案時点か、ようやく試作車を開発した段階で、予算不足や不景気、提携メーカーの弱腰などによって、いずれも計画を頓挫させ続けていた。それだけにヒトラーの提案は「渡りに船」であった。

運転はしなかったが自動車に乗ることが好きで、メルセデス・ベンツタトラを好んだカーマニアのヒトラーは、ポルシェに国民車の条件として、以下のような厳しい条件を提示した。

  • 頑丈で長期間大きな修繕を必要とせず、維持費が低廉であること
  • 標準的な家族である大人2人と子供3人が乗車可能なこと(すなわち、成人であれば4人乗車可能な仕様である)
  • 連続巡航速度100 km/h以上[注釈 1]
  • 7 Lの燃料で100 kmの走行が可能である(=1 Lあたりの燃費が14.3 km以上である)こと
  • 空冷エンジンの採用[注釈 2]
  • 流線型ボディの採用[注釈 3]
オペルP4 (1935 - 1937年)。当時のドイツにおける最廉価級セダンであったが、内外ともに在来モデルの改良に留まる旧世代車。ベルリンモーターショーでオペルの社長から「我が社のフォルクスワーゲンです!」とP4を紹介されたヒトラーは、冷ややかにこれを無視したという

これらの条件はもとよりポルシェの目指していた国民車コンセプトに多く合致していたが、ヒトラーがポルシェに強調したのは「この条件を満たしながら、1,000マルク以下で販売できる自動車を作ること」であった。

ヒトラー自身も課題の厳しさは承知していたようだが、当時のドイツ製1,000 cc級4人乗り小型乗用車で、大量生産による低価格化を実現した代表例のオペルP4ドイツ語版」ですら、定価1,450マルクに抑えるのが精一杯だったことを考えれば、販売価格1,000マルクで必要とされる性能の自動車を開発することは極めて困難なテーマであった。しかも水冷サイドバルブエンジンをフロントに積む「P4」は前後とも固定車軸の旧式設計でスタイルも前時代的な箱形であり、最高速度は90 km/h以下で、無論ヒトラーの要求するような性能水準には達していなかった。

ドイツの各自動車メーカーが政府統制によって結成した団体「ドイツ帝国自動車産業連盟」(RDA) が、1934年6月にポルシェ事務所と開発契約を結び、計画がスタートした。ポルシェは、決して潤沢とは言えない開発予算の中で、1930年代初頭から幾度となく試作されては頓挫してきた小型大衆車の開発経験を活かして開発を進めた。

開発課程と完成、生産の頓挫

第二次大戦期のアウトバーンを走行する2台のKdFワーゲン。1938年から1939年にかけ試作されたVW38と見られる。1943年撮影

しかしフォルクスワーゲンの開発は難航した。計画からは大幅に遅れが生じ、ポルシェの責任を問う声も上がったが、ヒトラーの庇護で開発は続行された。

契約を結んでから1年後の1935年にようやくプロトタイプ2台(V1、V2)の製作が完了、翌1936年に3台(V3シリーズ)が完成。1937年には計30台のプロトタイプ(W30シリーズ)がダイムラー・ベンツで製作された。ナチス親衛隊(SS)隊員から運転免許保有者たちが選抜され、彼らによって過酷なテストドライブを受けることで、プロトタイプの弱点が洗い出され、強化された。

また生産工場の建設計画についても多くがポルシェに委ねられたことから、開発期間にポルシェは2度に渡ってアメリカ合衆国を訪れ、大衆車の廉価な大量生産のノウハウを得るためにフォード・モーターなど大手自動車メーカー各社の工場を、現場の生産体制に至るまで詳細に視察した。

この際、ポルシェは自動車量産の始祖とも言えるヘンリー・フォードとも直に会談している。ヘンリー・フォード個人は熱烈な反ユダヤ主義者であり、彼が1920年代に著述した反ユダヤ宣伝の著作はヒトラーにも影響を与えたほどであった。そしてフォード自身、第二次世界大戦開戦以前にはヒトラーのドイツでのユダヤ人弾圧活動に強いシンパシーを抱いていた。従ってヒトラーによって派遣されたポルシェにも協力的であり、また(自社傘下のドイツ・フォードと競合する可能性をはらむにもかかわらず[注釈 4])ドイツでの大衆自動車量産の企画には大いに理解を示した。しかしポルシェの示したフォルクスワーゲンの尖鋭的な設計コンセプトについては、持ち前の保守性から評価しなかったという。1908年にT型フォードを開発してからのヘンリー・フォードは、量産V型8気筒エンジンの開発(1932年発表)以外では徹底して保守的な設計に偏重した。その結果、フォード車の設計は少なくとも1948年までアメリカの大手自動車メーカーの中では最も旧弊なままであった。

翌年1938年にはプロトタイプV303のセダンとサンルーフとカブリオレが完成し、後年までよく知られるフォルクスワーゲンのスタイルが決定した。

同年5月にはブラウンシュヴァイク付近で製造工場の定礎が行われ、その会場でヒトラー立ち会いの下、ポルシェによってプロトタイプV303が披露された。上機嫌で賞賛と国民車普及の演説を打ったヒトラーは、その場で生産型の車名を『KdF-Wagen歓喜力行団の車)』と命名した[注釈 5]。工場周囲にできる計画都市もKdFシュタット(「歓喜力行団の車市」、Stadt des KdF-WagensKdF-Stadt、現在のヴォルフスブルク)と名付けられた。

その約2ヶ月後、プロトタイプVW38が完成し、翌1939年までにおよそ35台が製作された。それまでのボディ製作はハンドビルドであったが、同年夏頃からは、実際のプレス金型によるボディパネルを使用した最終プロトタイプVW39がおよそ14台製作された。

こうしてKdFの大量生産準備が進められることになった。KdFの販売にあたっては、国民はクーポン券による積み立てでKdF購入費用を貯蓄し、満額に達した者に車を引き渡すという計画が立てられた[1]

しかし、ヒトラー自身が1939年に第二次世界大戦を勃発させてしまったため、量産直前まで到達した国民車構想はストップした。KdFクーポンは販売促進のため、政府主導によって企業現場などで強制割当も図られたが、戦争とナチス政権崩壊のためクーポンは無価値な紙くずとなり、戦後、クーポン購入者たちの一部がフォルクスワーゲン相手に訴訟を起こす事態に陥っている。この訴訟は1960年代初頭まで長引いたが、最終的には原告に対し大幅割引価格でタイプ1を販売することで和解が図られた。

戦時体制下、KdF-Wagen製造工場は軍用仕様のキューベルワーゲンシュビムワーゲンを主に生産するようになった。若干数の KdF-Wagenも軍用車両として用いられた。この工場では戦争捕虜収容所収容者が過酷な労働に従事させられた。戦後のフォルクスワーゲンにこの戦時中の強制労働の直接責任があるわけではないが、同社は歴史担当部門を設け1998年から各種の戦争補償プログラムを行なっている。

模倣論争

タトラ模倣説
タトラ・T97

KdFに関しては、チェコのタトラのハンス・レドヴィンカが試作し、1937年から少数を生産した1.7 Lリアエンジン車タトラ・T97との類似が指摘されることがあり、さらには同じくタトラが1934年に発表した大型リアエンジン車「T77」、1935年の「T77A」、1936年の「T87」の影響も指摘される。

全鋼製・カブトムシ型のヤーライ式流線型ボディ、空冷の水平対向もしくはV型エンジンをバックボーンフレームの後部に搭載し、四輪独立懸架とするシャーシ構造、ベルト駆動の軸流ファンによる強制空冷の冷却システムなど、確かに類似点は多い。空冷エンジン採用には、空冷モデルを主力としたタトラに対するヒトラーの傾倒があったとも言われる。

実際に戦後タトラはフォルクスワーゲンに訴訟を提起、1961年にフォルクスワーゲンは300万ドイツマルクに及ぶ賠償金を支払っている。しかしビートルの原型は1934年NSU試作車(タイプ32)において完成をみており、タトラへの賠償金支払は著作権侵害の賠償というよりは、ドイツによるチェコスロバキア併合と、相前後してのT97生産停止命令(わずか500台余りの生産のみで製造停止された。これはフォルクスワーゲンとの類似性・クラス近似が影響したものと言われている)への賠償を肩代わりしたものとみていいだろう。

ちなみにポルシェとレドヴィンカは交遊があり、お互いのアイデアを頻繁に交換しあっていた。二人はいずれも1920年代からバックボーンフレームやスイングアクスル独立懸架、空冷エンジンなどの導入に熱心で、1931年 - 1933年頃にはほとんど並行する形で流線型ボディの空冷式小型リアエンジン試作車を開発していた。またリアエンジン流線型車を構成する個々の技術要素のほとんどは、特に二人が発明したという訳ではなかった(フォルクスワーゲンにおいても、ポルシェ自身が考案した部分は、トーションバーを用いたダブル・トレーリングアームの前輪独立懸架ぐらいである)。類似した原因は、当時のトレンドであった新技術を両者が貪欲に取り入れていた結果で、一方がもう一方を単純に模倣したと言えるものでもない。

ヨーゼフ・ガンツ模倣説
シュタンダルト・ズーペリオル

リアエンジン、独立懸架、バックボーンフレームというビートルを特徴付ける機構について第二次世界大戦後にヨーゼフ・ガンツ(Josef Ganz)がビートルは自身の設計の盗作であると主張した[9]。ガンツは戦前「モトールクリティーク(Motor-Kritik)」誌の編集長も務めた技術者であり、1929年のツェンダップや1930年のアルディ (Ardie)、1931年アドラーの車に同様の機構を提案していた。ガンツの設計で1932年にシュタンダルト社 (Standard Fahrzeugfabrik) が開発したズーペリオル (Superior) は1,590ライヒスマルクの国民車と宣伝された。1933年のフランクフルト・モーターショー(Frankfurt Motor Show)でこの車を見たヘルマン・ゲーリングは設計者と契約を結ぼうとした。しかしガンツがハンガリーユダヤ人であることが分かるとゲシュタポは彼を逮捕、1カ月間拘留し以後の著述活動を禁じた。1934年にガンツはスイスに移住した。

ガンツは、自身が設計したアルディ車の設計図を誰かがコピーしてそれをツェンダップに渡し、フェルディナント・ポルシェはツェンダップから入手したレイアウト図を基にビートルを設計したと推論していた。ガンツはフェルディナント・ポルシェを尊敬しており、アイデア盗用の件はナチスの責任であると考えていた。

敗戦後の復興と飛躍

1945年、ドイツは戦争に敗れ、KdF-Wagen工場跡は空爆で大きな被害を受けていた。この工場を管理する役目を与えられたイギリス軍将校アイヴァン・ハーストは、「ドイツ側が(自ずから)爆破したように見えた」と証言している。

資材のない戦後の混乱期であり、連合国のドイツ重工業を破壊・解体することによる無力化を志向した占領政策も重なって、ドイツ国内のさまざまな工場や資材は、ドイツを占領下においたイギリス、アメリカ、フランス、ソ連の4国に収奪され、自国に持ち帰られてしまうような状況であった。しかし、当時としては極めて前衛的な設計を備えたフォルクスワーゲンは、最先端すぎるが故にその標的から免れた。

占領国からの収奪行為に最も積極的であったソビエト連邦は、最新式小型乗用車プラントの収奪対象として、在来型乗用車の延長上にある中庸な設計のオペル・カデットを選択し(それはソ連本国で国産化されて「モスクヴィッチ」となった)、イギリスやアメリカ合衆国の自動車メーカーも概して保守的設計に偏りがちなゆえに、フォルクスワーゲンの先進性を理解しなかった。イギリスのメーカー視察団も、フォード・モーターの新たな盟主となったヘンリー・フォード2世も、フォルクスワーゲンを検分こそしたが、特異な設計の自動車と見なして「無価値」と判断し、設計・設備の収奪はおろか、何らそこから学ぼうともしなかった。このため1949年までには、フォルクスワーゲン工場が連合国側の接収対象から免れることが確定した。

対して、アイヴァン・ハーストはドイツ人の協力的な態度とフォルクスワーゲン車の内容に将来性を感じ、手段を尽くして工場を修復させ、自動車生産を再開させることをもくろんだ。こうして彼は、残っていたドイツ人労働者らの力でその名の通りの「国民車・フォルクスワーゲン」を、はじめて誕生させたのだった。フォルクスワーゲン車の本格的な量産はこの時から始まったと言える。1945年中に早くも1,785台を生産している[1]

「タイプ1」などの型式が定められたのも1945年に英国占領下となってからのことである。それ以前はフォルクスワーゲン社としての型式はなく、ポルシェ社による開発番号で呼ばれることが多かった。

ハーストは英国軍に対し、ジープに代わる耐候性の高いスタッフカーとしてフォルクスワーゲンを用いることを提案し、1946年には1万台のフォルクスワーゲン・タイプ1が生産された。

1947年には、オランダ向けを第一陣として国外輸出が始まった。最大の市場となったアメリカへの進出は1949年である[1]。またその後、ドイツ系移民が多くフォルクスワーゲンが一定のシェアを持っていたブラジルの現地法人である「フォルクスワーゲン・ド・ブラジル」やメキシコでの生産も開始された。

以後のフォルクスワーゲン・タイプ1の歴史は、破竹の勢いと言うべきものであった。とにかく頑丈で悪路や厳しい気候でも酷使に耐え、材質・工作が優秀で整備性も良く、大人4人を乗せて経済的に高速巡航できるこの車の性能・品質は、1950年代に至ってもなお世界各国の新型小型乗用車に引けを取らないものであった。アウトバーンでの走行を念頭に置いた、100 km/h以上で高速道路を連続巡航できる大衆車、というポルシェとヒトラーの進歩的コンセプトは、戦後の先進各国におけるハイウェイ時代到来に、見事に適応したのである。アウトバーン整備推進とフォルクスワーゲン開発は、常に独裁者としての悪名が先行するヒトラーの施策の中では、戦後これを実効的に継承発展できたことで、後年まで成功と見なされる数少ない事績の代表例となった。[要出典]

輸出市場でも、その性能とともに、進出した各国で緻密に構築された質の高いディーラーサービス網が、ユーザーからの信頼をより一層高めた。1955年には累計生産100万台に到達、さらに工場の増設・新設を繰り返して、1964年には累計生産1,000万台に到達した。

さらに年々改良され、エンジンや電装の強化(1968年以降6 V電装を12 Vへ変更)、細部の形態変更などが繰り返されている[10]。排気量は当初の1.0 Lがすぐ1.1 Lへ拡大、のち1954年からは1.2 Lとなるが、1960年代に入ると輸出モデルを中心に1.3 L、1.5 Lへの移行が進み、モデル後期には1.6 L型も出現している。

アメリカではセカンドカーとしての需要が高かったが、特に合理性を重んじる知的階層からは「大型車へのアンチテーゼ」として愛用され、一時はデトロイトの大型車と正反対な、反体制の象徴の一つとしても扱われた。理知的なユーモアに溢れる優れた広告戦略も好評を博したが、その広告代理店がドイツ系ユダヤ人ウィリアム・バーンバック率いるDDB(ドイル・ディーン・バーンバック)であったことは、フォルクスワーゲンの生い立ちからすれば歴史の皮肉とも言える。

日本では老舗輸入車ディーラーヤナセ1952年から取り扱いを開始。「寒冷時に急な往診があっても(暖機運転必須であった当時の水冷エンジン車と違い)速やかにコールドスタートできる」「頑丈なドイツ製品」という実用性を伴ったキャラクターは開業医の間で好まれ、医師自らハンドルを握る「ドクターズカー」として使われる例が多かった[注釈 6]。このため、昭和30年代には「お医者さんの車」として一般大衆にも知られるようになった。フォルクスワーゲンは、戦後のヤナセにおいて1960年代以降アメリカ車に代わり、長く主力商品の一つとなった。

改良と生産終了へ

だが1960年代以降は、設計の古さによるスペース・ユーティリティの悪さや、リアエンジンとスイングアクスル式独立懸架による高速走行時の不安定さ、空冷エンジンの騒音などが問題視されるようになる。しかし、フォルクスワーゲンは後継車の開発に失敗し続けて1970年前後は経営悪化で苦しみ、1974年に前輪駆動方式を採用した後継車のゴルフを世に出すまで、前時代化したビートルを主力車種としたまま、改良のみでしのぐことになった。

1968年には、電装系がそれまでの6 Vから、当時既に一般的であった12 Vへ変更された[10]。外観では、フロントライトが直立した形状になった。また、後輪のトレッドが拡大されたことで、高速安定性がいくぶん改善された。

1968年には、北米市場を意識した大幅な変更が行われた。衝突安全性を高めるために前後バンパーが強化され、テールライトも大型化された。この年より「VWオートマチック」と呼ばれるセミオートマチックのモデルが追加された。これはポルシェの「シュポルトマチック」と同じ機構であることから、フルオートマチックと区別するために通称「シュポルトマチック」と呼ばれることがある。VWオートマチックと北米向けモデルに関しては、リアがダブルジョイント式ドライブシャフトとなり、コーナリング安定性が向上した。

1970年には、71年モデルとしてポルシェ式のトーションバー式トレーリングアームに代わり、操縦安定性を改善するストラット式サスペンションをフロントに備えた1302系が発表された。サスペンションの設計にはポルシェ社が大きく関わったとされ、その後のポルシェ・924系との共通点もみられる。リアサスペンションはVWオートマチック等と同型のダブルジョイントである。サスペンションのみが大幅近代化されながら、外観は在来型ビートルから大きな発展はなかったが、ラゲッジスペース拡大を若干ながら実現している。この系列は1973年には、フロントウインドーのカーブドグラス化、テールライトの更なる大型化などのボディ形状変更で1303系に移行し1975年まで生産された。しかし、これらストラットサスペンション系列と並んで、トーションバー式サスペンションを持つ在来モデルも継続生産された。

この間、1972年2月17日には、累計生産1500万7034台に到達し[1]フォード・モデルT(1908 - 1927)の1500万7033台という生産記録を追い抜いた。

ゴルフを始めとする1970年代の前輪駆動車へのシフトで、本国ドイツのヴォルフスブルク工場では1978年を最後に製造が終了した。ドイツ最終生産期の500台に、ヤナセが専用シートやノベルティグッズを付けグローリービートルという名の限定車を用意し、日本に運ばれる途中で全て予約完売したという逸話が残っている。

その後も、長期量産によるコストダウンで需要が高かったメキシコでは生産を継続、ブラジルでも一時生産中止していたビートルを生産再開した時期があった。これらは現地での国民車として広く用いられ、他国のマニアからも「新車のビートル」として並行輸入ルートなどで珍重された。

2003年7月30日[4][1]、メキシコ工場でタイプ1の最終車両が完成し、総生産台数約2153万台を達成して生産終了となった。発表以来、基本的な設計を変えずに2000万台以上を生産した四輪乗用車は、他に存在しない[10]

派生車種

ドイツ人はオープンモデルへの志向が強く、タイプ1(ビートル)をベースにした2シーターカブリオレ(ヘブミューラー製 1949年~1953年)と、4シーターカブリオレ(カルマン製 1949年~1979年)が生産されている。

さらに、ビートルのコンポーネンツを用いた本格的なスポーツクーペとしてイタリアのギア社のデザインしたボディをドイツのカルマンで生産した「カルマンギア」(1955年、タイプ3系カルマンギアは1961年)は、洒落たスタイルで人気を博した。

ビートルのリアエンジンシャーシは応用範囲が広く、これを流用ないし強化する形で、広大な荷室を備える先進的ワンボックス車のタイプ2(1950年)や、ノッチバック、ファストバック、ワゴンを擁す幅広ポンツーン・スタイルのタイプ3(1961年)、多目的車のタイプ181(1969年)などがラインアップに加えられてきた。

またVW社外においても、エンジン・シャーシとも改造の余地が広く、しかも廉価で信頼性が高いというメリットを買われ、小メーカーの限定生産車や、アマチュアのハンドメイドカーのベースに好んで用いられた。端的な実例は、ポルシェ最初の自社市販モデルとなったポルシェ・356(1948年発表)であり、そのエンジンやサスペンションはあらかたVW・タイプ1に由来するものである。新品・中古を問わず、シャーシおよびドライブトレーンを流用して別製のボディを載せたカスタムカーや、エンジンのみを流用した各種のスペシャルが、世界各地で多数製作されたが、それらバリエーションは枚挙に暇のないほど多彩である。


注釈

  1. ^ ヒトラーが同時期にフリッツ・トートを起用して広域整備を計画していた、自動車専用高速道路ライヒスアウトバーン」を念頭に置いた条件である。1930年代中期、この速度を保って巡航できる1.0 Lクラスの4座小型乗用車は、世界的に見てもいまだほとんど存在していなかった。
  2. ^ 当時、水冷エンジンは冬期の冷却水凍結によるトラブルや始動困難が多く、寒冷なドイツではその対策が切実な課題であったため。またヒトラーはタトラの小型空冷エンジン車に、その簡易さと耐久性の高さから傾倒していた。
  3. ^ ただし、ヒトラー自身は流線型デザインの理論面を充分に理解していなかった。ヒトラーがポルシェとの会談で自ら描いて提示した「自動車」の側面図が残っているが、前方こそ当時から知られていた通俗的な流線型車の丸みを帯びているものの、後部は四角いノッチバックで、いわゆるヤーライ型流線型車に属するのちのタイプ1とはまったく関連性がない。
  4. ^ ドイツ・フォードは1932年からケルン工場で、大衆車市場への参入を狙って1000 - 1200 ccクラスの小型乗用車「ケルン」「アイフェル」を相次いで生産していた。1939年には「アイフェル」の後継モデルである流線型ボディの初代「タウヌス」(1172 cc・34 HP)を発売、このタウヌスシリーズは第二次世界大戦後の生産再開以降、フォルクスワーゲンのドイツ市場における競合車種となっている。
  5. ^ 車名は文字通りの「国民車」である「フォルクスワーゲン」として計画されていたが、ヒトラーは下話もなくいきなり「KdF」と車名を決定してしまったため、公式名称やPR資料等の変更に周囲が奔走する羽目になった。
  6. ^ 日本では1960年代以降、自治体消防救急車を配備しての救急搬送が普及し始めるまで、急患の場合はかかりつけの開業医に自宅まで往診してもらうことが普通であった。この往診の移動需要から、日本の開業医は近代以前には駕籠明治時代以降は人力車自転車、更にはオートバイや自動車といった新しい交通手段の先駆的ユーザーとなってきた歴史がある。

出典

  1. ^ a b c d e f g フォルクスワーゲン・ビートル(1947年)”. GAZOO. 2020年7月3日閲覧。
  2. ^ 椎橋 2011, pp. 100, 105.
  3. ^ 椎橋 2011, pp. 104–105.
  4. ^ a b Volkswagen社、旧型「Beetle」の生産を終了 日経BPネット 2003年8月1日
  5. ^ VW「ビートル」生産終了へ 80年の歴史を持つ名車朝日新聞DIGITAL(2018年9月14日)2018年9月20日閲覧。
  6. ^ VW、ビートルの生産を終了 初代から80年の歴史に幕”. 毎日新聞 (2019年7月11日). 2019年7月11日閲覧。
  7. ^ 椎橋 2011, p. 101.
  8. ^ 椎橋 2011, p. 103.
  9. ^ ワーゲン・ストーリー J・スロニガー著/高斎正 グランプリ出版 ISBN 4-906189-24-5
  10. ^ a b c 椎橋 2011, p. 105.
  11. ^ 椎橋 2011, pp. 103–104.
  12. ^ 三栄書房「ラリー&クラシックス Vol.4 ラリーモンテカルロ 100年の記憶」内「ラリーモンテカルロ・ヒストリック マシン総覧」より抜粋、参考。
  13. ^ F-Vee誕生50年を祝い、デイトナに名選手集結へ
  14. ^ 占いやらレコードやら 何かいい事・・・ -マニアどたん場の殺到 読売新聞 1977年12月24日 夕刊8頁






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