甲号券
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日本軍が従来発行していたスタイルの縦型の軍票。1937年に発行されたが、デザインが明治通宝のものを用いたため陳腐化しており、額面300万円しか使われなかった。
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甲号券
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甲号券
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1899年(明治32年)9月16日の大蔵省告示第51号「兌換銀行券ノ内拾圓券改造發行」で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り。 日本銀行兌換券 額面 拾圓(10円) 表面 和気清麻呂(紙幣面の人名表記は「和氣清麻呂卿」)と護王神社拝殿(紙幣面の注記は「護王神社」)、兌換文言、発行根拠文言、偽造変造罰則文言 裏面 猪、英語表記の兌換文言、断切文字、製造年 印章 〈表面〉総裁之印 〈裏面〉文書局長、発行局長 銘板 大日本帝國政府印刷局製造 記番号仕様記番号色 黒色 記番号構成 (製造時期により2種類あり)〈記号〉変体仮名1文字+「號」 〈番号〉通し番号:漢数字6桁 〈記号〉組番号:「<」+数字1 - 2桁+「>」 〈番号〉通し番号:漢数字6桁 寸法 縦96mm、横159mm(縦3寸1分5厘、横5寸2分5厘) 製造実績印刷局から日本銀行への納入期間 1899年(明治32年)下期 - 1914年(大正3年)12月18日 記号(組番号)範囲 「い號」 - 「す號」/1 - 38(いずれも1記号当たり900,000枚製造) 製造枚数 42,300,000枚[記号:変体仮名] 33,410,000枚[記号:アラビア数字] 発行開始日 1899年(明治32年)10月1日 通用停止日 1939年(昭和14年)3月31日 発行終了 失効券 1897年(明治30年)10月の貨幣法施行および兌換銀行券条例の改正による銀本位制から金本位制への移行に伴い、金兌換券として発行された。 肖像は和気清麻呂であり、エドアルド・キヨッソーネの彫刻した改造拾圓券の肖像のイメージを変えない範囲で新たに彫刻している。表面には和気清麻呂の肖像のほか、京都市上京区にある護王神社の拝殿を正面から眺めた風景が描かれている。肖像になっている和気清麻呂は猪によって難事を救われたとの伝説があり、甲号券では人物肖像だけではなく関連する建物や動物なども図柄として描くこととしたことから、肖像に関連する図柄として裏面には疾走する猪が描かれている。そのデザインから、通称は「裏猪10円」であるほか、当時は一般に「イノシシ札」と呼ばれていた。また、裏面左端に製造年が和暦で記載されており、裏面右端には「日本銀行」の断切文字(割印のように券面内外に跨るように印字された文字)が配置されている。 当初は記号がいろは順の変体仮名であったが、いろは47文字を全て使い切ったため、1910年(明治43年)9月以降の発行分は記号がアラビア数字となった。通し番号は漢数字であるが、変体仮名記号とアラビア数字のもので書体が異なり、「2」に対応する漢数字は変体仮名記号のもので「貳」、アラビア数字記号のもので「弍」となっている。 1913年(大正2年)に日本銀行発行局が文書局に統合されたことに伴い発行局長の役職が廃止された。これにより、1914年(大正3年)以降の製造年表記で裏面に発行局長の印章が印刷された甲号券を発行することは不都合が生じることとなるため、1914年(大正3年)以降に製造された甲号券の製造年の記年号については「大正2年」表記のまま据え置いた状態で発行されている。 甲拾圓券の変遷の詳細を下表に示す。 発行開始日日本銀行への納入期間記号/組番号範囲記号/組番号表記通し番号表記記年号1899年(明治32年)10月1日 1899年(明治32年)下期 - 1909年(明治42年)上期 「い號」 - 「す號」 変体仮名 漢数字 明治32年 - 明治42年 1910年(明治43年)9月1日 1909年(明治42年)下期 - 1914年(大正3年)12月18日 1 - 38 アラビア数字 明治42年 - 大正2年 透かしは「拾圓」の文字と桐の図柄である。 使用色数は、表面4色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様1色、印章1色、記番号1色)、裏面2色(内訳は凹版印刷による主模様1色、印章・断切文字・製造年1色)となっている。 1927年(昭和2年)2月に制定された兌換銀行券整理法により1939年(昭和14年)3月31日限りで通用停止となった。
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甲号券
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1917年(大正6年)11月9日の大蔵省告示第176号「兌換銀行券貳拾圓券發行見本略圖」で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り。 日本銀行兌換券 額面 貳拾圓(20円) 表面 菅原道真、兌換文言 裏面 北野天満宮拝殿、英語表記の兌換文言、断切文字 印章 〈表面〉総裁之印 〈裏面〉文書局長 銘板 大日本帝國政府印刷局製造 記番号仕様記番号色 黒色 記番号構成 〈記号〉組番号:「{」+数字1 - 2桁+「}」 〈番号〉通し番号:数字6桁 寸法 縦86mm、横149mm(縦2寸8分6厘、横4寸9分3厘) 製造実績印刷局から日本銀行への納入期間 1917年(大正6年)10月26日 - 1927年(昭和2年)6月10日 記号(組番号)範囲 1 - 29(1記号当たり900,000枚製造) 製造枚数 26,770,000枚 発行開始日 1917年(大正6年)11月20日 通用停止日 1939年(昭和14年)3月31日 発行終了 失効券 第一次世界大戦等に伴う好景気により通貨の需要が増加したため、それまで発行されていた百円紙幣と十円紙幣の中間券種として発行された。日本銀行券としては初の「2」の付く額面金額の紙幣である。金額の「貳拾圓」の文字が横書きであることから、通称は「横書き20円」である。 表面には菅原道真の肖像、裏面には京都市上京区にある北野天満宮拝殿の風景が描かれている。裏面には彩紋模様と英語表記の兌換文言が記載されているが、当時ヨーロッパを中心に流行していたアール・ヌーヴォー調のデザインとなっており、裏面右端には「日本銀行」の断切文字(割印のように券面内外に跨るように印字された文字)が配置されている。また、英語表記での兌換文言が記載された最後の紙幣である。 透かしは「日本銀行」の文字と亀甲模様である。 使用色数は、表面5色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様2色、地模様の一部・印章1色、記番号1色)、裏面3色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様1色、印章・断切文字1色)となっている。 1927年(昭和2年)2月に制定された兌換銀行券整理法により1939年(昭和14年)3月31日限りで通用停止となった。
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甲号券
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1899年(明治32年)3月18日の大蔵省告示第10号「兌換銀行券中改正」で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り。 日本銀行兌換券 額面 五圓(5円) 表面 武内宿禰(紙幣面の人名表記は「武内大臣」)と宇倍神社全景(紙幣面の注記は「宇倍神社」)、偽造変造罰則文言 裏面 彩紋、兌換文言、英語表記の兌換文言、発行根拠文言、断切文字、製造年 印章 〈表面〉総裁之印 〈裏面〉文書局長、発行局長 銘板 大日本帝國政府印刷局製造 記番号仕様記番号色 黒色 記番号構成 (製造時期により2種類あり)〈記号〉変体仮名1文字+「號」 〈番号〉通し番号:漢数字6桁 〈記号〉組番号:「<」+数字1 - 2桁+「>」 〈番号〉通し番号:漢数字6桁 寸法 縦85mm、横146mm(縦2寸8分2厘、横4寸8分2厘) 製造実績印刷局から日本銀行への納入期間 1898年(明治31年)10月 - 1910年(明治43年)11月26日 記号(組番号)範囲 「い號」 - 「す號」/1 - 15(いずれも1記号当たり900,000枚製造) 製造枚数 42,300,000枚[記号:変体仮名] 10,850,000枚[記号:アラビア数字] 発行開始日 1899年(明治32年)4月1日 通用停止日 1939年(昭和14年)3月31日 発行終了 失効券 1897年(明治30年)10月の貨幣法施行および兌換銀行券条例の改正による銀本位制から金本位制への移行に伴い、金兌換券として発行された。 表面中央に武内宿禰が描かれていることから通称は「中央武内5円」である。肖像は武内宿禰であり、エドアルド・キヨッソーネの彫刻した改造一円券の肖像のイメージを変えない範囲で日本人らしい風貌となるよう新たに彫刻している。左側には鳥取県鳥取市にある宇倍神社の鳥居と灯篭が、右側には木々の間からのぞき見える拝殿の屋根が描かれており、左右合わせて宇倍神社の境内を遠望した全景を描く構図となっている。また、表面の輪郭や肖像を囲む円形の下部には分銅があしらわれている。裏面左端に製造年の記年号が和暦で記載されており、裏面右端には「日本銀行」の断切文字(割印のように券面内外に跨るように印字された文字)が配置されている。 当初は記号がいろは順の変体仮名であったが、いろは47文字を全て使い切ったため、それ以降の発行分は記号がアラビア数字となった。通し番号は漢数字であるが、変体仮名記号とアラビア数字のもので書体が異なり、「2」に対応する漢数字は変体仮名記号のもので「貳」、アラビア数字記号のもので「弍」となっている。 甲五圓券の変遷の詳細を下表に示す。 発行開始日日本銀行への納入期間記号/組番号範囲記号/組番号表記通し番号表記記年号1899年(明治32年)4月1日 1898年(明治31年)10月 - 1907年(明治40年)上期 「い號」 - 「す號」 変体仮名 漢数字 明治32年 - 明治40年 不明 1907年(明治40年)下期 - 1910年(明治43年)11月26日 1 - 15 アラビア数字 明治40年 - 明治43年 透かしは「五圓」の文字と枝桐の図柄である。 使用色数は、表面4色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様1色、印章1色、記番号1色)、裏面2色(内訳は凹版印刷による主模様1色、印章・断切文字・製造年1色)となっている。 1927年(昭和2年)2月に制定された兌換銀行券整理法により1939年(昭和14年)3月31日限りで通用停止となった。
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甲号券
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 15:24 UTC 版)
1942年(昭和17年)4月16日の大蔵省告示第178号「兌換銀行券千圓券發行」で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り。 日本銀行兌換券 額面 千圓(1,000円) 表面 日本武尊と建部神社本殿、兌換文言 裏面 彩紋、断切文字 印章 〈表面〉総裁之印 〈裏面〉文書局長、発行局長 銘板 内閣印刷局製造 記番号仕様記番号色 黒色 記番号構成 〈記号〉組番号:「{」+数字1桁+「}」 〈番号〉通し番号:数字6桁 寸法 縦100mm、横172mm 製造実績印刷局から日本銀行への納入期間 1941年(昭和16年)12月26日 - 1943年(昭和18年)9月28日 記号(組番号)範囲 1 - 9(1記号当たり900,000枚製造) 製造枚数 8,100,000枚 発行開始日 1945年(昭和20年)8月17日(告示上:1942年(昭和17年)4月20日) 通用停止日 1946年(昭和21年)3月2日(証紙貼付券に限り1946年(昭和21年)10月31日) 失効券 第二次世界大戦後のインフレーション抑制を目的とした金融緊急措置令などに基づく新円切替が行われる以前(旧円)の最高額紙幣である。 戦時インフレ発生の懸念から更なる高額券の準備が必要となったため1941年(昭和16年)に製造を開始した。1942年(昭和17年)の大蔵省告示で様式と発行開始日が公示されたが、これは1942年(昭和17年)2月の日本銀行法施行に伴い、1942年(昭和17年)5月1日以降はそれ以前から発行されている券種を除き「兌換銀行券」の名称を用いた新たな銀行券を発行できなくなるため、既に製造されていた甲千圓券が発行できない状況に陥らないようにすることを目的とした形式的なものである。そのような事情で発行されたため、発行後数年間は日本銀行に死蔵されることになる。 そして終戦直後の1945年(昭和20年)8月17日に他の新紙幣の発行とともに流通が開始されたが、新円切替に伴い発行から1年も経たず、1946年(昭和21年)3月2日限りで失効した。製造数は8,100,000枚(うち発行数は不明)。失効後も証紙を貼り付けて臨時に新様式券(新円)の代わりとする「証紙貼付銀行券」が発行され流通・通用したが、この「証紙貼付銀行券」も新円の流通拡大に伴い1946年10月末に失効した。 表面右側には福井県吉田郡永平寺町にある二本松山古墳から出土した古墳時代の「金銅製冠」および「短甲」を身に着けた日本武尊の肖像が描かれている。なお日本武尊の肖像は、文献資料や絵画・彫刻を参考にしつつ帝室博物館学芸員の関保之助の考証を基に、高松宮宣仁親王をモデルとしてデザインしたものとされる。表面左側には滋賀県大津市にある建部神社(現・建部大社)の本殿が描かれている。輪郭には唐草模様の他に、勾玉、宝相華、桐紋が散りばめられており、地模様として八稜鏡型の輪郭と、その外側に瑞雲、宝相華、菊花があしらわれている。「日本銀行兌換券」と表記されているものの、実質的な発行開始時点で既に1942年(昭和17年)5月の日本銀行法施行により金本位制が廃止されていたため、実質的にも法的にも不換紙幣として扱われており金貨との兌換は行われていなかった。 裏面には彩紋と共に、宝相華、桐、唐草模様などが印刷されている。裏面右端には「日本銀行」の断切文字(割印のように券面内外に跨るように印字された文字)が配置されている。 透かしは「1000」の文字と鳳凰の図柄である。透かし模様が確認しやすいよう、透かしの入った中央部分は文字と淡い印刷色の地模様のみの印刷となっている。 使用色数は、表面7色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様4色、印章1色、記番号1色)、裏面4色(内訳は凹版印刷による主模様1色、地模様2色、印章・断切文字1色)となっている。 なお額面金額1000円のA号券(A千円券)は検討が行われ、後述の通り2種類の図案が考案されたものの結局発行されなかった。 このように甲千圓券は短命な超高額券であった。発行枚数が少なく、かつ高額券ゆえほとんど回収されたため、現存数は多くない。2014年(平成26年)現在の価格に換算すると約180万円ほどの額に相当する。またこの紙幣の現代の古銭的価値も数万円以上の値がつくことがある。 製造された甲千圓券の一部は台湾銀行に引き渡され、裏面に銀行名や印章の加刷を行ったうえで1945年(昭和20年)8月の終戦直後に台湾でも発行された。このほか朝鮮銀行に対しても同様に終戦直後に甲千圓券の一部が引き渡され、台湾同様に現地で発行するため表面に題号の加刷が行われたものの、こちらは発行準備のみで実際の発行には至らなかった。
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