日本画家として
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路可の父・杉村清吉は、東京・芝で糸組物を生業とし、洋風のカーテン地とともに、内閣府賞勲局の大給恒の下で勲章の布の部分である綬(じゅ)の製造販売に当たっていた。明確に美術に関心を持ち作品が残っているのは中学校時代からで、カトリック入信時の洗礼名が画家の守護聖人ルカ。この時代の作品は水彩、油絵が中心だが、暁星中学校卒業後、渡邊華石に師事し、南画を習得している。東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学し、大和絵の松岡映丘に師事してからは、大和絵(国画)に専心する。卒業制作が《流さるる教徒》であることからも分かるように、路可はこのとき既に、日本画でキリスト教世界を描くという自らのスタイルを確立させている。 東京美術学校卒業直後には、一転して若き日の憧れを抱いて、大戦間のパリに遊学する。西洋絵画を学んですぐに頭角を現すことになるが、西域壁画を模写する仕事で日本画の源流といったものを肌で感じ、アール・デコ博覧会で美術の新しい潮流に触れたことを経て、自らの「青の時代」に終止符を打つように1926年に制作した《南仏海岸風景》は水墨画で、この作品はサロン・ドートンヌ展に入選している。南仏の海辺を訪れたとき故郷の湘南の海を思い出したのだろうか、異国の海岸の風景といったものを、これまでの日本画家の誰も題材にしたことはおそらくなかったろう。日本人の洋画家の多くが西洋の近代的な絵画に追従しようとしていたときに、路可は西洋の古典的なフレスコ画を学び、そして、まるで自分自身を新たに発見するように描いたのが《南仏海岸風景》で、この作品にある洋の東西を超えていく想像力は、路可の日本画の大きな特徴になっていく。 1927年、パリから帰国後は、師・松岡映丘らが結成していた「新興大和絵会」と行動を共にしたが、しばらくは主にフレスコ画を出品していた。1935年、「帝展」の改組で画壇が大きく揺れ、松岡映丘は長年勤めた母校東京美術学校を辞し、同年9月に門下を合わせ「国画院」を結成すると、長谷川路可も結成メンバーの一員となった。1937年「国画院同人第一回展」に路可は《トレドに於ける映丘先生像》(日本画)を出品する。ただ、翌年の映丘の死去により活動が休止したこともあり、「新興大和絵会」の東京美術学校時代の仲間だった遠藤教三・狩野光雅と「三人展」(後に「翔鳥会」と改称)を組織したが、戦況の悪化もあって6年ほどで活動は終了した。 路可は自らを表現するという近代的な芸術家であるとともに、絵を描くことで風景を写し取り、絵を描くことで人に敬意を表し、絵を描くことで人を楽しませることのできた稀有な画家だった。1925年(大正14年)、ブリュッセルの日本大使館で行われた朝香宮鳩彦王のベルギー王室への答礼の晩餐会で、エリザベート王妃の「藤の花を」というご希望をその場で席画して、ものの数分間で描き上げてご覧にいれたという逸話が残っている。 日本画でキリスト教世界を描くというのは、東京美術学校時代から一貫したテーマであったが、中でも1949年に「第十回カトリック美術協会展」に出品し、翌年バチカンのサンピエトロで行われた「布教美術展」に多くの日本人画家とともに出品した二双一曲の屏風絵《受胎告知》(現・教皇庁立ウルバニアーナ大学所蔵)は、左隻に百合の花を捧げる少女のような大天使ガブリエル、右隻に青いガウンを着て書見台の前で腕を交差させてお告げを受け入れる聖母マリアというルネサンス期の巨匠が描いたスタイルを踏襲しながら、日本画らしいシンプルな表現で見事にキリスト教世界を描き出している。 路可の代表作であるチヴィタヴェッキア「日本聖殉教者教会」の天井画《聖母子像》もまた、フレスコ画ではあるものの、その線は日本画そのものである。室町時代の盛装をした聖母マリアと、お稚児さんのような身なりをしたイエス・キリスト。若い頃から修練した日本画の技術と、カトリック信者としての信仰、さらにはおそらく長崎の潜伏キリシタンが信仰したとされる「マリア観音」への共感もあって、この和装の《聖母子像》を作り上げたのに違いない。チヴィタヴェッキアの祭壇画《日本二十六聖人殉教図》にしても、長崎の「日本二十六聖人記念館」の《長崎への道》にしても、フレスコ画でありながら、その表現は日本画のスタイルを踏襲している。路可の日本画家としてのキャリアは、日本画の枠を越えて、フレスコ画の大作へと結実していった。
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日本画家として
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東京藝術大学で助手を務めていた1959年ごろ、原爆後遺症(白血球減少)で一時は死も覚悟したなか玄奘三蔵をテーマとする『仏教伝来』を描きあげ院展に入選する。以降、郁夫の作品には仏教をテーマとしたものが多い。 仏教のテーマはやがて、古代インドに発生した仏教をアジアの果ての島国にまで伝えた仏教東漸の道と文化の西と東を結んだシルクロードへの憧憬につながっていった。そのあと、郁夫はイタリアやフランスなど、ヨーロッパ諸国も訪ねている。 郁夫は1960年代後半からたびたびシルクロードの遺跡や中国を訪ね、極寒のヒマラヤ山脈から酷暑のタクラマカン砂漠に至るまでシルクロードをくまなく旅している。その成果は奈良・薬師寺玄奘三蔵院の壁画に結実している。 アッシジのサン・フランチェスコ聖堂壁画の模写、法隆寺金堂壁画の模写、高松塚古墳壁画の模写する。ユネスコ親善大使として中国と北朝鮮を仲介して高句麗前期の都城と古墳と高句麗古墳群の世界遺産同時登録に寄与した功績で韓国政府より修交勲章興仁章(2等級)を受章。 また、国内外を問わず長年にわたって後進の指導に当たる。日本への敦煌研究者及び文化財修復者など受け入れ事業などを提唱し、敦煌莫高窟の壁画修復事業にあたって日本画の岩絵具を用いた重ねの技法を指導するなど、現地で失われた美術技法の再構築と人材育成に尽力した。「文化財赤十字活動」の名のもとカンボジアのアンコール遺跡救済活動、敦煌の莫高窟の保存事業、南京城壁の修復事業、バーミヤンの大仏保護事業などの文化財保護や相互理解活動が評価される。その活動は幅広く社会への影響も大きい。
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日本画家として
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パリやフランスの歴史的建造物を愛し、墨という伝統ある古くからの技法を用いてフランスの建築家への敬意を表現している。武蔵野美術大学日本画科卒業後は、フランス各地をスケッチした。その後、パリの街並みや教会、聖堂のスケッチを元にした墨絵作品を発表した。制作材料として中国の清・明の時代の貴重な古墨を使用している。継続的に日展、日春展等に出品している。 長年、パリの下町や、シャルトル、ルーアンなどの風景に存在する光と影、それを取り巻く空気までも墨絵と日本画で表現することを試みている。一般的に、西洋の美と東洋の美は、まるで水と油のように相容れないものと考えられる中、根底ではつながっていると主張している。墨絵が織り成すモノトーンの世界を、モダンで斬新なものと捉えている。また、極めてシンプルに余分なものを取り去る日本画のスタイルは、現代アートにつながる抽象的表現であると考えている。墨絵や日本画の表現方法に関する探求は、東洋の美意識や日本の伝統に裏打ちされており、これらに基づく創作活動を続けている。 個展活動「墨で描くパリの光と影」展は、フランス大使館より何度も後援されており、フランスとの関係が深いといえる。支援者には、元フランス大統領のジャック・シラクをはじめ歴代在日フランス大使が挙げられる。
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