日本画家としてとは? わかりやすく解説

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日本画家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:05 UTC 版)

長谷川路可」の記事における「日本画家として」の解説

路可の父・杉村清吉は、東京で糸組物生業とし、洋風カーテンとともに内閣府賞勲局大給恒の下で勲章の布の部分である綬(じゅ)の製造販売当たっていた。明確に美術関心持ち作品残っているのは中学校時代からで、カトリック入信時の洗礼名画家守護聖人ルカ。この時代作品水彩油絵中心だが、暁星中学校卒業後、渡邊華石師事し南画習得している。東京美術学校(現・東京芸術大学日本画科に入学し大和絵松岡映丘師事してからは、大和絵国画)に専心する卒業制作が《流さるる教徒》であることからも分かるように、路可はこのとき既に、日本画キリスト教世界を描くという自らのスタイル確立させている。 東京美術学校卒業直後には、一転して若き日憧れ抱いて大戦間パリ遊学する西洋絵画学んですぐに頭角を現すことになるが、西域壁画模写する仕事日本画源流といったものを肌で感じアール・デコ博覧会美術新し潮流触れたことを経て、自らの「青の時代」に終止符を打つように1926年制作した南仏海岸風景》は水墨画で、この作品サロン・ドートンヌ展に入選している。南仏海辺訪れたとき故郷湘南の海を思い出しただろうか異国海岸風景といったものを、これまでの日本画家誰も題材にしたことはおそらくなかったろう。日本人洋画家多く西洋近代的な絵画追従しようとしていたときに、路可は西洋古典的なフレスコ画学び、そして、まるで自分自身新たに発見するように描いたのが《南仏海岸風景》で、この作品にある洋の東西超えていく想像力は、路可の日本画大きな特徴になっていく。 1927年パリから帰国後は、師・松岡映丘らが結成していた「新興大和絵会」と行動を共にしたが、しばらくは主にフレスコ画出品していた。1935年、「帝展」の改組画壇大きく揺れ松岡映丘長年勤めた母校東京美術学校辞し同年9月門下合わせ国画院」を結成すると、長谷川路可結成メンバー一員となった1937年国画同人第一回展」に路可は《トレドに於ける映丘先生像》(日本画)を出品する。ただ、翌年の映丘の死去により活動休止したこともあり、「新興大和絵会」の東京美術学校時代仲間だった遠藤教三・狩野光雅と「三人展」(後に「翔鳥会」と改称)を組織したが、戦況の悪化もあって6年ほどで活動終了した。 路可は自らを表現するという近代的な芸術家であるとともに絵を描くことで風景写し取り絵を描くことで人に敬意表し絵を描くことで人を楽しませることのできた稀有画家だった。1925年大正14年)、ブリュッセル日本大使館行われた朝香宮鳩彦王ベルギー王室への答礼晩餐会で、エリザベート王妃の「藤の花を」というご希望その場席画して、ものの数分間描き上げてご覧にいれたという逸話残っている。 日本画キリスト教世界を描くというのは、東京美術学校時代から一貫したテーマであったが、中でも1949年に「第十カトリック美術協会展」に出品し翌年バチカンサンピエトロ行われた布教美術展」に多く日本人画家とともに出品した二双一曲屏風絵受胎告知》(現・教皇庁立ウルバニアーナ大学所蔵)は、左隻に百合の花捧げる少女のような大天使ガブリエル、右隻に青いガウン着て書見台の前で腕を交差させてお告げ受け入れ聖母マリアというルネサンス期巨匠描いたスタイル踏襲しながら、日本画らしいシンプルな表現見事にキリスト教世界描き出している。 路可の代表作であるチヴィタヴェッキア日本聖殉教者教会」の天井画聖母子像》もまた、フレスコ画ではあるものの、その線は日本画そのものである。室町時代盛装をした聖母マリアと、お稚児さんのような身なりをしたイエス・キリスト若い頃から修練した日本画技術と、カトリック信者としての信仰さらにはおそらく長崎潜伏キリシタン信仰しとされるマリア観音」への共感もあって、この和装の《聖母子像》を作り上げたのに違いないチヴィタヴェッキア祭壇画日本二十六聖人殉教図》にしても長崎の「日本二十六聖人記念館」の《長崎への道》にしてもフレスコ画ありながら、その表現日本画スタイル踏襲している。路可の日本画家としてのキャリアは日本画越えてフレスコ画大作へと結実していった

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日本画家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 06:04 UTC 版)

平山郁夫」の記事における「日本画家として」の解説

東京藝術大学助手務めていた1959年ごろ、原爆後遺症白血球減少)で一時は死も覚悟したなか玄奘三蔵テーマとする『仏教伝来』を描きあげ院展入選する。以降、郁夫の作品には仏教テーマしたものが多い。 仏教テーマはやがて、古代インド発生した仏教アジア果て島国にまで伝えた仏教東漸の道と文化の西と東を結んだシルクロードへの憧憬つながっていった。そのあと、郁夫はイタリアフランスなど、ヨーロッパ諸国訪ねている。 郁夫は1960年代後半からたびたびシルクロード遺跡中国訪ね極寒ヒマラヤ山脈から酷暑タクラマカン砂漠に至るまでシルクロードくまなく旅している。その成果奈良・薬師寺玄奘三蔵院の壁画結実している。 アッシジサン・フランチェスコ聖堂壁画の模写法隆寺金堂壁画模写高松塚古墳壁画模写するユネスコ親善大使として中国北朝鮮仲介して高句麗前期の都城と古墳高句麗古墳群世界遺産同時登録に寄与した功績韓国政府より修交勲章興仁章2等級)を受章また、国内外問わず長年わたって後進の指導に当たる日本への敦煌研究者及び文化財修復者など受け入れ事業などを提唱し敦煌莫高窟壁画修復事業にあたって日本画岩絵具用いた重ね技法指導するなど、現地失われた美術技法再構築人材育成尽力した。「文化財赤十字活動」の名のもとカンボジアアンコール遺跡救済活動敦煌莫高窟保存事業南京城壁の修復事業バーミヤン大仏保護事業などの文化財保護相互理解活動評価されるその活動幅広く社会への影響大きい。

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日本画家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 01:48 UTC 版)

沼本三郎」の記事における「日本画家として」の解説

パリフランスの歴史建造物愛し、墨という伝統ある古くからの技法用いてフランス建築家への敬意表現している。武蔵野美術大学日本画卒業後は、フランス各地スケッチしたその後パリ街並み教会聖堂スケッチ元にした墨絵作品発表した制作材料として中国清・明時代貴重な古墨使用している。継続的に日展日春展等に出品している。 長年パリ下町や、シャルトルルーアンなどの風景存在する光と影、それを取り巻空気までも墨絵日本画表現することを試みている。一般的に西洋の美と東洋の美は、まるでと油のように相容れないものと考えられる中、根底ではつながっていると主張している。墨絵織り成すモノトーン世界を、モダン斬新なものと捉えている。また、極めてシンプルに余分なものを取り去る日本画スタイルは、現代アートにつながる抽象的表現であると考えている。墨絵日本画表現方法に関する探求は、東洋美意識日本の伝統裏打ちされており、これらに基づく創作活動続けている。 個展活動「墨で描くパリ光と影」展は、フランス大使館より何度も後援されており、フランスとの関係が深いといえる支援者には、元フランス大統領ジャック・シラクをはじめ歴代在日フランス大使挙げられる

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