後進の指導に当たるとは? わかりやすく解説

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後進の指導に当たる

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 07:34 UTC 版)

小谷澄之」の記事における「後進の指導に当たる」の解説

五輪大会後は、IOC委員としてロサンゼルス五輪臨席していた嘉納治五郎と共にカリフォルニアでの柔道大会参加し小谷その場ロサンゼルス在住有段者相手15人掛を披露している。翌33年1940年五輪大会東京誘致すべく嘉納ウィーン開催IOC会合赴く際には、嘉納娘婿である鷹崎正見6段と共にこの随行役として抜擢され5月から12月まで半年上の長期に渡る欧州各地での柔道巡回指導一翼担った満州から遠路はるばるシベリア鉄道渡欧し始まったこの行程では、嘉納寝食を共にしながら現地での指導デモンストレーション等を行い小谷回顧拠れば現地巨人連中指導した時には真剣試合をしたりしたが、相手をいくら投げて一度嘉納から褒められた事は無かったという。それでもこの様子は各地新聞大々的取り上げられ、「JUDO」の名は急速に広まっていった。その後1937年12月には講道館より7段位拝受1939年には5月から12月まで、南米各国指導して周った。 戦後1946年12月満州から引き揚げ大阪大阪柔道クラブ創設して約250人の後進指導した1949年6月より講道館奉職して以後は、同館渉外部(現・国際部)参与審議会審議員、道場幹事長、同指導本部長といった要職担い国内外問わず斯道普及振興尽力した小谷指導仰いだ細川9段拠れば小谷同郷同窓等に拘る事も無く柔道愛する者であれば等しく誠意傾けて接していたという。以後その人格と技量買われ柔道指導のために歴訪した国は前述欧州各国のほか、米国フィリピンビルマカナダ等、実に十数各国にも及んだ。特に1953年から1957年迄の5年間は、毎年渡米して2カ月米国空軍指導する程の熱の入れ様だった。曰く、「各国柔道人と肌を触れ合い、共に汗を流していると、これほど楽しい事は無い」「柔道衣姿が、肉親同様の親近感を思わす」との事。 高段者の中には年を重ねてからというもの柔道衣を着用しなくなる者も少なくない中で、小谷晩年まで稽古衣に袖を通して講道館大道場立ち続け実際に若者らに胸を貸して汗を流していた点は特筆される東京都品川区南大井に居を構え1953年から法務省矯正局教官日本体育協会参与就任1968年には東海大学教授拝命して、そちらでも門生柔道指導当たった

※この「後進の指導に当たる」の解説は、「小谷澄之」の解説の一部です。
「後進の指導に当たる」を含む「小谷澄之」の記事については、「小谷澄之」の概要を参照ください。

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