事件と捜査
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小笛の縊死体の写真(左)とスケッチ(右・矢野鑑定書付図) 6月27日、小笛とAは出町柳の知人宅を訪れ、その家の2人の娘(5歳と3歳)を預かっていった(平松家はこの知人一家と親しく、子供たちを家に泊めることもよくあった)。しかし、その後数日経っても小笛らが姿を見せないことを不審に思った知人は、同月30日に巡査に頼んで小笛宅の鍵を開け、屋内を確かめることにした。そしてそこには、寝床の中で手拭で絞殺されている2人の娘とA、そして鴨居から兵児帯で首を吊っている小笛の4人の遺体があった。 現場には外部からの出入りの痕跡はなく、遺体の様子は一見して、小笛が知人の娘たちを巻き込んで母子心中を図ったもののように思われた。だが、直後に予審判事が行った現場検証では、小笛の遺体には索溝(首を絞めつけられた痕)が2条ある点や、両足が床に着くほどに兵児帯の位置が低い点など、自殺としては不自然に思われる部分が発見された。
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事件と捜査
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1950年(昭和25年)5月10日深夜、静岡県庵原郡小島村(現・静岡市清水区)で、飴製造業者の妻B(当時32歳)が薪割り斧で撲殺された。現場のタンスや金庫には物色された跡があり、後に2500円が奪われていることが分かった。Bの夫は引越し準備のため不在であったが、現場に居合わせた夫妻の子供は、犯行直後に坊主頭でカーキ色の服を着た男が逃げてゆくのを目撃している。現場の時計が11時37分で止まっていたことから、犯行時刻はその前後であると推定された。 翌朝には国警静岡県本部から、警部補の紅林麻雄を主任とした捜査員らが派遣された。狙われた家は村でも大きくなく、被害者一家には家業で儲けているとの噂もあったことなどから、紅林らは内情を知る村の者が金銭目当てで犯行に及んだ、と推測した。だが、大規模な捜査によっても手掛かりはなく、また村人のほとんどが縁者であったことからも捜査は難航した。 しかし、事件から1か月が過ぎようとしていた頃、村人たちへの聞き込みから、同村の農民であるA(当時27歳)が浮かび上がった。AはBの娘の目撃証言とも髪型や年齢などが一致していた。また、事件以来顔色が悪くなったと噂され、事件当時のアリバイもはっきりせず、加えて被害者一家に5000円の借金があった。加えてAは、Bの夫から持ちかけられたサツマイモの闇取引で、自分だけが罰金刑を受けたため、被害者一家に対し恨みを抱いていたとも言われていた(これらについてAは、5000円は借金を頼まれていた第三者に又貸ししたところ、返ってこなくなったのだと主張し、闇取引の件についてもBたちを恨んでいたことはない、と主張している)。 事件発生から1か月余りが経過した6月19日、Aは庵原地区署へ任意同行を求められ、材木などの窃盗容疑につき、同日中に別件逮捕された。窃盗の件はすぐに不起訴となったが、翌20日から本件の強盗殺人容疑で再逮捕される7月12日、そして本件で静岡地裁へ起訴される7月20日までの間、AはB殺害の容疑で取調べを受け続けた。別件逮捕の翌日の6月20日、AはB殺害を自白した。だが、事件にはAの自白を除いては直接証拠がなく、後の裁判でも、争点は自白の任意性と信用性に収束した。
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事件と捜査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 08:52 UTC 版)
1948年(昭和23年)2月4日、静岡県清水市に在する合板会社、富士合板株式会社は、神奈川県の取引先へ商品を発送した。取引先はこれに応え、15万8991円の代金を、7万9491円の自由小切手と7万9500円の封鎖小切手に分けて、同月6日に速達の書留郵便で静岡銀行清水支店へ送金した。 ところが、小切手が一向に到着しないことを不審に思った富士合板が銀行へ問い合わせると、7万9491円の自由小切手は同月10日の時点で、すでに何者かによって換金されていることが発覚した。その小切手の裏書には、 清水市宮加三〔略〕番地富士合板株式会社 高尾隆 という架空の名義とともに会社の偽造印が捺されていたため、同月16日に富士合板は清水警察署へ被害届を提出した。清水署はこれを逓送中の書留が郵便局員によって窃取された事件であると推定し、捜査を管轄の名古屋逓信局へ委託した。
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事件と捜査
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1967年8月30日の朝、茨城県北相馬郡利根町布川で、独り暮らしだった大工の男性(当時62歳)が、仕事を依頼しに来た近所の人によって自宅8畳間で他殺体で発見された。 茨城県警取手警察署による死体検視と現場検証によれば、男性の死亡推定時間は8月28日の19時から23時頃であるとされた。男性は両足をタオルとワイシャツで縛られており首にはパンツが巻きつけられた上、口にパンツが押し込まれていた。死因は絞殺による窒息死であると判明した。現場の状況は玄関と窓は施錠されていたが、勝手口はわずかに開いていた。室内は物色した形跡が認められたが、何を盗まれたかは判明しなかった。ただし、男性は個人的に金貸しを行っており、現金や借用書などが盗まれた可能性があった。唯一判明したのは男性が普段使用していた「白い財布」が発見されなかったことである。また、現場からは指紋43点が採集された。 男性の自宅付近で20時頃に不審な2人組の男の目撃情報があり、その情報から1967年10月に2人の男が別件逮捕された。
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事件と捜査
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1981年6月14日13時頃、千葉県柏市に在する市立柏第三小学校の校庭で、同校の6年生である少女B(当時11歳)の刺殺体が発見された。当日は日曜日であったが、Bは学校近くの友人宅へ行くために校庭を通り抜けようとしたところを被害に遭ったとみられる。Bの遺体には右手首と右胸に刺創があり、右手首には刃渡り約10センチメートルの果物ナイフが突き立ったままの状態であった。しかし、ナイフは近辺で大量に売られている物であり指紋も検出されなかった。 有力な目撃証言もなく捜査は難航したが、犯行時刻頃に校庭を自転車でうろついていたとの情報から、千葉県警柏警察署は付近に住む中学3年生の少年A(当時14歳)に着目した。AはBの兄と同じ中学に通っていたが、交友関係はまったくなかった。また、Aには小児結核の後遺症から軽度の知的障害があったが、特殊学級には通っていなかった。 同月27日、柏署は別の少女を殴ったという別件でAを任意出頭させ単独で取調べたところ、およそ3時間でAは犯行を自白した。その後、母親立会いのもと同日深夜までかかって自白調書が作成され、翌28日朝にはA宅の家宅捜索も実施された。しかし尚も確たる物証は挙がらず、同日の任意取調べ後も柏署は逮捕状の執行を躊躇していた。任意出頭後の帰宅以来、A宅はマスコミに取り囲まれ、一歩も外出できなかった家族は近隣住民から食料を差し入れてもらう有様であった。 だが、その後の捜査でAが付近のスーパーから凶器と同型のナイフを購入したことが裏付けられた。現場付近からの足跡と自転車のタイヤ痕もAのものと類似する、との鑑定結果も受け、Aは7月6日に殺人容疑で逮捕された。
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事件と捜査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 16:03 UTC 版)
1988年11月16日に東京都足立区綾瀬で母(36歳)と子(7歳)が殺害され金品が強奪された。警察は翌年の1989年4月25日に、事件現場である被害者の自宅の近所に在住する(または事件当時に在住していた)A(当時16歳)・B(当時15歳)・C(当時15歳)の3人を被疑者として逮捕した。
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事件と捜査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 07:10 UTC 版)
事の発端は、横浜市山下町の米国聖書会社で「大正5年(1916年)の年末に棚卸しをしたところ、在庫の聖書が1万冊紛失していることが判明した」というものであった。そこで、神楽坂署の刑事が、神田の書店街に聖書を大量に売る人間がいることを突き止め、その人物が芝白金台町に住むキリスト教伝導師の島倉儀平だと判明した。神楽坂署長に就任して間もない正力松太郎は、島倉の検挙を命じたが、3人の刑事が島倉を逮捕しに向かった際に、島倉は2階から隣家の屋根伝いに電柱を滑って逃亡した。それから1ヶ月後、島倉は深川八幡宮前で逮捕された。 島倉は山形県出身で、天理教の学校を卒業し、少しだけキリスト教の学校に通ったことがあるという。1903年(明治36年)32歳の時、鄕里において窃盗罪で処罰され、翌年にも窃盗罪で刑を受た。その後、奈良、京都でも罪を犯し、前科四犯という前歴を持った。 1911年(明治44年)4月、島倉は牧師某を訪問し、自己の経歴を語った上で牧師の伝道の話に感動し、真人間として生まれ変わるべく就職先を紹介して貰ったのだという。牧師は彼の真摯な姿勢に感服し、前述した山下町の聖書販売会社の副社長であるアメリカ人宣教師に彼を紹介し、同会社の聖書販売人に斡旋して貰った。 その後、島倉は住居を転々とするようになるが、至る所で火災に遭遇し、その都度、火災保険金を収得していた。暮らしぶりは豊かなものになり、独身で二階借りの住居であったものが、妻帯して芝白金台町に二階建て門構えの一軒の家を買い、電話を引き、女中を雇うといった生活になった。女中は小豆島出身で、島倉は彼女を犯し、性病を感染させていた。これを知った女中の叔父は1913年(大正2年)8月、島倉に談判して慰藉料として100円を出させたことがあった。 その女中が親元に帰るといったきり、行方不明になっていたことが分かり、島倉に疑いの目が向けられた。留置所に入れられた島倉は半狂乱状態になっており、係官の手に負えない有様でもあった。 あるとき神楽坂署の刑事が、高輪在住時の島倉宅の火事の記録を調査するために高輪署へ行ったところ、係の署員が、その日は古い調べ物が多い日だ、3年前の1914年(大正3年)10月22日、大崎の古井戸から発見された女の埋葬記録を当時行方不明になった女の親から照会してきた、という主旨の内容を語っていた。それを聞いた刑事がその記録も見せて貰うと、以下のようなものであった。 「 場所:上大崎池田山 松平康壮所有地所在の古井戸屍体:死後6ヶ月以上を経て腐乱していた。推定年齢二十一、二歳、小柄の女 」 屍体は島倉の女中とは年齢が異なっていたのだが、女中の失踪と年月が一致するため、刑事は署に帰りこのことを報告した。そこで、島倉の妻、勝子を取り調べたところ、着衣や帯が女中の当時身につけていたものと一致した。そこで、正力署長は件の屍体の埋葬地の掘り返しを命じ、1917年(大正6年)3月22日、神楽坂署による発掘が実施された。その結果、屍体の特徴である、二本の犬歯と右上の二本の金の入れ歯、着衣の断片が一致し、それらに関する両親の証言をも得て、屍体が島倉の女中であり、島倉が犯人と推定された。
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事件と捜査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 16:20 UTC 版)
「弘前大教授夫人殺し事件」の記事における「事件と捜査」の解説
1949年8月3日、松永は仕事のため一週間ほど家を離れる予定で、息子を連れて青森市へと発った。4歳の娘と2人で家に残されることになったので、松永の妻Sは実家から母親を呼び寄せ、夫たちの留守の間を3人で過ごすことにした。 8月6日22時頃、3人は離れ一階の8畳間で「川」の字になって床に就いた。8畳間には2燭光の水色豆電球が点いており、3人は北側からSの母、Sの娘、Sの順に縁側へ面した南側へと横たわっていた。事件が発生したのは、それからおよそ1時間後のことである。 私は『ああ』という叫び声に目を醒して〔S〕を見ると〔S〕の横に蚊帳の中に這っている男を発見したのであります。其の男は年齢二十年過ぎで丈五尺三寸位白色半袖シャツに色はよく記憶ありませんが半ズボンをはいて髪はよくわかりませんが帽子をかぶっていない男がシャがんでいましたから私は吃驚して〔S〕と一回叫んだのであります。私は〔S〕と叫ぶとその男は寝室の前の硝子戸から逃げて行ったので私は泥棒と叫んだのであります。其の男の逃げて行った硝子戸は約一尺位開いていたのでそこから逃げた様であります。其の男は逃げ去ってから私は〔S〕しっかりしろ〔S〕どうしたと抱き起して見ると首のあたりから血がどくどく流れていたのであります。〔中略〕唯娘の〔S〕は私に抱かれながら私は死んでしまうと言って約五分位経て死んで行ったのであります。其の晩は寝る時二燭光の小さな電気を付けていたので娘を殺した犯人の顔は殆ど見ていなかったのでありますが服装だけは大体見たので先程申上げたのであります。 — Sの母の員面調書(8月8日付)より 23時過ぎ、Sは南の縁側から侵入してきた男に家族の目の前で刺殺された。致命傷は鋭利な刃物で左側総頸動脈に受けた傷であったが、姦淫された形跡はなかった。 当時の上流階級であり、なおかつ近隣でも評判の美女であった大学教授夫人の殺害事件に、地元の世論は沸き立った。所轄の自治体警察である弘前市警は松永一家の交際状況や近隣の前科者などを洗ったが、結果は思わしくなく、加えて医大側が非協力的であったために捜査は難航した。やがて弘前市警は国家地方警察(国警)の青森県警本部に協力を仰ぐことになったが、この2つの警察の間では縄張り争いからの反目が絶えなかった。事件から2週間後に市警が別件逮捕した有力な被疑者も、アリバイの発覚により釈放を余儀なくされた。事件の迷宮入りを新聞が危惧するなか、市警の見立ては変態性欲者犯行説へと傾斜していった。
※この「事件と捜査」の解説は、「弘前大教授夫人殺し事件」の解説の一部です。
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