クレーから超現実主義へ
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1926年(大正15年・昭和元年)に入ってからは東京に定住するようになり、二科会会友に推され、また、クレー風の絵をかきだすようになった。翌1927年(昭和2年)の8月に母を亡くし帰郷、9月には東京に戻ったが、11月になって神経衰弱を患い再び帰郷した。翌1928年(昭和3年)5月には長崎へ転地し、そこで「生花」などを制作した。この年、中川紀元の紹介で東郷青児を知り、更に東郷を介して同年暮れか翌1929年(昭和4年)初めに阿部金剛を知った。この時期を代表する絵として「煙火」(1927年、油彩・キャンヴァス、90.5×61.0cm、財団法人川端康成記念会蔵)があげられる。「素朴な月夜」(1929年、油彩・キャンヴァス、117.0×91.0cm、ブリヂストン美術館蔵)もこの時期の作である。この頃はクレー風の絵を描いていたが、1929年になると画風が変わり、構成的なシュルレアリスムの絵が現れだす。古賀の代表作の1枚「海」(1929年、油彩・キャンヴァス、129.0×161.0cm、二科会16会展出品、東京国立近代美術館蔵)が描かれたのはこの年である。 1929年9月の二科展では、児島善三郎、里見勝蔵、小島善太郎、鈴木亜夫とともに鑑査に加わったが、相当負担になったらしく、この後しばらく寝込んだ。これ以降古賀は病気がちになった。古賀は医者に診てもらっているが、古賀の病名に関しては、妻の好江が松田実に宛てた手紙の中で「病名が余り香しくなかったものですから」と書いていたり、古川智次がエッセイ「古賀家の窮状」の中で同様に「余り香しくなかった」と書いたのみで明瞭に述べていない。実際は、古賀のかかっていた病気は梅毒である。 この頃、古賀のアトリエを訪ねた中野嘉一によると、シュルレアリスムの絵の他にも写実的な風景画も混じっており、時々は写実的な絵も描いていたようだ、ゴールデン・バットを1日十箱位も嗜むヘヴィー・スモーカーで、煙草をくわえながら絵を描いていた、既に手の震えが始まっていて、シュルレアリスムの幾何学的な細い線を描く時などは手が震えてうまくいかず困っていたことがあったという。 同年11月、一九三〇年協会に加入したが、12月には二科会会員に推挙されたので協会を脱退した。 1930年(昭和5年)からは舞台装置の制作や装丁・挿絵の仕事を始めるようになった。古賀が挿絵・装丁などの仕事を始めたのは、家計の問題からだったとみられる。この年には「窓外の化粧」(1930年、油彩・キャンヴァス、161.0×129.0cm、神奈川県立近代美術館蔵)他4点が二科展に出品され、短い画論「超現実主義私感」が「アトリエ」誌1月号に掲載された。 1931年(昭和6年)、日本水彩画会委員(鑑査)になり、川端康成と知り合いになった。また、生前唯一の画集「古賀春江画集」を第一書房から刊行した。その他、「コドモノクニ」にイラストを発表した(12月号から翌1932年6月号まで)。この頃、古賀は動坂に、川端は谷中桜木町にいて、電車通りを隔てて近くに住んでいた。高田力蔵によると、川端との交遊のきっかけは互いに犬好きだったからで、古賀にブルドックの世話をした瀬辺玄正という人物を介してかもしれない、という。 1932年(昭和7年)3月になると、強度の神経痛に冒され体が衰え出し、次第に厭人的になり代わって犬や小鳥を熱愛するようになり出した。高田力蔵が中野嘉一に宛てた私信によれば、「昭和七年春、駿河台の某病院で脊髄液検査の結果、病巣を知った」とあり、梅毒は1931年(昭和6年)頃から進行が始まっていたらしい。この頃古賀は、人嫌いになったことをうかがわせる文章を書いている。 人間に顔や肉体がなかったら、どんなに気持が晴々するだらう。私自身人々の眼の前にえたい(えたいに強調点)の知れない顔や肉体を曝して歩いてさぞ迷惑を掛けてゐるだらうと思ふ時出来るだけ人に逢はないですむやうにしたいと願ふ。 人間の顔が恐ろしくて人に逢へなくなる時私は犬達と話をする。犬は人間よりも直接に単純に話が出来る。 — 古賀春江、「美術新論」昭和七年十月号 1933年(昭和8年)に入ると古賀の病状はかなり悪化し、丸善で高価な洋書を大量に注文する、ラクダのシャツを3ダースも買い込む、靴下を何ダースも買うなど奇矯な行動が目立つようになり、友人にも気付かれるようになった。4月から二科展出品のために「文化は人間を妨害する」と「深海の情景」「サアカスの景」(絶筆)の制作を開始し、その他、同月には病床を抜け出して、日本水彩画会の仲間とともに群馬桧曾方面へ写生に出かけ、帰京した後再度写生に出かけるなど熱心で、この時多くの水彩画を描いた。そして、これが最後の写生旅行になった。5月には阿部金剛、東郷青児、峯岸義一らとアヴァン・ガルド研究会創設の話し合いをするなど絵画関係の活動は活発だったが、義兄が重病との知らせを受けて7月5日に久留米へ帰郷した際、病状は既に相当ひどい状態だった。 久留米に帰郷した古賀は、毎日のように松田実、昔の友人や坂本繁二郎を訪ねていて、友人たちはその時の古賀の様子に強いショックを受けている。古賀は軽い躁状態にあったとみられ、松田も坂本も、古賀の精神状態が異常であることに気付いている。松田の回想によると、この時の古賀は だらしなく胸をはだけ、愛犬(白茶けたオークル色と黒褐色の霜降りまだら毛の中形ブルドッグ名はチェロ)を曳連れではなく、引きずられて踉蹌(ルビ・よろ)け乍ら来る足取り。来る度毎に何時も餡パンや果物を懐中しており、談話最中如何かしたはずみにそれが懐から転び出る、周章狼狽懐え掻込む、『サーこれから白山町(赤線娼窟)え行くのだ』と言ってはフラフラと帰り行く有様、焦点(ルビ・ピント)のぼやけた様な瞳差(ルビ・ざ)し。安定なく物怖する如く右顧左顧(ママ)しながら語る所作。彼方此方と飛躍また飛躍して取止めなき話題、支離滅裂で意味をなさず判断に苦しむ言葉。夢遊病者さながらに。 — 松田実 という状態だった。また、坂本繁二郎の回想では、 ところが古賀君は見るからに疲労し、こみ入った話をかわす気力がない様子、長い指は白くすけて小きざみにふるえ、目の色もどんよりと光を失って、とてもこの世の人とは思へぬ姿。白いひとえの肩が薄く、いかにも影が薄くて私には不吉な予感がしたものです。 結局とりとめのない話題だけで、真夏の白い田舎道を帰る古賀君を見送りました。 — 坂本繁二郎、「坂本繁二郎の道」(谷口治達著・求龍堂刊)第六章筑後 と描かれている。同月14日に帰京したがその途中で発病、絶筆の「サアカスの景」は病身をおして完成させねばならなかった。 最晩年の古賀の様子については、高田力蔵や川端康成、阿部金剛らがいくつかの文章を残している。「サアカスの景」は、署名を高田力蔵に入れてもらったことが知られている。理由は、古賀が手の震えにより整ったローマ字を書けなかったためである。高田力蔵によると、サインの代筆を頼まれた時「無銘でもいいではありませんか」と断ったが、古賀が「サインがないと絶筆のようで嫌だ」というので仕方なく筆跡をまねて高田が入れた。 以前から妻の好江や友人たちが説得して入院させようとしたが、古賀は病気を自覚していたにもかかわらず受け入れなかった。最終的に古賀を説得したのは川端康成で、生活に困窮していた古賀の入院費その他の面倒もみた。 8月1日に東京帝国大学島薗内科に入院、マラリア熱療法を受けた。入院当初は詩作や作画をしていたが、マラリア療法処置後高熱が下がらず、八月末には意識朦朧とし危篤状態にあった。ブドウ糖の注射による栄養補給も困難になってからは、友人の協力による輸血で栄養補給したが、9月10日に亡くなった。享年39歳。1944年5月になって善福寺境内に古賀春江の供養塔が作られた。生地の善福寺境内には石井柏亭の碑銘による墓碑がある。阿部金剛の述懐によると、善福寺にあった古賀の遺作は、寺の住職が古賀家とは縁のない人に替わり古賀家と断絶したと同時に散逸してしまったようだ、という。事実、21世紀に入っても所在不明の古賀の絵は少なくない。 安井曽太郎が古賀の死後出版された「古賀春江画集」(春鳥会、1934年)の中で古賀春江について次のように書いている。 古賀君と話してゐるといつもあの子供っぽい真劍さに動かされた。そしてそれと同じものを同君の繒からも、新舊作を問はず、どの繒からも受けた。古賀君の理智的で近代的な構圖や少し多彩過ぎる難はあってもその明るい色調は美しいものであったが、それ等に底力を與へるものはあの子供っぽい真劍さであった。それはひしひしと我々に迫って來た。 — 安井曽太郎、「古賀春江画集」(春鳥会、1934年) その他、東郷青児は、古賀の叙情性を強調する文章を残している。 古賀君は理智の機構を好み、冷ややかな哲学の後を追いながら、終生牧歌的な詩情を離れることが出来なかった。そこに古賀の面白さがある。その矛盾から、死の間際に鮮か(ママ)に転換した。 また、後に「サアカスの景」を評して、 ハーゲン・ベックは、何かずばぬけた大きさが何の前ぶれもなく、生まれてきたようで不気味な感動を受けた。 — 東郷青児、古賀春江「美術手帖」昭和二十四年九月号 と書き残している。
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