クレーから超現実主義へとは? わかりやすく解説

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クレーから超現実主義へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:21 UTC 版)

古賀春江」の記事における「クレーから超現実主義へ」の解説

1926年(大正15年昭和元年)に入ってからは東京定住するようになり、二科会会友推されまた、クレー風の絵をかきだすようになった。翌1927年(昭和2年)の8月に母を亡くし帰郷9月には東京戻ったが、11月になって神経衰弱患い再び帰郷した。翌1928年(昭和3年)5月には長崎転地し、そこで「生花」などを制作したこの年中川紀元紹介東郷青児知り、更に東郷を介して同年暮れか翌1929年(昭和4年)初めに阿部金剛知った。この時期代表する絵として「煙火」(1927年油彩キャンヴァス、90.5×61.0cm、財団法人川端康成記念)があげられる。「素朴な月夜」(1929年油彩キャンヴァス、117.0×91.0cm、ブリヂストン美術館)もこの時期の作である。この頃クレー風の絵を描いていたが、1929年になると画風変わり構成的シュルレアリスムの絵が現れだす。古賀代表作1枚「海」(1929年油彩キャンヴァス、129.0×161.0cm、二科会16会展出品東京国立近代美術館)が描かれたのはこの年である。 1929年9月二科展では、児島善三郎里見勝蔵小島善太郎鈴木亜夫とともに鑑査加わったが、相当負担になったらしく、この後しばらく寝込んだ。これ以降古賀病気がちになった古賀医者診てもらっているが、古賀病名に関しては、妻の好江が松田実に宛てた手紙の中で「病名余り香しくなかったものですから」と書いていたり、古川智次がエッセイ古賀家窮状」の中で同様に余り香しくなかった」と書いたのみで明瞭に述べていない。実際は、古賀かかっていた病気梅毒である。 この頃古賀アトリエ訪ねた中野嘉一によると、シュルレアリスムの絵の他にも写実的な風景画混じっており、時々は写実的な絵も描いてたようだゴールデン・バット1日十箱位も嗜むヘヴィー・スモーカーで、煙草をくわえながら絵を描いていた、既に手の震え始まっていて、シュルレアリスム幾何学的な細い線を描く時などは手が震えてうまくいかず困っていたことがあったという。 同年11月一九三〇協会加入したが、12月には二科会会員推挙されたので協会脱退した1930年(昭和5年)からは舞台装置制作装丁挿絵仕事始めようになった古賀挿絵装丁などの仕事始めたのは、家計の問題からだったとみられるこの年には「窓外化粧」(1930年油彩キャンヴァス、161.0×129.0cm、神奈川県立近代美術館)他4点二科展出品され、短い画論超現実主義私感」が「アトリエ」誌1月号に掲載された。 1931年(昭和6年)、日本水彩画委員(鑑査)になり、川端康成知り合いになったまた、生前唯一の画集古賀春江画集」を第一書房から刊行した。その他、「コドモノクニ」にイラスト発表した(12月号から翌1932年6月号まで)。この頃古賀は動坂に、川端谷中桜木町にいて、電車通り隔てて近く住んでいた。高田力蔵によると、川端との交遊きっかけ互いに犬好きだったからで、古賀ブルドック世話をした瀬辺玄正という人物を介してかもしれない、という。 1932年(昭和7年)3月になると、強度神経痛冒され体が衰え出し次第厭人的になり代わって小鳥熱愛するようになり出した高田力蔵中野嘉一宛てた私信によれば、「昭和七年春、駿河台の某病院脊髄液検査結果病巣知った」とあり、梅毒1931年(昭和6年)頃から進行始まってたらしいこの頃古賀は、人嫌いになったことをうかがわせる文章書いている。 人間に顔や肉体なかったらどんなに気持晴々するだらう。私自身人々眼の前にえたい(えたいに強調点)の知れない顔や肉体曝し歩いてさぞ迷惑を掛けてゐるだらうと思ふ出来るだけ人に逢はないですむやうにしたいと願ふ。 人間の顔恐ろしくて人に逢へなくなる時私は達と話をする。人間よりも直接単純に話が出来る。 — 古賀春江、「美術新論昭和七年十月1933年(昭和8年)に入ると古賀病状はかなり悪化し丸善高価な洋書大量に注文するラクダシャツを3ダース買い込む靴下を何ダースも買うなど奇矯な行動が目立つようになり、友人にも気付かれるようになった4月から二科展出品のために「文化人間妨害する」と「深海情景」「サアカスの景」(絶筆)の制作開始し、その他、同月には病床抜け出して日本水彩画会の仲間とともに群馬桧曾方面写生に出かけ、帰京した再度写生出かけるなど熱心で、この時多く水彩画描いた。そして、これが最後写生旅行になった5月には阿部金剛東郷青児峯岸義一らとアヴァン・ガルド研究会創設話し合いをするなど絵画関係の活動活発だったが、義兄重病との知らせ受けて7月5日久留米帰郷した際、病状は既に相当ひどい状態だった。 久留米帰郷した古賀は、毎日のように松田実、昔の友人坂本繁二郎訪ねていて、友人たちその時古賀様子に強いショック受けている。古賀は軽い躁状態にあったとみられ、松田坂本も、古賀精神状態が異常であることに気付いている。松田回想によると、この時の古賀だらしなく胸をはだけ、愛犬(白茶けたオークル色と黒褐色霜降りまだら毛の中形ブルドッグ名はチェロ)を曳連れではなく、引きずられて踉蹌(ルビ・よろ)け乍ら来る足取り。来る度毎何時も餡パン果物懐中しており、談話最中如何かしたはずみにそれが懐から転び出る周章狼狽懐え掻込む、『サーこれから白山町(赤線娼窟)え行くのだ』と言ってフラフラ帰り行く有様焦点(ルビ・ピント)のぼやけた様な瞳差(ルビ・ざ)し。安定なく物怖する如く右顧左顧(ママ)しながら語る所作彼方此方飛躍また飛躍して止めなき話題支離滅裂で意味をなさず判断苦し言葉夢遊病者さながらに。 — 松田実 という状態だった。また、坂本繁二郎回想では、 ところが古賀君は見るから疲労しこみ入った話をかわす気力がない様子長い指は白くすけて小きざみにふるえ、目の色どんよりと光を失って、とてもこの世の人とは思へぬ姿。白いひとえの肩が薄くいかにも影が薄くて私には不吉な予感したものです。 結局とりとめのない話題だけで、真夏の白い田舎道帰る古賀君を見送りました。 — 坂本繁二郎、「坂本繁二郎の道」(谷口治達著・求龍堂刊)第六章筑後描かれている。同月14日帰京したがその途中で発病絶筆の「サアカスの景」は病身をおして完成させねばならなかった。 最晩年古賀様子については、高田力蔵川端康成阿部金剛らがいくつかの文章残している。「サアカスの景」は、署名高田力蔵入れてもらったことが知られている。理由は、古賀が手の震えにより整ったローマ字書けなかったためである。高田力蔵によると、サイン代筆頼まれた時「無銘でもいいではありませんか」と断ったが、古賀が「サインがないと絶筆のようで嫌だ」というので仕方なく筆跡をまねて高田入れた以前から妻の好江や友人たち説得して入院させようとしたが、古賀病気自覚していたにもかかわらず受け入れなかった。最終的に古賀説得したのは川端康成で、生活に困窮していた古賀入院その他の面倒もみた。 8月1日東京帝国大学島薗内科入院マラリア熱療法受けた入院当初詩作作画をしていたが、マラリア療法処置後高熱下がらず八月末には意識朦朧と危篤状態にあったブドウ糖注射による栄養補給困難になってからは、友人協力による輸血栄養補給したが、9月10日亡くなった享年39歳1944年5月になって善福寺境内古賀春江供養塔作られた。生地善福寺境内には石井柏亭碑銘による墓碑がある。阿部金剛述懐によると、善福寺にあった古賀遺作は、寺の住職古賀家とは縁のない人に替わり古賀家断絶した同時に散逸してしまったようだ、という。事実21世紀に入って所在不明古賀の絵は少なくない安井曽太郎古賀死後出版された「古賀春江画集」(春鳥会、1934年)の中で古賀春江について次のように書いている。 古賀君と話してゐるといつもあの子供っぽい真劍さに動かされた。そしてそれと同じものを同君の繒からも、新舊作を問はず、どの繒からも受けた古賀君の理智的近代的な構圖や少し多彩過ぎる難はあってもその明る色調美しいものであったが、それ等底力を與へるものはあの子供っぽい真劍さであった。それはひしひしと我々に迫って來た。 — 安井曽太郎、「古賀春江画集」(春鳥会、1934年) その他、東郷青児は、古賀叙情性強調する文章残している。 古賀君は理智機構好み冷ややかな哲学の後を追いながら、終生牧歌的な詩情離れることが出来なかった。そこに古賀面白さがある。その矛盾から、死の間際に鮮か(ママ)に転換したまた、後に「サアカスの景」を評してハーゲン・ベックは、何かずばぬけた大きさ何の前ぶれもなく、生まれてきたようで不気味な感動受けた。 — 東郷青児古賀春江美術手帖昭和二十四年九月と書き残している。

※この「クレーから超現実主義へ」の解説は、「古賀春江」の解説の一部です。
「クレーから超現実主義へ」を含む「古賀春江」の記事については、「古賀春江」の概要を参照ください。

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