貞観地震 歴史への影響

貞観地震

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/19 00:52 UTC 版)

歴史への影響

864年貞観の富士山噴火、869年の貞観地震・津波、869年疫病の流行などが起こったため、自然と社会を見つめ宮廷政治が整えられ、宮廷文化が生まれた[91]

東北地方では、貞観地震・津波に続いて915年の十和田火山噴火が起き、宮城県北部・岩手県・秋田県の水田は火山灰で覆い尽くされ、ほとんどは復旧していない。秋田県北部では火山泥流による埋没家屋が検出されている。[22][92]

脚注

参考文献

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関連項目

外部リンク


注釈

  1. ^ 震度分布による推定で、断層破壊開始点である本来の震源、その地表投影である震央ではない。地震学的な震源は地震計が無ければ決まらず、震源域が広大な巨大地震では無意味な上誤解を与える恐れがある。-石橋克彦(2014)『南海トラフ巨大地震』, pp.7-8.
  2. ^ 壁:しょう-へき。石・煉瓦・土などで築いた塀・垣根・囲い。
  3. ^
    十二月・・・十四日丁酉、遣使者於伊勢大神宮、奉幣。告文曰:「天皇我詔旨止、掛畏岐伊勢乃度會宇治乃五十鈴乃河上乃下都磐根爾大宮柱廣敷立、高天乃原爾千木高知天、稱言竟奉留天照坐皇大神乃廣前爾、恐美恐美毛申賜倍止申久。去六月以來、大宰府度度言上多良久:『新羅賊舟二艘、筑前國那珂郡乃荒津爾到來天豐前國乃貢調船乃絹綿乎掠奪天逃退多利。』又廳樓兵庫等上爾、依有大鳥之恠天卜求爾、鄰國乃兵革之事可在止卜申利。又肥後國爾地震風水乃灾有天、舍宅悉仆顛利、人民多流亡多利。如此之比古來未聞止、故老等毛申止言上多利。然間爾、陸奧國又異常奈留地震之灾言上多利。自餘國國毛、又頗有件灾止言上多利。傳聞、彼新羅人波我日本國止久岐世時與利相敵美來多利。而今入來境内天、奪取調物利天、無懼沮之氣、量其意況爾、兵寇之萌自此而生加、我朝久無軍旅久專忘警多利。兵亂之事、尤可慎恐。然我日本朝波所謂神明之國奈利。神明之助護利賜波、何乃兵寇加可近來岐。況掛毛畏岐皇大神波、我朝乃大祖止御座天、食國乃天下乎照賜比護賜利。然則他國異類乃加侮致亂倍久事乎、何曾聞食天、驚賜比拒卻介賜波須在牟。故是以王-從五位下-弘道王、中臣-雅樂少允-從六位上-大中臣朝臣-冬名等乎差使天、禮代乃大幣帛遠を、忌部-神祇少祐-從六位下-齋部宿禰-伯江加弱肩爾太襁取懸天、持齋令捧持天奉出給布。此狀乎平介久聞食天、假令時世乃禍亂止之天、上件寇賊之事在倍久物奈利止毛、掛毛畏支皇大神國内乃諸神達乎毛唱導岐賜比天、未發向之前爾沮拒排卻賜倍。若賊謀已熟天兵船必來倍久在波、境内爾入賜須天之、逐還漂沒女賜比天、我朝乃神國止畏憚禮來禮留故實乎澆多之失比賜布奈。自此之外爾、假令止之天、夷俘乃造謀叛亂之事、中國乃刀兵賊難之事、又水旱風雨之事、疫癘飢饉之事爾至萬天爾、國家乃大禍、百姓乃深憂止毛可在良牟乎波、皆悉未然之外爾拂卻鎖滅之賜天、天下無躁驚久、國内平安爾鎮護利救助賜比皇御孫命乃御體乎、常磐堅磐爾與天地日月共爾、夜護晝護爾護幸倍矜奉給倍止、恐美恐美毛申賜久止申。」
  4. ^ 『日本三代実録』貞観12年9月15日の条「潤清、長焉、真平等、才長於造瓦、預陸奥国修理府、料造瓦事、令長其道者相従伝習。」の解釈をめぐっては、律令官制では「府」は衛門府や衛士府など軍事的官衙に用いられ、鎮守府・大宰府ほか国府も軍事的性格を持つこと(岸俊男1984「国府と郡家」『古代宮都の探求』)から、固有名詞としての「陸奥国修理府」ではなく、「府」は「国府」を指し、拘束された新羅人潤清、長焉、真平等を陸奥国に預け「国府を修理し、瓦造りに従事」させたとする解釈(青森県史編さん委員会2001『青森県史資料編 古代1 文献史料』、二上玲子2013「文献史料からみた貞観地震に関する一考察」『市史せんだい』vol.22)が現在、最も有力である。

出典

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