漢鏡
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また、漢王朝が朝貢国への返礼として周辺国へ贈与したと考えられる漢鏡が、日本・朝鮮半島・ベトナム・中央アジアなど東アジアの広い範囲から出土する[7]。これは漢王朝の交流範囲を示すとされる[11][注釈 3]。日本には主に朝鮮半島の楽浪郡を窓口として漢鏡がもたらされたと考えられ[6]、弥生時代を中心に古墳時代初頭ごろまでの遺跡から出土する。その多くは有力者の副葬品だが、集落遺跡や祭祀遺跡からも出土し[12]、威信財あるいは呪具として用いられたと考えられている[13]。
漢鏡は、漢王朝滅亡後も模倣鏡が製作されるなど、後世の銅鏡に影響を与えた[12]。こうした製作された時代や場所を限定せずに漢鏡の特徴を持つ銅鏡を総称して漢式鏡と言うが[14]、本稿ではこれにも一部触れる。
研究史
宋代に儒学の行き詰まりを打開するため、古代銅器への回帰が試みられるようになる。これを受けて12世紀に編纂された『重修宣和博古図録』には漢代から唐代までの銅鏡が収録された。これには、鏡の名称を「時代+文様と銘を組み合わせ」で記し、線描図、銘文の釈文、面径や重さなどが記され、これ以降に作成される資料の模範となった。明代になると、古詩に対する関心が高まり、古鏡の銘文研究が行われる[15]。また、明代末には西洋文化の影響で実学が重んじられるようになり、1637年の『天工開物』では古鏡の鋳造技術についての考察も記されている[16]。清代に至ると、考証学が盛んになり金石学が見直され、1755年には『西清古鑑』が編纂された。1787年には銭坫が『浣花拝石軒鏡銘集緑』を著し紀年銘を含む銘文の研究が深化した[17]。日本では江戸時代に遺跡から出土する鏡への関心が高まった。1822年には三雲南小路遺跡から中国鏡が出土し、青柳種信は古代中国の墓制を念頭にこれを漢鏡と鑑定した。明治時代になり三宅米吉は『古鏡』(1897年)において、銅鏡の部分名称を定めて鏡式の命名規則を作ろうと試みた。しかし、その一方で清での金石学への関心は薄かった[18]。
1910年代に至ると、日本国内で漢鏡研究が飛躍的に向上する。朝鮮総督府を中心とした楽浪墳墓の発掘で多数の漢鏡が出土し、紀年銘鏡の存在が知られた事で年代論に関心が集まった。また、辛亥革命で亡命した羅振玉と王国維により金石学への注目も集まった。1915年に山田孝雄は『古鏡の銘について』を著し、銘文研究から前漢鏡・王莽鏡の実態を明らかにし、漢代から六朝代までの変遷を明らかにした。また、1920年に富岡謙蔵は『古鏡の研究』を著し、様式論から鏡の変遷を試みた[19]。これらにより、現代まで継承される型式学的な分類・編年研究の基礎がつくられた[20]。これを引き継いだ梅原末治や後藤守一、関野貞らによって編年・地域性などの研究が深化され、また近重真澄らによって理化学的研究が始められた[21]。同時期に、欧米でも中国考古学への関心が高まった。スウェーデンのカールベックは戦国鏡から漢鏡への変遷の手がかりとなる論考を記し、ドイツのヒルトは東アジアにおける中国鏡の用途について考察した。スウェーデンのカールグレンは『詩経』を元に上古音を復元し、漢鏡銘の押韻・仮借・字句を解説した。以上のように、20世紀前半は中国において銘文考証、日本において編年、欧米において文化史の研究が平行して行われた[22]。
第二次世界大戦後に中国国内で大規模開発が行われるようになり発掘が続く。1953年に洛陽焼溝漢墓で225基の漢墓が発掘され、前漢中期から後漢後期までの漢墓と漢鏡を含む副葬品の編年が行われた。これ以降も調査数は増加して多くの発掘調査報告書が刊行され、漢鏡の資料が蓄積されていく[23]。これを受けて、樋口隆康の『古鏡』(1979年)や孔祥星・劉一曼の『中国古代銅鏡』(1984年)により鏡式ごとの編年が体系化され、同時に墓制や他の文物との並行関係が明らかにされた。さらに、岡村秀典による研究により鏡式間の平行関係が明らかになり、それらを包括する漢鏡を7期に大別する編年が提唱された[24]。日本では1971年に岡崎敬が、北部九州の甕棺墓から出土する漢鏡について研究し、甕棺を含む土器編年との並行関係を検証し、弥生時代中期以降に実年代を落とし込んだ。田中説は長く定説にならなかったが、他の分野の研究が進み、現在では大枠として追認されている[25][26]。
また、1970年頃から文学史から小川環樹・玉田継雄らにより漢鏡の銘文研究が行われるようになり、思想史からは内野熊一郎・笠野毅らが考察を行った。しかし、考古学・文学・哲学の共同研究はなおも不十分である[27]。2000年代からは、銅鏡の鋳型の発見により鏡生産の実態の研究が進み、また銘文などの研究から鏡工の流派や系統、生産動向にまで研究が及んでいる[28][29][30]。
中国での歴史
漢鏡の変遷と特徴
中国での銅鏡の歴史は古いが、戦国時代ごろまでは銅礼器と同じ工房で作られ、文様も共通であった。戦国時代を境に銅礼器が衰退する一方で日用品としての銅鏡の需要が高まり、銅鏡の生産が他の青銅器生産から独立して文様も独自の発展を遂げる[31]。特に後漢代に至ると民間工房が形成され、互いに競いながら新たな鏡式を生み出していった[32]。後漢王朝末期からは混乱期となり、三国西晋時代までは新たな鏡式が創出されなくなる。そのため後漢鏡の複製あるいは後漢鏡を改変した創作模倣鏡と呼ばれる鏡群が生産され、漢王朝滅亡後も漢鏡の影響がしばらく続いた[33][34]。
漢鏡の編年に関しては、前漢鏡・王莽鏡・後漢鏡に分類するのが一般的であったが[1]、近年では岡村秀典 (1999, p. 1-5)による漢鏡1期から漢鏡7期に様式区分する編年案が広く受け入れられている[5][35][注釈 4]。
編年 | 年代 | 主な鏡式 | |
---|---|---|---|
漢鏡1期 | 前漢前期 | 紀元前2世紀前半 | 蟠螭文鏡1式・2式 |
漢鏡2期 | 前漢中期前半 | 紀元前2世紀後半 | 草葉文鏡、後半には星雲文鏡 |
漢鏡3期 | 前漢中期後半から後期前半 | 紀元前1世紀前半から中頃 | 異体字銘帯鏡 |
漢鏡4期 | 前漢末から王莽代 | 紀元前1世紀後葉から1世紀はじめ | 方格規矩四神鏡、獣帯鏡、虺竜文鏡 |
漢鏡5期 | 後漢前期 | 1世紀中頃から後半 | 方格規矩四神鏡、四葉座内行花文鏡、獣帯鏡、盤龍鏡 |
漢鏡6期 | 後漢中期 | 2世紀前半 | 方格規矩四神鏡、蝙蝠座内行花文鏡、獣帯鏡、盤龍鏡 |
漢鏡7期第1段階 | 後漢後期 | 2世紀後半から3世紀初め | 上方作系浮彫式獣帯鏡、飛禽鏡、画象鏡、八鳳鏡など |
漢鏡7期第2段階 | 画文帯神獣鏡 | ||
漢鏡7期第3段階 | 斜縁神獣鏡 |
前漢前期の代表的な鏡式が蟠螭文鏡である。蟠螭文鏡は秦代に出現したものであるが、前漢前期になるとこれに銘文が記されるようになる。銘文の内容は主君への心情を謳う抒情詩が多く、当時流行していた楚歌(のちに『楚辞』が編まれる)の影響が見られる[40][41]。こうした銘文が好まれた理由について、岡村は、権力闘争に敗れた忠臣の嘆きに、恋愛をめぐる女性の心情を重ね合わせたものが人びとの心を捉えたと推測している[42]。
武帝の時代になると、戦国鏡の特徴が失われ、漢鏡のデザインが確立する。この時代の代表的鏡式は草葉文鏡や銘帯鏡である。どちらにも銘文が記されるが、夫婦の心情を読むものなどの民謡歌謡である。内容は『楚辞』に通ずるものもあるが、単に四言吉祥句を並べるものが多くなる[43]。また、紀元前1世紀前半の墓から出土した銘帯鏡には、後の南北朝時代に編まれる『玉台新詠』の盤中詩の原型とみられる詩が記されており、こうした漢鏡の銘文研究は文学史上でも注目されている[44][10]。この頃には下級官人の墓にも漢鏡が副葬されるようになり、鏡が広く普及したとされる[39]。ただし、それらの銅鏡は王侯たちが用いた鏡と大きさに顕著な違いがあり、製作や流通も全く異なっていたと考えられる[45]。
儒教が国教化して陰陽五行思想が広まると、漢鏡にも影響が見られるようになる。図柄としては瑞祥を表す想像上の動物や陰陽の調和を表す西王母が描かれるようになり、これを天円地方に配した方格規矩四神鏡と、円い天に配した獣帯鏡が創出される。しかし、紀元前1世紀後半ではそれらの役割は流動的であり、四神の方位の固定や東王公の創出は紀元後である[46][47][48]。紀元前1世紀末ごろの銘文には、陰陽五行思想を記した七言の銘文が見られる[49]。また、前漢後期になると官僚層の広がりと共に儒家思想による家族観が広がる。これに呼応して孝の概念や子孫の繁栄の祈り、あるいは互いに慈しみ合う夫婦などが銘文に記されるようになる[50]。
紀元前1世紀後葉からは神仙思想の影響も見られるようになる。銘文には神仙の有様を描写するとともに長寿や子孫繁栄の願いが記される。ただしこの時代の特徴として、神仙を記す銘文に四神を描く図像が組み合わされる例など、銘文と内区に描かれる図像が一致しない例が多くみられる。これは銅鏡が大掛かりな工房で分業して生産されるようになり、図像を彫る工人と銘文を彫る工人が別であったことを示すと考えられている[51]。
紀元後8年に王莽が新王朝を建国する。王莽は識字率の向上に目をつけて、銅鏡をプロパガンダとして利用して新と王氏を称える銘文を記す。このような銘文がある鏡を総称して「王氏鏡」と言うが、いずれも鏡式は方格規矩四神鏡で、官営工房で作成されたと考えられる[52]。また、新代から銘文に尚方御竟などと記される「尚方鏡」が現れる。尚方(しょうほう)とは秦代から続く工芸品を製作する役所であるが、新代からその名が銘文に記されるようになった。「王氏鏡」は一般官僚に対するプロパガンダとして市場で流通した鏡と考えられるが、「尚方鏡」は王侯を対象に製作されたと考えられる。「尚方鏡」は日本からも出土しており、新と交流する倭人がいた可能性がある[53]。
後漢初期の代表的な鏡式は内行花文鏡と方格規矩四神鏡である。いずれも新代からみられる鏡式を踏襲し、内行花文鏡は黄河流域より北、方格規矩四神鏡は淮河より南で流通した。尚方での鏡生産は後漢でも継続され、方格規矩四神鏡の生産は尚方がほぼ独占したとされる。なお、尚方の工房は淮南にあった可能性が高いと考えられている。この頃の尚方での作鏡はマンネリ化していたと考えられ、銘文の崩れ、字数の減少、十二支銘の省略、図像の簡略化などが見られる。こうした特徴の変化は、長年の戦乱により国が官営工房を維持できなくなり、尚方は自力再生の為に独自ブランドとして多くの鏡を生産して一般に流通させた事が原因と考えられる。こうした「尚方鏡」の銘文は、尚方御鏡から尚方作に変わっている[54][注釈 5]。
紀元後60年頃から、尚方内に「青盖(せいしょう)」を雅号とするグループが生まれて獣帯鏡を製作し始める[56][57]。程なくして青盖は独立して「青盖鏡」の製作を始める。彼らは新たに浮彫式の盤龍文を創作し、獣帯鏡の鈕座[注釈 6]にこれを配した。さらにこれから獣帯文を省いて小型化した盤龍鏡を創作する。この立体的表現である浮彫式はやがて他の鏡式にも引き継がれてゆき、後漢鏡の特徴の一つとなる[59][60]。このように尚方から独立した鏡工グループは他に「銅槃(どうばん)」があり、また漆器などほかの工芸でも官営工房からの独立が見られることから、武器や馬具を除く工芸品の生産は国家が管理するのではなく、生産を民間に委託し税を納めさせる方式に変更されていったと考えられる[61][62][注釈 7]。
また同じころに個人工房が次々に立ち上がる。それらには池氏・張氏・陳氏・龍氏・杜氏などが挙げられるが、彼らは競うように獣帯鏡や盤龍鏡に独特な図像や銘文を取り入れる[64]。たとえば「龍氏作鏡」には、距虚、辟邪、天禄などと記される奇獣が現れるが、これらは80年代ごろから後漢の勢力下に入った西域諸国からもたらされた珍獣だと考えられている[65]。彼らは活動した淮南にちなみ、淮派と呼ばれる[64]。しかし、こうした個人工房は経営が苦しかったようで、一部は青盖系の工房と合作をするようになり、ほとんどの工房は1代限りで廃業したと考えられ、2世紀以降には淮派の活動は低調になる[66][67]。
淮派の影響を受けて呉県で工房を構えたのが朱氏・柏氏・何陽氏の呉派である。80年ごろに朱氏は新たに画像鏡を創作する[68][69]。建初8年(83年)と記された「呉朱氏作」画像鏡には西王母と対になって東王公が描かれているが、銅鏡以外に東王公が現れるのは壁画では2世紀半ば、文献資料では4世紀であり、東王公は朱氏の創作である可能性が高い[70]。また呉派では『史記』の伍子胥伝や、民間伝承と思われる韓朋賦の物語を表現した画像鏡が製作されている[71][72]。画像鏡は90年ごろから淮派でも作られるようになる[73]。なお、呉派も盤龍鏡を作成するが、その作風から彼らが淮南にいる鏡工の誰と交流を持っていたかが類推できるとされる。また、呉派の鏡に記される銘文の内容は文様と乖離していることも特徴である[74]。
四川でも1世紀末ごろから董氏や厳氏などの個人工房が独立する。四川は前漢時代からの銅の産地で、85年までは「蜀群西工造」という官営工房があったが、これが解体されて「広漢西蜀」などの民営工房や、個人工房が独立したと考えられる。この鏡工らを活動地に因んで広漢派といい、その系統の鏡群を「華西系」という[75][69]。広漢派は2世紀初頭に、新たに神獣鏡を創作する。最初につくられた神獣鏡は環状乳神獣鏡で、内区外縁に半円方形帯があるのが特徴である。半円方形帯は3世紀ごろまで様々な神獣鏡に用いられた。この方格には「吾作明竟」から始まる銘文が1字づつしるされるが、吾作は広漢派にみられる特徴でこれも3世紀ごろまで見られる[76]。神獣鏡は淮派や呉派の影響を受けているが、その銘文に「彫刻すること極まり無し」と記されるように、緻密な文様構成であることが特徴である[77]。また、同時期に広漢派が創作した鏡式として、八鳳鏡や獣首鏡がある。これらは神獣鏡の浮彫式とは異なり、平彫式であることが特徴で、その文様から黄河流域で流行した内行花文鏡の系譜を引くと考えられる[78]。
当初の神獣鏡は西王母と東王公と伯牙に神獣を合わせたの三神三獣であったが、2世紀中頃からはこれに黄帝が加わり四神四獣の構成となる。また同じころに外区に記されていた銘文帯を画文帯[注釈 8]に変えた画文帯神獣鏡が創作される[79]。190年を最後に広漢派は紀年銘鏡を作らなくなるが、これは後漢王朝が混乱期に入った煽りを受けたと考えられる[80]。当初の神獣鏡に描かれる神獣像は中央に頭を向けて描く「求心式」であったが、2世紀後半から内区を上中下の3段に分ける「三段式」が広漢派周辺で生まれる[81]。さらに長安付近にあったと推測される九子派の鏡工が、神獣を従える2神を対置に配する「対置式」を創出した[82]。2世紀に入ってから呉派の作鏡は衰えていたが、190年に洛陽が陥落するころから江南で九子派と思われる銅鏡が見られるようになる。このように混乱する北部から難を逃れて江南に移転した鏡工には、超禹(ちょうう)がいる[83]。その一方でそれに押し出されるように呉から転出した張氏元公や、都が許に遷ると紀年銘鏡を多く作る示氏などが、「同向式」や「重列式」など独創的な神獣鏡を製作した[84][85]。
主に画像鏡を製作していた淮派に2世紀代後葉に神獣鏡が伝わると、これを折衷する鏡工が現れる。その折衷は一様ではなく、画像鏡の銘文を継承しつつ画文帯神獣鏡を作成した劉氏や、画像鏡に神獣鏡的な画像配置を取り入れて新たに斜縁神獣鏡を創作した袁氏などがいる[86]。こうした鏡群はその製作地に因んで、岡村は「徐州系」[87]、上野祥史は「華北東部系」と呼んでいるが[88]、後漢末期に遼東太守の公孫度が山東半島に侵攻して支配し、公孫康が3世紀初めに朝鮮半島に帯方郡を設置すると、それを経由して徐州系漢鏡が畿内を中心として日本に流入するようになる[87][89]。
以上のように後漢鏡は淮河から長江流域を中心に発展したが、一方で黄河流域では前述したように内行花文鏡が主に流通していた。1世紀代は径面も大きく優れた鏡も作られたが、ほとんどが「長宜子孫」などの短い四言吉祥句を入れるのみで、作者や製作地を推測するのは困難である。2世紀になると黄河流域から出土する鏡は小型鏡が多くなり、戦乱の中で銅鏡製作が衰退したものと思われるが、入れ替わるように王侯用として鉄鏡が製作されるようになる[90]。
漢王朝滅亡後は、漢鏡の模倣を特徴とする漢式鏡づくりが行われた。3世紀から4世紀にかけて、方格規矩四神鏡や神獣鏡などの図像や配置を真似て異なる鏡をつくる創作模倣が盛んとなり、5世紀から6世紀には漢鏡の図像を踏み返しで型おこしした上で改変する踏み返し模倣がおこなわれた。これらは図像や配置の乱れ、逆字や同笵鏡の多さなどが特徴である[91]。
用途
漢鏡の主な用途は化粧道具である。紀元前2世紀後半ごろの馬王堆漢墓1号墓に埋葬された利蒼の夫人の副葬品には、墓記によれば2点の銅鏡があったが、うち1点が現存している。鈕[注釈 9]には深紅の帯が結ばれ、鏡衣(きょうい)と呼ばれる絹布で包まれ、漆奩(漆塗りの化粧箱)に白粉や毛抜きなどと共に納められていた[3][13]。化粧道具としての漢鏡は手鏡として持つ場合と、スタンドに掛ける場合があった[92]。またドレッサーのような銅鏡もある。前漢の斉王劉襄の墓から出土した銅鏡は高さ115㎝、幅58㎝、重さ57㎏で、鏡背には1頭の龍と4辺の縁に連弧文を描き、5つの鈕を備えている。こうした大型方形鏡はほとんど現存していないが、様々な文献に見られるものである[93][94]。
一方で魔除け・護符としても用いられた。紀元前113年に亡くなった劉勝の夫人は、化粧道具としての鏡とは別に面径5㎝の小さな龍文鏡を左手に握らされていた。『西京雑記』には妖怪を映し出す小さな鏡や、人の臓器を映す方鏡などの説話が記されており、銅鏡には魔除けや不思議な力があると考えられていた[93][95]。また、死者を辟邪から護るために鏡が用いられることもあった。紀元前1世紀後葉の墓には遺体を保護する目的に玉璧が用いられたが、これに変わって遺体の上に18枚の銅鏡が載せられている例がある[96]。また同時期に、遺体の頭部に漆の箱が被せられる風習があったが、箱の内部の天板と側板には銅鏡が鏡面を遺体側に向けて貼り付けられる例が確認されている[97][98]。こうした辟邪としての役割は、銅鏡と玉を同一視した事に由来すると考えられる[98]。
そのほか、婚姻など人生の節目に銅鏡を作る風習があったと思われる。後に編纂された『玉台新詠』には求愛の印に青銅鏡を送る詩があるが、漢鏡にも「良月吉日、造此倚物。二姓合好、堅如膠漆。女貞男聖、子孫充宝。」などの銘文が見られる[99]、また、政治的なプロパガンダや下賜する器物としても用いられた。こうした鏡は王家の徳を喧伝し、「この鏡を持つ者は繁栄する」など吉祥句が記されている[53]。
なお、一般に流通する鏡の値段について、ハーバード美術館群蔵の内行花文鏡にしるされる銘文の「竟直三百」を鏡1枚300銭の意味と解釈する説がある。300銭は後漢初期の下級官人の月俸と比べても安く、この銅鏡が「公孫作竟」というブランドであることを考えれば、もっと安価な銅鏡も流通していたと考えられる[100]。
製作法
漢代の銅鏡製作の研究は、1990年代に中国山東省臨淄から前漢時代の草葉文鏡の笵が発見され飛躍的に進展した[101]。
銅鏡は笵(はん)と呼ばれる鋳型に融解した青銅を流し込む鋳造によって製作されるが、その工程は笵製作・鋳造・研磨の3つに大別される。笵は砂と粘土を混合した真土(まね)を固めて作られ、鏡面側と鏡背側の2枚を合わせて使われる。三船温尚は笵製作の工程を以下のように推測している[101]。
- 真土で馬蹄形の板状笵材を成形して焼成し、油脂を含侵させる。
- 轆轤で、内区、外区、縁、鈕などを削り鏡背笵を作る。さらに鏡面笵と合わせた時にずれないよう嵌りを彫る。
- 鏡背笵に鏡面笵となる真土を押し付けて型を移し取る。移し取った鏡面笵を鏡の厚み分削る。
- 鏡背笵に文様などを陰刻し、湯道や上がりを彫る。
- 鈕に鈕孔となる棒(中子)を嵌めて、鏡面笵と合わせる。
鋳造後は、鋳バリなど除去し鏡面を磨いて完成となる[101]。また、少数ながら鏡背に鍍金や彩色などを施すものもある[102]。
以上のような製作技術の研究を受けて、2000年代からは湯口(融解した青銅を流し込む方向)や鈕孔の方向や形状、研磨の方法などの製作技術の変遷から銅鏡の製作時期を推測する研究が進み、従来の文様や銘文の変遷に頼っていた漢鏡編年が見直されつつある[103]。
原材料
銅鏡の原料は銅・スズ・鉛の合金である。銅は単体では橙赤色だが、錫の分量が多くなると白銀色になっていく[2]。前漢鏡は特に錫の分量が多く25%に及ぶものもある。鉛は平均して5%から6%含まれている。鉛は銅鉱石に含有していたものと、人為的に添加したものの割合が凡そ半々と考えられるが、鉛を人為的に添加する理由については定かではない[104][105]。
馬淵久夫は日本国内の漢鏡の成分を分析し、漢鏡に含まれる鉛の同位体比は、漢鏡2期から3期の鏡群と漢鏡6期の鏡群の間に明確な違いがあり、その中間にあたる漢鏡4期から5期は両者が混在しているとした。この変化の理由について、原料を調達する鉱床が変わった事を意味し、その移行期間はおおよそ1世紀半ばから後半と推測している[106][107]。なお、岡村は漢鏡5期の銘文に「有善銅出丹陽」が見られる事から、前漢時代の銅の産地は丹陽郡であると推測している[108][109]。
複製と模倣
銅鏡の中には、同じ文様で、同一の笵や型を用いて作られたと考えられる鏡がある。1つの笵を繰り返して使用して作ったものを「同笵鏡」、何らかの原型を作って複数の笵を作成して作ったものを「同型鏡」という。また、同型鏡の中には、完成品を用いて型取りした笵でつくられた「踏み返し鏡」もある。こうした同笵鏡・同型鏡は幅広い年代に見られるものだが、特に後漢末から三国期に多く作られた[110]。また、三国時代に作られた漢鏡と同じデザインを有する漢式鏡には、類似した文様などを改変した創作模倣鏡と呼ばれるものも含まれている。これらを判別するのは難しいが、模倣鏡や創作模倣鏡は漢鏡が有していた思想や文様・銘文などを理解せずに真似したものがあり、また踏み返し鏡は鋳上がりが悪く文様が曖昧になる傾向にある[111]。
注釈
- ^ 近世以降には銅とニッケルの合金を白銅と定義しているが、それ以前では青銅のなかでも特に錫の含有量が高く、25 %から30 %のものを白銅(white bronze)としていた。考古学など歴史的な分野においてはでは現在でもこの意味で白銅と言うことが多い。青銅の錫の含有量が増えると、色が10円硬貨のような赤みを帯びた色(赤銅色)から白銀色に変化し、硬く脆くなるという特徴がある[2]。
- ^ 不老長寿の仙人の実在を信じて、みずからも仙術によって仙人たらんことを願った思想[4]。
- ^ 出土地の最西端はアフガニスタンのティリヤ・テペ遺跡である[11]。
- ^ 岡村編年には細部について異論もあるが[36]、本記事では岡村案をそのまま記載する。
- ^ 尚方作の中には鋳上がりの悪いものもあり、民間工房が詐称したコピー品があるという説もある。また上方作と記す仮借もみられる[55]。
- ^ 鈕の周囲の高まり[58]。
- ^ 2世紀中葉ごろからは「尚方鏡」のなかに「董氏造作」など製作工房を示すと思われる銘文が現れるが、これらは尚方から委託されて個人工房などが製作した鏡と考えられる[63]。
- ^ 雲車に載る太一・三足烏をもつ日神・ヒキガエルをもつ月神・獣にのる仙人らが疾走する図像[79]。
- ^ 鏡背の中央にある盛り上がっている部分。紐を通す孔(鈕孔)が開けられている[58]。
- ^ 漢鏡3期が副葬される甕棺は、いずれも弥生時代中期後半の立岩式である[135]。
- ^ 出土した破片を集めて復元しても完形にならない事から、破片の抜き取りが行われた可能性が指摘されている[163]。
- ^ 破鏡として出土した鏡は、同じ鏡と思われる破片がひとつも特定できていない事も特徴である[168]。
- ^ 倭製鏡とは日本で製作された鏡の事。かつては真似た鏡を意味する仿製鏡(模倣鏡)と呼ばれたが、日本独自の特徴も見られる事から、倭製鏡と呼ばれるようになった[175][5]。
- ^ 過去には朝鮮半島南部で製作されたものが北部九州に流入したとする説もあったが[177]、日本での漢鏡需要の高さや三韓地域で銅鏡文化が根付かなかったことから、2000年代からは北部九州で生産されたものが朝鮮半島に輸出されたとする説が有力である[176]。
- ^ 画文帯神獣鏡は5世紀から6世紀の古墳からも出土するが、これは倭の五王時代の踏み返し鏡と考えられる[185]。
- ^ 画文帯神獣鏡の破鏡は九州のみで見られる[185]。
- ^ 漢鏡7期を3段階に分ける岡村説について、これを日本列島での分布を便宜的に分類したものに過ぎず編年を細分化するのは難しいとする説もある[186]。
出典
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