破砕鏡と破鏡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 14:20 UTC 版)
画像提供依頼:破鏡の写真の画像提供をお願いします。(2021年11月) 破砕鏡とは、副葬するにあたって完形であった銅鏡を故意に打ち割ったもので、この副葬法を破砕副葬と呼ぶ。この特徴は弥生時代後期から終末期に限定的に見られるもので、古墳時代には再び完形鏡の副葬が一般化する。破砕鏡の早い事例とされる佐賀県の二塚山遺跡では、漢鏡4期の銘帯鏡を破砕した上で破片を丁寧に重ねて副葬していた。そのため破砕鏡は佐賀平野で始まった風習であるとする説がある。また、後期後半以降には西日本から東海にかけて広い範囲で行われた。破砕鏡がみられる時期には、鉄器を折り曲げる副葬や土器を破砕する祭祀もみられ、何らかの埋葬作法が拡散共有された事が推測されている。 破鏡とは、銅鏡を打ち割り、破片の形で利用したと考えられるものである。破断面には研磨や懸垂するための穿孔などの2次加工やベンガラでの着彩したものもみられる。墓からの出土もみられるが、集落や住居あるいは包含層からの出土が多く、護符などの呪術的な用途が想定される。出土するのは2世紀代が中心で、割られた鏡は朝鮮半島製の鏡も見られるが、後漢鏡が大半を占める。破鏡は、漢鏡を割って分配したとする説や、破砕鏡から抜き取ったという説、大陸で青銅の原材料として流通していた破鏡が流入したとする説があるが特定には至っていない。破片は扇形あるいは半円形が多く、ある程度志向した可能性がある。その広がりについて岡村は、漢鏡5期の破鏡と北部九州産の弥生小型倭製鏡の分布が重なることから、北部九州で分割された破鏡が瀬戸内を経由して東へ広がったと推測している。なお、破鏡の利用は朝鮮半島や中央アジアにも類例が見られる。 こうした風習がなぜ生まれた理由について、研究者の見解は分かれている。田崎博之はこの時期も何らかの理由で漢鏡の流入量が減り、これを補うために破鏡が流通したとし、岡村は国内で漢鏡を保有する地域が広がり需要が高まった事から分割して水増ししたと推測し、藤丸詔八郎は葬祭儀礼の変化により破砕副葬が行われてその破片が配布されたとし、上野は漢鏡4期に大型鏡が流入しなくなり径面による序列を維持できなくなったことで、「漢鏡>破鏡・弥生小型倭製鏡」の新たな序列を生み出したと推測し、南健太郎は破鏡は繰り返し分割したものとして権力の分有を象徴するとしている。また古墳時代にこうした風習が見られなくなる点について、小山田宏一は神仙思想の理解が日本に浸透したことから、再び完形鏡の副葬が行われるようになったと推測している。
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