漢鏡 日本での歴史

漢鏡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/29 01:37 UTC 版)

日本での歴史

本節では日本における漢鏡・漢式鏡の出土状況と、それを元にした弥生時代と古墳時代の社会構造の考察について言及する。

日本で出土した漢鏡の総数は700枚を超えるとされている[117]。また、日本では漢鏡を含む銅鏡は、ひとつの墳墓に大量に副葬する例がみられる事が特徴のひとつである。中国では化粧道具であったため、一部の例外を除くと副葬は基本的には1人に1面が普通で、王侯であっても3面程度である。対して日本での大量副葬は、銅鏡が化粧道具以外の特別な意味を持っていた事が理由と考えられている[118]。また、中国の官営工房で作られたと思われる大型鏡も多い[45]。中国で流通した漢鏡の面径は13㎝程度が中心で、16㎝程度までは中級官僚クラスからの墓からも出土するが、18㎝以上の大型鏡は限られている[45][119]。このような大型鏡は一般に流通したものではなく、漢王朝から政治的、儀礼的に贈与されたものと考えられる[45]。また、弥生時代に破砕副葬や破鏡といった独特の風習もみられる[120][121]

漢鏡編年と暦年代

日本においても漢鏡の編年は有効であると考えられているが、伝世鏡・踏み返し鏡・模倣鏡も多く単純ではない[111]。代表的な伝世鏡は、香川県の石清尾山古墳群鶴尾神社4号墳から出土した漢鏡である。この墳墓は前方後円形の積石墓で、築年代は弥生時代末期とされるが、漢鏡4期の方格規矩四神鏡が出土した。鏡は2つに割れた後にそれを閉じ合わせる4対の補修孔があり、割れた後も補修して使用された特別な鏡であったと考えられている。また、文様や周縁が不鮮明なのは長期間の使用による摩滅とみられ、この鏡は200年に渡って伝世されたと考えられている[122][123]。このように遺構の年代と出土する漢鏡の製作年代が乖離している例は各地にみられるが、これらを伝世鏡ではなく後世に複製された踏み返し鏡とする説もある。実際に5世紀後半にみられる画文帯神獣鏡などは、300年ほど遡る漢鏡を原型とした踏み返し鏡であることが考古学的に確認されている[123]

また、漢鏡が日本に流入した時期についても見解が分かれる[124]。岡村は多くの漢鏡が製作時期とほぼ変わらない時期に日本に流入したとするが、寺沢薫は北部九州の甕棺と共伴する出土物の編年からこれに異を唱え[125][126][127]、辻田淳一郎は破砕副葬が見られない漢鏡7期の流入を3世紀後半としている[128]。これらの見極めは漢鏡の鏡式の編年だけでなく、鏡の原料の成分分析や製作技術、あるいは墓制、共伴する土器などの出土品、鉄器などの漢鏡以外の文物の流通など多角的に検討されるが、研究者によって見解が分かれているものもある[129][130][131]

弥生時代中期後半

日本の弥生時代の実年代は研究者によって幅があるが、ここでは紀元前1世紀代を弥生時代中期後半とする[132]。『漢書』の地理志・燕地に、倭人が楽浪に朝貢に来る記録が残されているように、この頃は衛氏楽浪を窓口とした前漢との交流により様々な文物が日本に流入したと考えられる[133]。漢鏡の出土は北部九州の墓地における副葬品に集中しており、それ以外では山口県下関などに限定される[134]。年代観としては漢鏡2期と3期が主である[39]。岡村はいずれの漢鏡も紀元前1世紀中頃から後半にかけて北部九州に伝来し、次世代に継承されることなくこれを得た人物の死に伴って副葬されたとするが[135]、辻田は北部九州で伝世したのちに一括して埋葬された可能性も否定できないとする[136]。また、完形鏡(完全な形で出土)であることも、この時代の特徴の一つである[134]

分布と社会構造

北部九州の墳墓は甕棺墓が広く見られるが、弥生時代中期後半では副葬品の内容から各地域同士で序列が生まれたと考えられる[134]。特に漢鏡の副葬は面径の大小や出土数に明確な序列が見られ、三雲南小路遺跡1号墓(伊都国)と須玖岡本遺跡D地点墓(奴国)を中心とした同心円的な秩序が見られ[134][137]、権威の象徴であった可能性がある[138]。突出しているのは、面径27.3㎝の超大型の彩画鏡(鏡背に彩色の文様を施した銅鏡)が出土する三雲南小路遺跡と、同時期の前漢の諸侯王の墓からも出土する面径23㎝の大型草葉文鏡が出土する須玖岡本遺跡で、2地域は漢王朝から破格の待遇を受けていたと考えられている。この事から岡村は、三雲・須玖の首長が楽浪郡に朝貢して前漢鏡が贈与されたとし、それを周辺の首長に分ける分配システムがあったとしている[139][45][11]。一方で辻田は、同時期の須玖は青銅器生産の中心地で、同地で生産された青銅器は三雲からも出土していることや、わずかに三雲から出土する漢鏡が優れることから、漢への朝貢は三雲が行い、須玖は青銅器生産を分担し、それぞれの文物を贈与・交換する相互関係があったと推定している[140]

ただし、こうした漢鏡の副葬はごく短い期間に行われたと考えられ[注釈 10]、継続して流入した可能性は低いとされる[136]。また、漢鏡の流通に現れる社会秩序は、北部九州という狭い地域に限定される。辻田はこうした様相から、基本的には弥生時代中期にみられる部族社会的な枠組みを出るものではなく、階層化社会の発現を示唆するものではないとする[141]

また、この時期の北部九州で出土する漢鏡3期は、朝鮮半島の出土品と比較しても面径が大きく、出土数も100面以上と際立って多い[142]。この点について岡村は、漢王朝の王化思想により、海を隔てた辺境からの朝貢は皇帝の徳の高さを示すものであった為、漢王朝から厚遇を受けたと推測している[143]

弥生時代後期から終末期

漢鏡4期から6期

前述のように弥生時代中期後半に漢鏡の副葬が行われたが、その後、一時的にこうした副葬は減少する。辻田はこれを、1世紀前半に大陸が混乱した影響で、漢鏡の流入量が減少したものと推測している。再び漢鏡の副葬が行われるのは弥生時代後期前半でも中頃に近いころである。この時期に出土するのは漢鏡5期が主体であることから、1世紀後半から2世紀にかけた期間とみられている[144]。弥生時代後期から終末期の特徴は漢鏡の破砕鏡・破鏡と、漢鏡を模倣した弥生小型倭製鏡の存在が挙げられる[120]。これらは出土状況から「破砕鏡>破鏡・弥生小型倭製鏡」の序列化が確認できる。また、漢鏡の分布は依然北部九州が中心であるが、範囲は東へ広がっている[145]

分布と変遷

出土地は佐賀県の桜馬場遺跡、三津永田遺跡、二塚山遺跡、福岡県の平原遺跡井原鑓溝遺跡、飯氏馬場遺跡、立石遺跡など北部九州が中心である[144]伊都国の有力地とされる井原鑓溝遺跡では21面以上の漢鏡4期の鏡が出土し、その中には王莽鏡が含まれていた。岡村は『漢書』王莽伝にある「東夷の王、大海を渡りて、国珍を奉ず」の記述との関連性を指摘し、1世紀第一四半期の王墓と推測している[146][147][148]。また、末盧国の有力地とされる桜馬場遺跡では大型の漢鏡4期の「尚方作」方格規矩四神鏡が出土しており、岡村は井原鑓溝遺跡と同時代としている[144][149]。一方で漢鏡4期では、以前みられたような大型鏡がなくなるのも特徴である[150][138]

井原鑓溝遺跡より降る伊都国王墓とされるのが平原遺跡1号墓である。ここでは漢鏡5期を中心に、4期と超大型鏡が破砕副葬されていた。平原遺跡の年代について意見は分かれているが、岡村は出土する漢鏡から弥生時代後期の紀元後1世紀後半としている[146][151][152]。これは『後漢書』東夷伝の紀元後57年にある奴国が朝貢を行い金印を授与された記述と時期が重なるが、この時期の奴国王の墳墓は発見されていない[153][154][152]。この頃は『後漢書』にあるように楽浪郡との交流が盛んであったと考えられ、漢鏡5期で漢鏡の出土数もピークを迎え、再び大型鏡も現れる[155][150]。ただし、平原遺跡1号墓を最後に古墳時代に至るまでの間は、1箇所に多量の鏡を副葬することがなくなる[150]

一方で数は減るものの分布範囲は東へと広がっており、瀬戸内経由で東日本まで分布が見られる。また、破鏡は北九州市周辺では副葬が顕著であるが、大分県内陸部では住居での廃棄が見られるなど、漢鏡の受容に地域差が見られることも特徴である[156][145]。その時期について岡村は、瀬戸内や北陸に漢鏡4期の破鏡が見られる事や、近畿で製作された弥生小型倭製鏡のモデルが漢鏡4期である点、またこれらが貨泉の出土地と重なる事から、紀元前後には漢鏡を含む舶来品が東へ流通していたとする[157]。また、下垣仁志は漢鏡4期・5期の中型・大型鏡の分布は近畿を中心とする減衰傾斜が見られる事に注目し、弥生時代末期後半ごろには流通の中心が近畿へ移動した可能性を指摘している[158][138]

漢鏡6期になると出土数が漸減する。このことは2世紀代に楽浪郡が衰退し朝鮮半島での出土数が減った傾向と合致している。また、大量に一括出土する例が少なくなり、分布は北部九州から瀬戸内にかけて帯状に広がるが、肥後・豊後・大和での出土数が減る。さらに漢鏡6期後半に限定すると、北部九州以外では見られなくなる。この時期は2世紀中頃とされ、倭国大乱との関連性が指摘されている[155][159]

社会構造と大陸との関係

このような漢鏡の分布を踏まえて、北部九州が他の地域集団に対して政治的に優位にあったか否かが問題となる[151]。この点について辻田は、北部九州に傑出した漢鏡がみられるものの、他地域との面径や面数などの序列化、あるいは同型鏡の贈与などが見られないとし、「北九州の権力者は楽浪郡側からは代表者と見られていたが、日本国内では同列的な地域関係とする二重構造」があったと推測している[151]。こうした状況から辻田は、漢鏡の日本への流入について、北部九州を仲介して他地域に流通したとする説と、北部九州の海人集団を水先案内人として各地域の代表者が使節団を組んで楽浪郡と交流したとする説の、二つの可能性があるとしている[160]

中国側から日本はどのように見られていたかという点も問題となる。上野祥史は、日本への漢鏡の流入は漢王朝の倭に対する評価を反映すると指摘した上で、漢鏡3期で大型鏡を得るなど前漢王朝では厚遇を受けたが、王莽が実権を握り外夷を冷遇したことで漢鏡4期では大型鏡が少なくなったとしている。また、後漢における倭の評価が回復して漢鏡5期では大型鏡もみられるが、後漢では2世紀前後から銅鏡よりも上位に置かれた鉄鏡の流入が著しく少ない事から、その評価が推し量れるとしている[161]。一方で東アジアでは内行花文鏡が重要視されていたと考えられ、平原遺跡から出土した超大型鏡を含めて多くが出土していることから、その待遇は低くないと考える説もある[162]

破砕鏡と破鏡

上段が内行花文鏡の破鏡。穴に紐を通し、ペンダントのように使用したと考えられる。
滋賀県立安土城考古博物館蔵。

破砕鏡とは、副葬するにあたって完形であった銅鏡を故意に打ち割ったもので、この副葬法を破砕副葬と呼ぶ[注釈 11]。この特徴は弥生時代後期から終末期に限定的に見られるもので、古墳時代には再び完形鏡の副葬が一般化する[120]。破砕鏡の早い事例とされる佐賀県の二塚山遺跡では、漢鏡4期の銘帯鏡を破砕した上で破片を丁寧に重ねて副葬していた[146][164]。そのため破砕鏡は佐賀平野で始まった風習であるとする説がある[165][146]。また、後期後半以降には西日本から東海にかけて広い範囲で行われた[166][146]。破砕鏡がみられる時期には、鉄器を折り曲げる副葬や土器を破砕する祭祀もみられ、何らかの埋葬作法が拡散共有された事が推測されている[167]

破鏡とは、銅鏡を打ち割り、破片の形で利用したと考えられるものである[注釈 12]。破断面には研磨や懸垂するための穿孔などの2次加工やベンガラでの着彩したものもみられる。墓からの出土もみられるが、集落や住居あるいは包含層からの出土が多く、護符などの呪術的な用途が想定される[169][120][170][145]。出土するのは2世紀代が中心で、割られた鏡は朝鮮半島製の鏡も見られるが、後漢鏡が大半を占める[170]。破鏡は、漢鏡を割って分配したとする説や、破砕鏡から抜き取ったという説、大陸で青銅の原材料として流通していた破鏡が流入したとする説があるが特定には至っていない[163]。破片は扇形あるいは半円形が多く、ある程度志向した可能性がある[170]。その広がりについて岡村は、漢鏡5期の破鏡と北部九州産の弥生小型倭製鏡の分布が重なることから、北部九州で分割された破鏡が瀬戸内を経由して東へ広がったと推測している[171]。なお、破鏡の利用は朝鮮半島や中央アジアにも類例が見られる[167]

こうした風習がなぜ生まれた理由について、研究者の見解は分かれている。田崎博之はこの時期も何らかの理由で漢鏡の流入量が減り、これを補うために破鏡が流通したとし[172][167]、岡村は国内で漢鏡を保有する地域が広がり需要が高まった事から分割して水増ししたと推測し、藤丸詔八郎は葬祭儀礼の変化により破砕副葬が行われてその破片が配布されたとし[165][173]、上野は漢鏡4期に大型鏡が流入しなくなり径面による序列を維持できなくなったことで、「漢鏡>破鏡・弥生小型倭製鏡」の新たな序列を生み出したと推測し[150]、南健太郎は破鏡は繰り返し分割したものとして権力の分有を象徴するとしている[174]。また古墳時代にこうした風習が見られなくなる点について、小山田宏一は神仙思想の理解が日本に浸透したことから、再び完形鏡の副葬が行われるようになったと推測している[167]

弥生小形倭製鏡

画像外部リンク
郷ノ木遺跡出土小形仿製鏡(文化遺産オンライン)

弥生時代後期前半からは漢鏡を模倣した小型の倭製鏡が生産される[注釈 13]。この鏡は漢鏡の不足を補うために製作されたと考えられ、鋳型は石製で文様も稚拙で[176]、スズの含有量も著しく少ない[7]。北部九州を中心に分散的に生産され、一部は朝鮮半島南部にも輸出された[注釈 14]。後期後半から終末期に至ると、生産は福岡県の須玖丘陵が中心となるが、近畿地方では土製鋳型での生産が行われた。弥生小型倭製鏡は面径7㎝から10㎝程度で、副葬もみられるが集落や住宅から出土することが多く、漢鏡(破鏡)とは用途が異なったと考えられる[176]。南は、小型倭製鏡を権威の象徴ではなく通交関係を示すものとしたうえで、儀礼的に用いられたと推測している[178]。また、こうした漢鏡の模倣は古墳時代でも行われたが、技術的に両者は連続していないとされる[179]

鏡式としては異字体銘帯鏡を模倣したもので、内行花文鏡系と重圏文系に大別される。南は、文様や銘文の字体の検証により、第1期(漢鏡2期から3期の影響)から第4期(漢鏡6期の影響)に分類し[180]、その生産・流通時期は漢鏡の流通と並行関係にあると推測している[181]

古墳時代初期

漢鏡7期

古墳時代初頭になると、漢鏡の分布の中心が北部九州から近畿に移動する[182]。減っていた出土数も回復し、破砕鏡や破鏡などの風習も見られなくなる[183]。また、漢鏡は古墳時代初期にもみられるが、これに続く三国鏡は弥生時代の遺跡からは殆ど出土しておらず、古墳時代の開始年代を考える指標の一つになると考えられている[29]

分布の変化と流通した時期

漢鏡7期第1段階には減っていた出土数も回復する。その分布は北部九州から瀬戸内・山陰を経て近畿まで帯状に広がり関東までみられるが、その中心は北部九州にはなく、北部九州を含めた西日本に均等に分散している。さらに漢鏡7期第2段階には、その中心が近畿に移動する[183][184]。その変化は劇的に進行したとされ、辻田はその年代の上限を3世紀第2四半期に絞れるとしている[182]

漢鏡7期第1段階に日本に流入したのは徐州系の漢鏡である。その分布は朝鮮半島にもみられるが、日本に際立って多い[11]。漢鏡7期第2段階にあたる画文帯神獣鏡は、初期古墳からの出土が過半を占める[注釈 15]。奈良盆地東南部の桜井茶臼山古墳大和天神山古墳がそれぞれ4枚と多く、兵庫県西求女塚古墳・大阪府和泉黄金塚古墳・香川県雨滝山奥14号墳の2枚がこれに続く。一方で九州では、完形鏡が1枚のみで破鏡が3枚である[注釈 16][注釈 17]。この分布傾向は前方後円墳の分布傾向と合致し、画文帯神獣鏡は近畿から配布された可能性が高いと考えられている[185][128]

前述のような画文帯神獣鏡の配布がいつ行われたかは、邪馬台国論争と絡んで、専門家の意見は一致していない。上野は、三角縁神獣鏡が古墳時代初期に近畿から配布された事を念頭に、この近畿からの銅鏡の配布が弥生時代終末期に遡れるか否かによって見解が分かれているとする[124][186][126]。岡村は、漢鏡7期第1段階は各地の首長が独自に入手したが、漢鏡7期第2段階には近畿地方にヤマト王権が出現して各地に画文帯神獣鏡を配布が行われ、その時期を弥生時代終末期とした[128][185][186][187]。また福永伸哉は、第1期・第2期共に近畿中央政権が入手し、大型の画文帯神獣鏡を高く格付けしつつ配布したとする[187]。一方で辻田は岡村説を遡上の論理と批判。2000年代の鉄器類の研究から近畿地方に政治的中心性が現れるのは古墳時代中期と見なされるようになっているとしたうえで、弥生時代末期に少数の画文帯神獣鏡が北部九州に流入して破鏡にされ、近畿地方から分配された画文帯神獣鏡が完形鏡である点から、近畿へ流入時期を古墳時代初頭以降と推測している[128][186][187]

編年の隔たり

「青龍三年」銘方格規矩四神鏡
今城塚古代歴史館

一方では古墳から出土する漢鏡は時代が降る三角縁神獣鏡と共伴する例が少なくない。例えば京都府椿井大塚山古墳は32面の三角縁神獣鏡と共に漢鏡5期の鏡が出土している[188]。このように古い鏡式の漢鏡と、共伴する遺物や古墳の築年代に隔たりがある状況をどのように解釈するかも、古代史において重要なテーマとなっている[189]。1920年代までは古墳から出土する漢鏡の編年に重きを置いて、古墳の築造年代を後漢代まで遡るとする説もあった。1933年の梅原末治の研究によって、長期におよぶ伝世が行われたことで漢鏡の製作年代とそれが副葬される年代に差があると考えられるようになった。これを受けて1955年に小林行雄は、古墳から出土する後漢鏡を弥生時代から伝世した首長権の象徴となった鏡とする伝世鏡論を発表。考古学界では長らくこの仮説の賛否が議論された[190]。1994年にはの年号である青龍3年(235年)銘の漢鏡5期を模倣した方格規矩四神鏡が発見され、これにより古墳時代には漢鏡を模倣して作られた魏晋鏡が日本に流入したことが確認された[191]。また、立木修や南健太郎は古墳時代の漢鏡は踏み返し鏡である可能性を指摘している。これらを踏まえて辻田は、古墳に副葬される漢鏡(漢式鏡)には、弥生時代から伝世した漢鏡・漢鏡の踏み返し鏡・復古された魏晋鏡が混在していると推測している[192]

また、鏡の伝世が行われたとする説も、何処で伝世したかについては意見が分かれている。下垣は、2010年代に挙げられている説を以下の5つに分類している[193][194]

  1. 大陸で鋳造されてすぐに日本の諸地域に流入し、そこで長期間伝世したのちに副葬された。(岡村秀典・岸本直文)
  2. 大陸で鋳造されてすぐに北部九州に流入して長期間伝世したのち、各地に流通し副葬された。(柳田康雄)
  3. 大陸で鋳造されてすぐに北部九州に流入して長期間伝世したのち、近畿に一括して移動して、それが各地に分配され副葬された。(甘粕健・大賀克彦・下垣仁志)
  4. 大陸で鋳造されて長期間伝世したのち、古墳時代に各地に流入し副葬された。(辻田淳一郎)
  5. 古墳時代に大陸、あるいは国内で鋳造された踏み返し鏡・模倣鏡などが、各地に流入し副葬された。(立木修・寺沢薫)

注釈

  1. ^ 近世以降にはニッケルの合金を白銅と定義しているが、それ以前では青銅のなかでも特にの含有量が高く、25 %から30 %のものを白銅(white bronze)としていた。考古学など歴史的な分野においてはでは現在でもこの意味で白銅と言うことが多い。青銅の錫の含有量が増えると、色が10円硬貨のような赤みを帯びた色(赤銅色)から白銀色に変化し、硬く脆くなるという特徴がある[2]
  2. ^ 不老長寿の仙人の実在を信じて、みずからも仙術によって仙人たらんことを願った思想[4]
  3. ^ 出土地の最西端はアフガニスタンのティリヤ・テペ遺跡である[11]
  4. ^ 岡村編年には細部について異論もあるが[36]、本記事では岡村案をそのまま記載する。
  5. ^ 尚方作の中には鋳上がりの悪いものもあり、民間工房が詐称したコピー品があるという説もある。また上方作と記す仮借もみられる[55]
  6. ^ 鈕の周囲の高まり[58]
  7. ^ 2世紀中葉ごろからは「尚方鏡」のなかに「董氏造作」など製作工房を示すと思われる銘文が現れるが、これらは尚方から委託されて個人工房などが製作した鏡と考えられる[63]
  8. ^ 雲車に載る太一三足烏をもつ日神・ヒキガエルをもつ月神・獣にのる仙人らが疾走する図像[79]
  9. ^ 鏡背の中央にある盛り上がっている部分。紐を通す孔(鈕孔)が開けられている[58]
  10. ^ 漢鏡3期が副葬される甕棺は、いずれも弥生時代中期後半の立岩式である[135]
  11. ^ 出土した破片を集めて復元しても完形にならない事から、破片の抜き取りが行われた可能性が指摘されている[163]
  12. ^ 破鏡として出土した鏡は、同じ鏡と思われる破片がひとつも特定できていない事も特徴である[168]
  13. ^ 倭製鏡とは日本で製作された鏡の事。かつては真似た鏡を意味する仿製鏡(模倣鏡)と呼ばれたが、日本独自の特徴も見られる事から、倭製鏡と呼ばれるようになった[175][5]
  14. ^ 過去には朝鮮半島南部で製作されたものが北部九州に流入したとする説もあったが[177]、日本での漢鏡需要の高さや三韓地域で銅鏡文化が根付かなかったことから、2000年代からは北部九州で生産されたものが朝鮮半島に輸出されたとする説が有力である[176]
  15. ^ 画文帯神獣鏡は5世紀から6世紀の古墳からも出土するが、これは倭の五王時代の踏み返し鏡と考えられる[185]
  16. ^ 画文帯神獣鏡の破鏡は九州のみで見られる[185]
  17. ^ 漢鏡7期を3段階に分ける岡村説について、これを日本列島での分布を便宜的に分類したものに過ぎず編年を細分化するのは難しいとする説もある[186]

出典

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