武田信玄 研究

武田信玄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 07:59 UTC 版)

研究

肖像画

吉良頼康
九品仏浄真寺蔵)
従来信玄像とされた能登畠山氏像
(模写、原典は成慶院所蔵)

信玄の肖像画は同時代のものが複数存在し、和歌山県持明院所蔵の『絹本著色武田晴信像』、高野山成慶院所蔵の長谷川等伯筆『絹本著色武田信玄像』(重要文化財)が知られる。

前者は信玄の供養のため奉納されたと伝わる肖像画で、青年期の晴信が烏帽子直垂という武家の正装姿で描かれており、直垂には武田家当主・甲斐守護職であることを示す花菱紋が描かれている。後者は、勝頼が武田氏の菩提所である成慶院に奉納したと伝わる肖像画で、壮年期のふっくらとした姿で頭部にはがあり、や目貫に足利将軍家家紋「二引両紋」のある脇差が描かれている。三条家とも関わりのある絵師・長谷川等伯によって描かれ、信玄正室の三条夫人の叔父を描いた『日堯上人像』と同時期に描かれている。また、高野山成慶院には信玄の弟信廉が描き勝頼が奉納したとされる肖像があったとされ、原本は伝存していないが写が現存している。

同時代では、信玄は肖像画以外に不動明王のイメージで自らを描かせているが、イメージは不確定であった。江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行し、軍配を持ち赤法衣と諏訪法性すわほっしょうの兜に象徴される法師武者姿としてのイメージが確立し、狩野探信柳沢吉里(柳沢吉保の嫡男)により描かれた信玄個人の肖像画[61]や武田二十四将図、歌舞伎浄瑠璃の演目『本朝廿四孝』、これを描いた役者絵武者絵などにおいて定着した。明治期もこの流れを引き継いでいるが、顔貌の描き方は統一されていなかった。しかし、松平定信編纂の『集古十種』(寛政12年(1800年刊))で既に成慶院本が「武田信玄像」として紹介されており、これが明治40年頃に東京帝国大学が発行した教育用掛図の中に採用されて普及し始め[62]、今なお信玄の一般的なイメージとして知られている。甲府駅前や塩山駅前に建てられている銅像なども、そのイメージは成慶院本がモデルとされた。

ところが、歴史学者藤本正行は、

  • 勝頼の書状には像の図様が書かれておらず、成慶院本がそれに当たるか判別できない。
  • 成慶院本は、『集古十種』以前に信玄像として扱われたことはなく、また『集古十種』にはしばしば誤りがある。
  • 信玄の末子信清の家系である米沢武田家の史料に、成慶院の肖像は逍遙軒筆とあり、等伯が描いた現在の成慶院本と矛盾する。
  • 39歳で出家し剃髪したにもかかわらず、後鬢が残されている。
  • 服や刀の家紋が武田花菱紋でなく、二引両紋(足利氏畠山氏)である。旧説支持者は足利将軍家からの下賜品と解釈するが、もしそうならばより権威が高く贈答品に用いられ肖像画の作例も多い桐紋が相応しく、また自家の家紋が全く描かれていないのは不可解である。
  • (持病の)労咳や癌で死んだと言われる割には、身体がふっくらしている。
  • 右側に止まっているは、当時の甲斐ではあまり見られない鳥種であった。
  • 絵師は能登出身の長谷川等伯であることは間違いないが、この時期に能登から出た形跡が無く、信玄との接点は薄い。旧説支持者からは多くの仮説が出されているが、どれも成慶院本を信玄像とすることを前提としており、史料的な裏付けもない。

などの疑問点から、成慶院本の像主は能登畠山家の誰か、特に畠山義続の可能性が高いという説を出している。そのため、最近の教科書では成慶院本の画像は使われず、もっぱら持明院本の画像が採用されることが多い。なお藤本によれば、花菱紋が大量に描かれ、具足の描き方などが時代的によく合っているという論拠から、東京都世田谷区浄真寺所蔵の『伝吉良頼康像』こそが、本来成慶院にあった逍遙軒の描いた信玄像の忠実な模本であるという。また、江戸期に描かれた他の模本類でも、前述の高野山成慶院にあったという逍遥軒筆の信玄像は、この『伝吉良頼康像』に類似する[63][64]。更に信玄の法名「徳栄軒」と、畠山義綱の戒名「興禅院華岳徳栄大居士」に注目し、元々成慶院本に付属していた箱書きや讃文に書かれていたであろう「徳栄」の文字が、後世の人々に信玄像と誤認させたのでは、という指摘もある[65][注釈 24]。しかし美術史家からは、肖像は描かれた状況からどう描いたかを考えるべきで、図像から像主を判断するのは順序が逆だとして、こうした見方に反対する意見も根強い[66]。しかし、こうした反論は説得性を欠き、もはや決着はついたとする研究者もいる[67]

武田菱

甲府市章の菱形は武田菱を由来とする。

武田菱は、甲州武田家の家紋である。菱形を4つ合わせた形状であり、知名度が高い。元々は「割菱紋」と呼ばれたが、江戸期に大量に描かれた信玄像で信玄を表す家紋として使われたため、「武田菱」の呼び名が定着した。ただし、前述のように信玄のような武田家の総領は、実際には割菱紋ではなく花菱紋を用いており、注意を要する。旧甲斐国の山梨県では、甲府駅から一般家屋に至るまであらゆる場所に武田菱が見られる。なおこの意匠は、山梨県警機動隊の車両などの装備品に用いており、JR東日本特急あずさ」「かいじ」に使われたE257系のデザインにも取り入れていた。

また、広島県立祇園北高等学校は、校舎が武田氏の傍流安芸武田氏の居城佐東銀山城のあった武田山の麓に立地していることにちなみ、校章には武田菱があしらわれている。同じ広島県の呉武田学園武田中学校・高等学校は、安芸武田氏の末裔が設立した学校である事から、この学校の校章は武田菱をモデルとした校章を採用している。

長野県の白馬連峰山麓にある白馬五竜スキー場などの名称「五竜」は「御料」もしくは「御菱」が変化したものであり、雪解けの季節に武田菱に似た模様が山肌に現れるため武田家の「御料」と定められ(もしくは武田家の「御菱」ということから)、それが「五竜」と変化した、とする巷談がある。詳しくは「五竜岳」の項目参照。

なお、皇居で行われる新年一般参賀や天皇誕生日の一般参賀において使用される宮殿・長和殿のベランダ(天皇皇族らが立つ位置)周辺に武田菱と同じ紋様が存在するが、これは古くから宮中の調度、装束に用いられているもので、甲州武田家とは無関係である(宮内庁広報係の回答より)。

風林火山

風林火山の旗が有名である為、信玄の代名詞とされる事がしばしば見られる。

「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」

諏訪明神の加護を信じて「南無諏方南宮法性上下大明神(なむすわなんぐうほっしょうかみしもだいみょうじん)」が同時に使われている。


注釈

  1. ^ 『甲陽軍鑑』では幼名「太郎」に加え「勝千代」とも呼ばれたとされる。
  2. ^ 信玄の幼名は確実な史料では「太郎」であるが、『甲陽軍鑑』によればこの時の勝利に因み「勝千代(かつちよ)」とも名付けられたという。信玄は後世に英雄視されていることから出生伝説もつくられた。『甲陽軍鑑』や『武田三代記』などによれば、信玄誕生の折、産屋の上に一条の雲がたなびき白旗の風に翻るように見えたが、それが消えた時、一双の白鷹が3日間も産屋にとまったとされる。このため、諏訪明神の神使が若君(信玄)を守護してくれるのだと末頼もしく思ったとされている。別の話では、信虎が陣中で休息している時、曾我時致が自分の子になる夢を見て、その時に信玄が生まれたとされている。
  3. ^ 福島勢の侵攻・信玄出生に関しては『高白斎記』『王代記』ともに『山梨県史』資料編資料編6中世3上(県内記録)など。
  4. ^ 信虎追放に関しては『勝山記』や『塩山向岳禅庵小年代記』など甲斐国内史料に記される信虎の対外侵攻の軍役や凶作に際しての重税など「悪行」を原因としていることから、『甲斐国志』による合意による隠居であったとする説、今川義元との共謀説などの諸説ある。『甲陽軍鑑』では追放の原因を不和とし、晴信は嫡男として遇されていたが、信虎との関係は険悪化しており、天文7年(1538年正月元旦祝いの時、信虎は晴信には盃をささず、弟の信繁にだけ盃をさしたという逸話を記している。平山優は隣国の経済制裁(路次封鎖)や凶作による食料の高騰が、大飢饉のあった天文10年に深刻化したのを原因として国内の「代替わり徳政」を求める声に晴信が対応したとする。一方で信虎期の甲斐国衆は信昌・信縄期の内紛をきっかけとして今川氏や諏訪氏などの隣国の大名の傘下に入っており、甲斐一国を平定しようとすると国衆の救援を名目とする隣国との対外戦争や経済制裁は避けられなかった側面があるとして、それらを単純な信虎の「悪行」とみなすことは出来ないとしている[8]
  5. ^ 信虎期からの外交方針の転換については、晴信が官途名を「左京大夫」から「大膳大夫」に改称していることにも象徴されていると指摘される[9]
  6. ^ 晴信は天文10年6月に信虎を追放し家督を相続しているが、同年5月の海野平の戦いで小県を追われた海野棟綱は、信濃の隣国である上野に拠する関東管領上杉憲政を頼った。同年7月に憲政は信濃佐久郡へ侵攻し、当時の諏訪領主であった諏訪頼重は、同盟相手である武田・小県郡村上氏へ断りをせず、独断で上杉方と和睦して、所領の分割を行っている(『神使御頭之日記』)。晴信の諏訪侵攻はこの翌年に行われていることから、諏訪侵攻の背景には信濃・上野地域における外交情勢が関係していると考えられている[10]
  7. ^ 勝山記』によれば晴信は小田井原で討ち取った約3,000人の首級を夜のうちに志賀城の周りに打ち立てる。志賀城の城兵はこれを見て戦意を阻喪し、8月10日正午に外曲輪、深夜には二の曲輪に火を掛け城兵を追い詰め、翌11日正午頃に志賀城は陥落。笠原清繁を甲斐衆の萩原弥右衛門が、高田憲頼を諏訪衆の小井弖越前守が討ち取り、城兵三百余が戦死した。笠原清繁の妻は小山田信有が貰い受けた。さらに残った女子供と奉公の男は人質として2貫文から10貫文という法外な値を要求し、大半は黒川金山の坑夫や娼婦奴婢として人身売買されたという。
  8. ^ なお、『勝山記』天文24年条に拠ればこの時、鉄砲300挺、弓800張が動員されたとしており、武田氏の合戦においてはじめて鉄砲の使用が確認される記事として注目されている。
  9. ^ 鴨川達夫は「神田孝平氏所蔵文書」に含まれた足利義輝宛の手紙を根拠に、信濃守護補任が数年遡る可能性を指摘している[12]
  10. ^ 『戦武』 - 664号。なお『甲陽軍鑑』では出家時期を天文20年2月とするが、文書上からは否定されるほか、出家時期を策彦周良宛の手紙(『山梨県史』資料編5、二六一七)を根拠に、永禄元年12月とする説も提示されている[13][14]
  11. ^ ただし、天文年間後期(小田井原の戦い以降)には甘楽郡の上野市河氏や国峯小幡氏は既に武田氏に帰属している[17]
  12. ^ 武田氏の外交を錯綜させた原因の一つとして、当時武田氏に従属しながら織田氏とも結んで斎藤氏に反抗し、更に今川氏の勢力圏である三河の加茂郡・設楽郡への進出を止めようとしなかった美濃遠山氏の独自行動に振り回される形になっていたのも一因と考えられる。また、下条氏など一部の信濃国衆も以前より美濃に進出して信玄もその所領を安堵していたことから、信玄としては斎藤氏の封じ込めに参加せざるを得なくなっていた[19]
  13. ^ 義信事件の経緯は不明であるが、永禄8年10月15日には義信傅役の飯富虎昌が処刑[21]、事件から二年後の永禄10年10月19日には甲府東光寺で義信が病死[22][23]。しており、事件後には領国の動揺を沈静化させるためであると考えられている文書が発給されている。嫡男の義信は正室が今川氏真の妹で武田家においても親今川派の人物であったと考えられており、義信事件の背景には今川氏との外交関係を巡る武田家内部の事情が関係していると考えられている[24]
  14. ^ 駿河侵攻の経緯については第一次駿河侵攻を参照。
  15. ^ 武田氏の領国拡大過程において、天文23年の南信地方伊那郡制圧において、東美濃国衆遠山氏が武田方に帰属しており、この頃から尾張隣国である美濃斎藤氏との緊張関係が発生している。弘治2年4月には斎藤氏と信長の抗争が勃発し、武田氏は遠山氏を介して美濃情勢に介入しており、このころから織田氏との外交関係がもたれていたと考えられている。
  16. ^ 元亀2年、信玄は甲相同盟を背景に大規模な遠江・三河への侵攻を開始したとされているが、近年では元亀2年の三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている[27][28]
  17. ^ 信長は甲越和与の調停中で武田との友好的関係は保たれており、元亀3年の軍事行動は手切の通告がなされない突然のものであったと考えられている。また、義昭が信長の討伐を決意したのは信玄の甲府進発後とする説もある。
  18. ^ 元亀3年の軍事行動の経緯については西上作戦を参照。
  19. ^ 信玄の死因に関しては、侍医御宿監物書状(『戦武』 - 2638号)にみられる持病の労咳肺結核)、肺炎、『甲陽軍鑑』による胃癌若しくは食道癌による病死説が指摘される。江戸時代には新井白石藩翰譜』において三河野田城攻城における狙撃が元で死去したとする説を記しているほか、近代には地方病として蔓延した日本住血吸虫病に死因を求める見解も生まれている。
  20. ^ 「此の世を生きるには、世の中の流れに身を任せるべきなのだ。見せ掛けで生きてはいけない。自分を飾らず本心で生きるのが一番良い事だ。」
  21. ^ 山県昌景のこと。
  22. ^ 義信事件から二年後の永禄10年11月、武田義信の正室(今川義元の娘、嶺松院)は、兄である氏真が北条氏を通じて嶺松院を帰国させるよう要請し、のちに娘と共に駿河へ帰国した。今川に戻った嶺松院は出家し、貞春尼と称す。その後、貞春尼は徳川秀忠の御介錯上臈(武家嫡男の教育を取り仕切る女性家老)として徳川家に仕えている。
  23. ^ 信玄没後百五十回忌に吉里が奉納した。
  24. ^ なお同論文では、像主が畠山徳栄であると共に、切り取られたという賛の筆者が徳栄だった可能性を指摘している。
  25. ^ なお同論文は、近年の武田氏研究を総括し、今後の課題を述べている。

出典

  1. ^ a b 奥野 1959, p. 21.
  2. ^ a b c d 奥野 1959, p. 264.
  3. ^ a b c d e f 磯貝 1977, p. 343.
  4. ^ a b 勝山記』『山資』6所載による。
  5. ^ 磯貝 1977, p. 53.
  6. ^ 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、34頁。ISBN 978-4-404-03423-6 
  7. ^ 『高白斎記』に拠る。「信」は武田氏の通字
  8. ^ 平山優『武田信虎 覆される「悪逆無道」説』戎光祥出版<中世武士選書・42>、2019年 ISBN 978-4-86403-335-0 p.249-263・354-356.
  9. ^ 秋山敬「武田氏の国人被官化過程と政権意識」『甲斐武田氏と国人』(高志書院、2003年)
  10. ^ 平山優『川中島の戦い』学習研究社、2002年。  (上巻) ISBN 4059011266 (下巻) ISBN 4059011347
  11. ^ 小川雄「一五五〇年代の東美濃・奥三河情勢-武田氏・今川氏・織田氏・斎藤氏の関係を中心として」(初出:『武田氏研究』47号(2013年)/『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) ISBN 978-4-86403-325-1) 2019年、P287-292.
  12. ^ 鴨川達夫『日本史リブレット人043 武田信玄と毛利元就 思いがけない巨大な勢力圏山川出版社、2011年、57-60頁、ISBN 978-4-634-54843-5
  13. ^ 鴨志田智啓「武田信玄呼称の初見文書について」 『戦国史研究』60号、2010年
  14. ^ 鴨川達夫『日本史リブレット人043 武田信玄と毛利元就 思いがけない巨大な勢力圏』山川出版社、2011年、60頁
  15. ^ a b c d 平山 2002, p. 154[出典無効]
  16. ^ 平山 2002, p. 155[出典無効]
  17. ^ 黒田基樹 著「天文期の山内上杉氏と武田氏」、柴辻俊六 編『戦国大名武田氏の役と家臣』岩田書院、2012年。ISBN 978-4-87294-713-7 /所収:黒田基樹『戦国期 山内上杉氏の研究』岩田書院、2013年。ISBN 978-4-87294-786-1 
  18. ^ 西上野侵攻については、柴辻俊六「武田信玄の関東計略と西上野支配」『戦国大名武田氏領の支配構造』。
  19. ^ 小川雄「一五五〇年代の東美濃・奥三河情勢-武田氏・今川氏・織田氏・斎藤氏の関係を中心として」(初出:『武田氏研究』47号(2013年)/所収:大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) ISBN 978-4-86403-325-1) 2019年、P284-304.
  20. ^ 丸島和洋 著「信玄の拡大戦略 戦争・外交・同盟」、柴辻俊六 編『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年。ISBN 9784404035141 
  21. ^ 丸島和洋「高野山成慶院『甲斐国供養帳』-『過去帳(甲州月牌帳)』」『武田氏研究』第34号、2006年。 
  22. ^ 平山優氏「切腹だったのか、病死だったのか、これまで二説に分かれていましたが、このほど大河ドラマ『真田丸』でも時代考証を担当されていた黒田基樹氏により新史料が発掘されまして病死だという事が明らかになりました」 NHK大河ドラマ「どうする家康」コラム 大河と歴史の裏話『文化人としての 武田信玄・今川義元を描く』2023年6月25日https://www.nhk.or.jp/ieyasu/column/19.html
  23. ^ 『「時代を駆け抜けた戦国武将たち~武田信玄の新研究・義信事件を考える」講師は、2016年NHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当された駿河台大学教授の黒田基樹先生。重要史料によれば、義信は病死であった。これにより事件の背景や事件への信玄の処置についての理解は、大きく考え直さなければならない。事件について新たな見解を提示し、真実に迫る。』武田信玄の新研究【NHKカルチャーオンデマンド講座】2022年4月22日
  24. ^ 義信事件については平山優「武田勝頼の再評価」『新府城と武田勝頼』(山梨県韮崎市教育委員会、2001年)、丸島 (2008)
  25. ^ 「甲越和与」の経緯については丸島和洋「甲越和与の発掘と越相同盟」『戦国遺文武田氏編 月報』6
  26. ^ 柴辻俊六「越相同盟と武田氏の武蔵侵攻」『戦国期武田氏領の展開』
  27. ^ 鴨川達夫『武田信玄と勝頼』〈岩波新書〉2009年。 
  28. ^ 柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007年。 
  29. ^ 谷口克広『信長と将軍義昭―提携から追放、包囲網へ―』(中央公論新社、 2014年)p116
  30. ^ 谷口克広『信長と将軍義昭―提携から追放、包囲網へ―』(中央公論新社、 2014年)p117
  31. ^ a b 奥野 1959, p. 266.
  32. ^ 官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。
  33. ^ 武田信玄生誕500年 ファンらが思いをはせる集い 山梨”. 毎日新聞. 2021年11月7日閲覧。
  34. ^ 柴辻俊六「戦国大名自筆文書の考察-武田信玄を事例として-」『山梨県史研究』第5号、1997年。
  35. ^ 黒田基樹「武田信玄と詩歌会・連歌会」『山梨県史』通史編2中世
  36. ^ 平山優「武田信玄の人間像」 (『戦国遺文』(武田氏編第3巻月報、2003年)、『戦遺』1-510。「山梨県立図書館: 武田信玄の次男(竜宝・竜芳)は目が不自由だったというが、生まれつきのものか、病気によるものか。」 米沢市立図書館『歴代古案』弘治二年武田晴信願文写
  37. ^ 武田晴信(信玄)願文:富士御室浅間神社所蔵 弘治3年(1557年)、永禄9年(1566年)の二通
  38. ^ 浅倉直美「北条氏政正室黄梅院殿と北条氏直」『武田氏研究』第59号(武田史研究会、2019年1月)P1-13. 黒田基樹「総論 北条氏直の研究」『シリーズ・中世関東武士の研究 第二九巻 北条氏直』P9-12.
  39. ^ 海老名真治「氏康と武田信玄-第一次甲相同盟の展開-」『北条氏康とその時代』P296-297.
  40. ^ 永禄6年(1563年)『笛吹市 二之宮 美和神社所蔵』 山梨文化財リスト(有形文化財:絵画) 笛吹市:板絵著色三十六歌仙図【県指定】【御坂】 東京文化財研究所:年紀資料
  41. ^ 平山優「武田信玄の人間像」 『戦国遺文月報』武田氏編第3巻、2003
  42. ^ 以自筆染密書候、抑義信者、今川殿之為忘父子之契約候、晴信者五郎殿之為伯父候、其上従長窪以来、至于今度武篇被成候也、数ヶ度顕懇切之筋目候得共、如此等閑者いかさまにも果候、疎候擬不信便候間、今度井上帰国之砌被致直談、此砌従氏康越中之国切無事之扱可然段可被申渡候歟、如何不可過工夫候、爰元にてハ和睦之沙汰態一切停止之可有其心得候、為其以模糊之書状申宣候、謹言、 七月十六日    晴信(花押影)
  43. ^ 武田氏研究50号 戦国遺文武田氏編 補遺15「武田晴信書状写」「雑録追加」石川県立図書館所蔵
  44. ^ a b 「飯富兵部少輔所行を以て、信玄・義信の間相妨たぐべき陰謀露見候条、生害を加えられ候。父子間の事は、元来別条無く候。心易かるべく候」
  45. ^ 比翼連理(比翼の鳥)。相思相愛の仲や夫婦仲の睦まじい例え。
  46. ^ 上野晴朗『信玄の妻―円光院三条夫人』新人物往来社、1990年 180〜186頁。『三条夫人葬儀目録』
  47. ^ 元和元年(1615年)「刀八毘沙門天、勝軍地蔵尊縁起」二世明院玄昉
  48. ^ a b c d e 柴辻(2006)、p.135[出典無効]
  49. ^ a b c d 平山 2006, p. 64
  50. ^ 柴辻(2006)、p.134[出典無効]
  51. ^ a b 平山 2006, pp. 65–66
  52. ^ a b c d e f 平山 2006, p. 66
  53. ^ a b c 平山 2006, p. 65
  54. ^ a b 平山 2006, p. 67
  55. ^ 『山梨県史 通史編2 中世』、p.339
  56. ^ 柴辻(2006)、p.136[出典無効]
  57. ^ 宮本義己「知られざる戦国武将の「健康術と医療」」『歴史人』8巻9号、2017年。 
  58. ^ 【独自】信玄のまわりに家臣88人ずらり…24人が一般的だが「類例のない構図」
  59. ^ フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 3』講談社、2003年。 
  60. ^ 黒田基樹『戦国大名と外様国衆』文献出版、1997年、134頁。ISBN 4-8305-1192-3 
  61. ^ 狩野探信(狩野探幽の長男)筆『武田信玄画像』 山梨・大泉寺蔵、絹本著色、正徳5年(1715年)。柳沢吉里筆 『武田信玄画像』 山梨・恵林寺蔵(武田信玄公宝物館保管展示)、絹本著色、甲州市指定文化財、享保8年(1723年[注釈 23]
  62. ^ 石川博 「信玄伝説 由緒と図像」(『よみがえる武田信玄の世界 山梨県立博物館開館記念特別展』図録、山梨県立博物館、2006年)
  63. ^ 例えば、東京大学史料編纂所所蔵の模本(画像)など。
  64. ^ 藤本正行『武田信玄像の謎』吉川弘文館歴史文化ライブラリー 206〉、2006年。 
  65. ^ 落合謙暁「土佐家伝来の伝足利義政像について」(『日本歴史』772号、2012年9月号)31頁
  66. ^ 松嶋雅人「長谷川等伯─信春時代における諸問題」『東京国立博物館紀要』43号、2007年。 
  67. ^ 柴辻俊六「最近の武田氏研究と信濃」『信濃』第66巻第11号、2014年、815頁。 [注釈 25]
  68. ^ 信玄公宝物館(2019年4月13日閲覧)。
  69. ^ 甲府市武田氏館跡(やかたあと)歴史館(平成31年4月5日オープン) 甲府市ホームページ(2019年4月13日閲覧)。






武田信玄と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「武田信玄」の関連用語

武田信玄のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



武田信玄のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの武田信玄 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS