ジャン=リュック・ゴダール 生涯

ジャン=リュック・ゴダール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/15 23:40 UTC 版)

生涯

1930年代 - 1950年代
ゴダールのサイン

1930年12月3日、フランス・パリ7区コニャック=ジェ通り (Rue Cognacq-Jay) 2番地に生まれる[4]。父方[注 1]平和主義を信念に第一次世界大戦さなかの1916年にスイスジュネーヴ近郊に移住した。母方はジュネーヴ在住のフランス系プロテスタントの著名一族で、母方祖父はBNPパリバ創業者の一人である。少年期のジャンは1940年のパリ陥落時まではパリにいたが、同年にブルターニュの伯母方に移ってからフランスを横切りスイスに移動した。

スイスヴォー州ニヨンコレージュを出た後、バカロレアのためにパリに戻りパリ15区リセ・ビュッフォン (fr) に入学した。しかし、勉学に身が入らずバカロレアに落第した。1948年にスイスのエコール・レマニア (fr) に移ったが2度目も落第、1949年に3度目でバカロレアに通りその年の秋からパリ大学に通った。その間、父の病気が原因で両親は離婚した。またこの年、モーリス・シェレール(エリック・ロメール)の主催する「シネクラブ・デュ・カルティエ・ラタン」に参加、ジャック・リヴェットフランソワ・トリュフォージャン・ドマルキらと出会う。1949年ジャン・コクトーアンドレ・バザン主催「呪われた映画祭」に参加。

1950年5月、モーリス・シェレール編集『ラ・ガゼット・デュ・シネマ』創刊(同年11月廃刊)、執筆参加(ハンス・リュカス名義)。またこの年、ジャック・リヴェットの習作短編第2作『ル・カドリーユ』に主演する。

1951年4月、アンドレ・バザン編集『カイエ・デュ・シネマ』創刊、のちに執筆に参加。また同年エリック・ロメールの習作短編第2作『紹介、またはシャルロットとステーキ』に主演する。

1954年、習作短編第1作『コンクリート作業』を脚本・監督。1958年までにトリュフォーとの共同監督作品『水の話』を含めた数本の短編を撮る。

1960年代
満願寺溝口健二の墓参り(1966年5月4日)

1960年3月、初の長編映画『勝手にしやがれ』が公開[5]ジョルジュ・ド・ボールガール製作。ジャン・ヴィゴ賞ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞した。同年3月末から5月末にかけて[注 2]スイスのジュネーヴで長編第2作『小さな兵隊』を撮影(公開は1963年)[7]

1961年3月3日、『小さな兵隊』に主演女優として出演したアンナ・カリーナと結婚。同年7月、『女は女である』でベルリン国際映画祭銀熊賞受賞。

1964年、アンナ・カリーナと独立プロダクション「アヌーシュカ・フィルム」( - 1972年)設立。設立第1作は『はなればなれに』。同年12月、カリーナと離婚[8][9]

1965年7月、『アルファヴィル』でベルリン国際映画祭金熊賞受賞。同年11月、『気狂いピエロ』一般公開。

1966年4月28日、初来日する。ミシェル・ボワロン監督の『OSS117/東京の切札』の撮影のため滞日中のマリナ・ヴラディと会い、次回作の出演を依頼すること、『カイエ・デュ・シネマ』の依頼で羽仁進今村昌平にインタビューすることが主な目的だった[10]。ゴダールは、日本では公開されていなかった『アルファヴィル』『気狂いピエロ』『男性・女性』の3作のフィルムを持参しており[11]、そのうち『男性・女性』が5月7日に東京国立近代美術館で特別に上映された。上映後、ゴダールは質疑に応じた[10][12]。日本を発つまでの11日間のゴダールの動きは以下のとおり[10]

4月28日 18時40分羽田空港着。帝国ホテルに宿泊。
4月29日 ドライブ。晴海ふ頭の立ち入り禁止区域に乗り入れる。
4月30日 羽仁進の『アンデスの花嫁』を鑑賞。
マリナ・ヴラディと会見。
5月1日 を鑑賞。
5月2日 アーサー・ペンの『逃亡地帯』を鑑賞。
蔵原惟繕と会い、公開を阻まれている『愛の渇き』の話を聞く。
『カイエ・デュ・シネマ』の依頼で羽仁進をインタビュー。
5月3日 公開前の『愛の渇き』を鑑賞。
浜美枝と会食。17時、新幹線で京都へ出発。
5月4日 依田義賢の案内で満願寺溝口健二の墓参り。
東山の料亭で撮影中の『OSS117/東京の切札』のロケ現場を見学。
5月5日 保津川下りを体験。
5月6日 日本テレビの『南ベトナム海兵大隊戦記・第一部』(1965年)を見たいと同局に交渉するも不成立。
今村昌平のインタビューは互いに時間が取れず中止。夜、成城の浜美枝の自宅でパーティー。
5月7日 今村の『にっぽん昆虫記』を日活の試写室で鑑賞。
東京国立近代美術館で『男性・女性』の特別上映会。上映後、質疑に応じる。
5月8日 今村の『「エロ事師たち」より 人類学入門』を鑑賞。
22時30分発の日航機で羽田を発つ。

1967年7月22日、『中国女』に主演したアンヌ・ヴィアゼムスキーと結婚( - 1979年離婚)。同年8月、商業映画との決別宣言文を発表。

1968年5月、五月革命のさなかの第21回カンヌ国際映画祭に、映画監督フランソワ・トリュフォー[注 3]クロード・ルルーシュルイ・マルらとともに乗りこみ各賞選出を中止に追い込む。同年、ジャン=ピエール・ゴランらと「ジガ・ヴェルトフ集団」を結成。匿名性のもとに映画の集団製作を行う。

1970年代

1971年、オートバイ事故に遭う。

1972年イヴ・モンタンジェーン・フォンダを主役に、ジャン=ピエール・ラッサム製作、仏伊合作『万事快調』をジガ・ヴェルトフ集団として撮る。本作にスチルカメラマンとして参加したアンヌ=マリー・ミエヴィルと出逢い、製作会社「ソニマージュ」を設立( - 1982年)、『ジェーンへの手紙』を同社で製作、完成をもってジガ・ヴェルトフ集団を解散。

1973年、ミエヴィルとともに拠点をパリからグルノーブルに移す。1974年、ミエヴィルとの脚本共同執筆第1作『パート2』を監督。以降、ミエヴィルとの共同作業でビデオ映画を数本手がける。

1979年、ミエヴィルとともに拠点をグルノーブルからスイス・ヴォー州ロールに移し、アラン・サルド製作による『勝手に逃げろ/人生』で商業映画への復帰を果たす。製作会社「JLGフィルム」を設立( - 1998年)。

1980年代 - 1990年代

1982年、『パッション』を脚本・監督。「ソニマージュ」社は「JLGフィルム」社らと本作を共同製作したのちに活動停止。

1983年、『カルメンという名の女』により第40回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を獲得。

1987年、『右側に気をつけろ』によりルイ・デリュック賞を受賞。

1989年、『ゴダールの映画史』の第1章と第2章とを発表。

1990年、「JLGフィルム」社が『映画史』以外の活動を停止するにともない、ミエヴィルとの新会社「ペリフェリア」を設立。

2000年代 - 2020年代

2002年日本高松宮殿下記念世界文化賞受賞。

2006年、パリのポンピドゥー・センターで初の個展が開かれる。同会場での上映のための映画『真の偽造パスポート』(Vrai-faux passeport)を製作・脚本・監督。

2010年第83回 アカデミー名誉賞を受賞[13][14]

2018年第71回カンヌ国際映画祭で、「スペシャル・パルム・ドール」を受賞(カンヌ国際映画祭粉砕事件50周年を記念した特別賞であり、コンペ最高賞のパルム・ドールや、名誉賞のパルム・ドール・ドヌールとは異なる)[15]

2022年9月13日、死去。91歳没。ゴダールは日常生活に支障を来す疾患を複数患っており、居住しているスイスで「判断能力があり利己的な動機を持たない人」に対して合法化されている「自殺幇助」(安楽死)を選択。医師から処方された薬物を使用し亡くなったと伝えられている[16][17][18]


注釈

  1. ^ 父親の父方はシェール県、母方は北フランスノール県カトー=カンブレジの出。
  2. ^ コリン・マッケイブの『ゴダール伝』には「4月4日から5月初めまで」と記されている[6]
  3. ^ 「暗くなるまでこの恋を」など多くの作品を監督した
  4. ^ アナーキストを題材に取ったフランス以外の映画としては、マーロン・ブランド主演の『蛇皮の服を着た男』(1960年、アメリカ)がある。
  5. ^ なお、この映画は本来ならレコーディングは完了せずに終る予定であり、未完であることにこそ本質的な意味があるとゴダールは考えていたのであるが、制作者側の商業的な意図により作品の最後で完成した「悪魔を憐れむ歌」が挿入されてしまった。この作品はゴダールが活動資金稼ぎを目的として制作されたもので、中期に位置するものの商業映画(イギリス資本)としてゴダールの署名で制作されている。

出典

  1. ^ 映画監督ゴダール氏死去、ヌーベルバーグ「勝手にしやがれ」 仏報道”. Yahoo!ニュース (2022年9月13日). 2022年9月13日閲覧。
  2. ^ Brody, R. , Everything Is Cinema: The Working Life of Jean-Luc Godard (2008); Boslaugh, Sarah, and Boslaugh. "Godard, Jean–Luc (1930–)." Encyclopedia of the Sixties: A Decade of Culture and Counterculture, edited by James S. Baugess, and Abbe Allen DeBolt, Greenwood, 1st edition, 2011.
  3. ^ Morrey, Douglas. Jean-Luc Godard. Manchester University Press Manchester, 2005.
  4. ^ ジャン・リュック・ゴダール 2023年2月4日閲覧
  5. ^ a b 勝手にしやがれ - IMDb(英語)
  6. ^ マッケイブ 2007.
  7. ^ ベルガラ 2012, pp. 678–679.
  8. ^ Thomson, David (2019年12月16日). “Journey to the end of the beach: Godard, Karina and Pierrot le fou” (英語). Sight & Sound. 2023年8月19日閲覧。
  9. ^ Hudson, David (2019年12月17日). “Unforgettable Anna Karina” (英語). The Criterion Collection. 2023年1月12日閲覧。
  10. ^ a b c 柴田駿白井佳夫「ゴダール監督の日本の10日間」 『キネマ旬報』1966年6月上旬号、50-54頁。
  11. ^ 『映画評論』1966年7月号、7頁、「日本にやってきたゴダール」。
  12. ^ 『映画評論』1966年7月号、68-72頁、「ゴダールへの質問状」。
  13. ^ ジャン=リュック・ゴダール監督、アカデミー賞名誉賞授賞式の欠席を正式表明!”. シネマトゥデイ (2010年10月26日). 2017年10月1日閲覧。
  14. ^ ゴダールの授賞式欠席が決定 米アカデミーの説得むなしく”. 映画.com (2010年10月27日). 2017年10月1日閲覧。
  15. ^ ““スペシャル・パルムドール”受賞のゴダールがビデオ通話で会見!カンヌ受賞結果一覧”. Movie Walker. (2018年5月20日). https://moviewalker.jp/news/article/147438/ 2018年11月2日閲覧。 
  16. ^ 映画監督のゴダール氏死去 「勝手にしやがれ」など手がける 仏報道”. 朝日新聞デジタル. 2022年9月13日閲覧。
  17. ^ Disparition Mort de Jean-Luc Godard, histoire du cinéma”. リベラシオン. 2022年9月13日閲覧。
  18. ^ ゴダール監督、自殺ほう助での死選ぶ - AFPBB News 2022年9月13日
  19. ^ The film employed various techniques such as the innovative use of jump cuts ,//Brody, p. 69.
  20. ^ Pierrot le fou (1965) – JPBox-Office”. jpbox-office.com. 2023年1月30日閲覧。
  21. ^ Margaret Herrick Library, Academy of Motion Picture Arts and Sciences
  22. ^ a b c 史上初めて会期途中で映画祭が中止、カンヌを震撼させた「1968年」AFP, 2008年5月13日
  23. ^ Jean-Luc Godard: Documents, éditeur : Centre Georges Pompidou, Paris, 2006.
  24. ^ Shoard, Catherine (2014年5月24日). “Cannes 2014: Winter Sleep takes Palme d'Or in ceremony of upsets”. The Guardian. 2014年10月20日閲覧。






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フランスの脚本家 クロード・ド・ジヴレー  ニーノ・フランク  ジャン=リュック・ゴダール  アンリ・シャリエール  ルイ・ダカン
ヌーヴェルヴァーグの映画監督 ルイ・マル  クロード・ド・ジヴレー  ジャン=リュック・ゴダール  ジャン=ガブリエル・アルビコッコ  ジャン・ドゥーシェ
スイスの映画監督 アラン・タネール  アンヌ=マリー・ミエヴィル  ジャン=リュック・ゴダール  フランシス・ロイセール  イヴ・イェルサン
フランスの映画評論家 アンドレ・S・ラバルト  ジャン=ジョルジュ・オリオール  ニーノ・フランク  ジャン=リュック・ゴダール  ノエル・バーチ
スイスの脚本家 ダニエル・シュミット  クロード・ゴレッタ  アンヌ=マリー・ミエヴィル  ジャン=リュック・ゴダール  イヴ・イェルサン

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